2011年3月31日木曜日

2011.03.31 間奏19:東日本大震災


● 東日本大震災。とんでもない大災害だったことに地震の直後は気づかなかった。日にちが経つにつれて災害の全容が明らかになって,迂闊なぼくもやっと事の重大さに思い至った。
 弟が仙台にいる。泉区のマンションに住んでいるのだけれど,たいした被害はなかったと数日後に実家に連絡があった。被害の大きさはわが家より少なくてすんだらしい。

● ぼくの生活も震災後は大きく変化した。まず,休日がなくなった。さして重大な用務を果たしたわけでは全然ないんだけれど,職場に泊まり込むという経験を初めて味わうことができた。
 年度末で通常業務も立てこんだ。昨年とは様変わりだ。連日,残業を続けた。朝4時に起きて6時から職場で仕事にかかる。こういう早朝出勤も初めての経験だった。でもさほど苦にはならなかったですね。まぁ,年度末を何とか乗り切れた。

● わが家の被災もそれなりのものだったが,ぼくが不在を続けたので,ヨメが奮闘してくれた。散乱した瓦だけは指定された捨て場に二人で運ぶことができた。乗用車なので10往復くらいした。
 屋根の修理は3百万円ほどかかりそうだ。4社から見積もりを取った。こういうことは,この時点で専業主婦だったヨメがやってくれた。もちろんのこと,地震保険などには入っていない。しかし,家はそのまま住める状態で残り,思いでの品(ほとんどがパソコンに入っているが)も残り,家族全員が無事だったのだから,ツイていたのだと思う。
 家族を亡くしたのに被災後の処理に追われている人たちが大勢いるんだから。

● コンサートの中止も拡大してますね。3月4月の催行は中止せざるを得ないとしても,5月予定のコンサートもいくつか中止が決まっている。まずは,5月14日に予定されていた真岡市民交響楽団の定期演奏会。ホームの真岡市民会館が被災を受け,今のところ復旧のめどが立っていないためだ。団員たちが一番ガッカリしているだろうけど,ぼくも残念。
 21日開催予定だった自治医大管弦楽団の演奏会も中止。こちらは会場が栃木市なので,会場が被災したとは思えない。別の理由によるのだろう。

● それ以前に,この間,こちらの生活が普段とは別のものになった。コンサートなんてたとえ開催されていも行くことはかなわなかった。多くの人がそうだろう。
 こういうとき,いつものルーティンを継続できる人が強い人だと思うんだけど,ぼくは強い人たり得なかった。

2011.03.15 間奏18:東日本大震災


● とんでもない事態が発生しましたね。どうでしたか,被害は。
 地震のあとはすぐにケータイが使えなくなって,家にも連絡がつかなかったのだが,メールは大丈夫で,とりあえず家族の無事は確認できた。しかし,弟が仙台にいるのだが,こちらは確認できていない。14日現在で電話もケータイも(仙台には)つながらない。

● わが家も大きな被害を受けた。帰宅したらムスコが出てきて,靴のままあがれという。ガラスの破片が散らばっていて危険だから,と。瓦がだいぶ落ちていたのはわかったのだが,あとは電気も来ていないので確認しようもなかった。
 ムスコがいつになく饒舌で,いかに揺れたか,いかにこの家が地震に弱いかと力説した。おまえはそういうけれども,この家を建てたのはオレだぞ,そこまでいうかと,ムスコには言わなかったけれども,思ったくらい。

● 翌朝,ザッと見たところ,2階のタンスが倒れていたのと,1階の食器棚が中身共々壊滅状態。壁にヒビが入った箇所があり,壁の一部が落ちたところもある。ピアノが数十センチ動いていた。棚やカウンターに載っていたものはすべて落下しており,ガラス製品は欠片の集合体になった。
 せめてもの救いは水槽で魚を買うのをやめていたことだとヨメに話したら,じつは水入りの水槽がムスコの部屋にあったらしい。もちろん,壊滅した。

● 屋根の瓦は四方に散乱。逃げるのがもう少し遅れたら,瓦が自分の頭に落ちてきたかもしれないとヨメがいう。たしかに,危険だ。瓦屋根を修復するか,いっそスレート葺きにしてしまうか。
 天井が落ちるなんてのはなかったが,壁の2箇所に大きな亀裂が入った。細かいのを入れればもっと多いかもしれない。

● ぼくの書斎は一面に本が散乱。机のうえにあったスキャナやカラーボックスに入っていた外付けのハードディスクやソフトのCDなどがその中に埋もれていた。書庫の方は見る気にもならなかった。

● 電気と上水道がストップしており,ガス(プロパンだが)も使えない状態。風呂のボイラーもやられた。灯油タンクの脚が折れて,蓋がはずれて中の灯油が流れだしてしまったらしい。電話もつながらない。ケータイも依然としてつながらない状態(13日にはすべて復旧した)。

● わが家には塀がないのだが,大谷石のブロック塀の多くは崩壊していた。が,これも崩壊しないのもあって,職人の仕事がしっかりしていたんでしょうね。こういうことがあると,職人の仕事ぶりがハッキリする。次はあそこには頼まないっていうことになるんだろうなぁ。

● しかし,直すべきものは直さなければならない。地震保険なんて入っていなかったので,全額自費になる。予想外の出費だけれども,宮城や岩手の被害に比べれば,この程度ですんで良かったと思うしかない。命があっただけで感謝に値する,と。
 今回の地震で得た教訓のひとつは,要らざるモノは持たないに限るってこと。食器にしても本にしても各種の電気製品にしても,要らざるモノを持っていると,瓦礫が増えることになる。場合によっては,そうしたモノが危険を作る。

● そんな状態なのだが,ぼくは(ぼくに限らず,大人は誰でもそうだが)仕事には出なければならない。ヨメも事情をわかっているので,文句は言わない。
 信号も動いていないので,12日は自転車で出勤。

● 宇都宮とか壬生に住んでる同僚の話では,物的被害はほとんどなかったらしい。コップがひとつ割れた程度という。少し離れているとだいぶ違うのだね。

● 13日以降,福島原発で次々に起こる事故が大きく報道されていた。南三陸町の行方不明者1万人のニュースも。
 職場でもわが家でも電気と水道は復旧したが,日が経つほどに被害の甚大さが明らかになってくる。甚大という言葉では足りない。

● 14日の朝日新聞の一面に載った写真には胸を突かれた。「大津波で壊滅的な打撃を受けた宮城県名取市閖上地区で,道路に座り込んで涙を流す女性」の写真だ。茶髪の女性が長靴を脱いで道路に座りこみ,両手で太ももを抱え,ひとり泣いている。一瞬のうちに家族も失い,何もかも失って,なす術もなく,童女のように泣いている。後ろには文字どおりの瓦礫の山が。喪失感。茫然自失。世界に自分ひとりしかいない不安と恐怖。
 「恒成利幸撮影」とあるが,よくこんな写真を撮れたものだ。この光景を見つけて構図を決めたとき,恒成利幸氏はしめたと思ったに違いない。後世に残る1枚だと思う。
 この写真を素晴らしいと思う自分の中の酷薄さ。

● ここまでの惨事を見てしまうと,人生なんてうたかたの夢,生きてる間はせめて面白おかしく生きなきゃ損っていうふうに,ペシミスティックかつ刹那的な思いに染まりたくなる。
 でも,それはたぶん間違いなのだろう。新聞記事には津波の被災地で「でもみんなで元気になるためにも,下を向いていられない」と語る68歳の男性が登場する。この男性には「みんな」がいるのだ。こういう認識に至れる彼の脳の素晴らしさ。ぼくらが見習うべきは,こちらの方であることは間違いない。

● 12日(土)は宇都宮市文化会館で「青少年の自立を支える会コンサート」が,13日には総合文化センターでくろいそオペラを作る会の「メリー・ウィドウ」が,20日には教育会館で宇女高OGオーケストラの定期演奏会が行われる予定だったが,すべて中止か延期になった。
 「青少年の自立を支える会コンサート」では昨年も聴いた島田絵里さんのフルートをもう一度聴きたかった。宇女高OGオーケストラではモーツァルトのクラリネット協奏曲を聴けるはずだった。
 しかし,そうしたことは本当に小さな些事に過ぎない。東北の被災地の人たちを思えば,そんなことを言ってる場合か,と。
 しかし,こういう些細なことが生きる支えになってくれるのでもある。

2011.03.05 ナターシャ・グジー コンサート


さくら市喜連川公民館

● 5日(土)は午後2時からさくら市の喜連川公民館で,「ナターシャ・グジー コンサート」というのがあった。
 喜連川は中学生のときから馴染みがある街だ。子供が小さい時分はお丸山公園に何度も連れて行った。今でも市営温泉を利用させてもらっている。
 足利氏ゆかりの城下町で,城下町を偲ばせる遺稿がけっこう残されている。落ち着いたいい街だと思っている。街として地に足がついている。
 が,それだけでは人は住めなくなっているわけでねぇ。昔は誰もが喜連川の中だけで完結する生活をしていた。その頃に戻りたくたくても,もう戻れない。人は都会が好きだ。オーストラリアのように土地なんかいくらでもあるところでも,人々は都市を造って住んでいる。寄り集まって,人口圧を高めて。都市に住むことが人にとっては自然なのだと思うほかはない。
 人ごとではない。ぼくも同じだ。都会の刺激をまったく浴びることなく老後をやり過ごせるとは思っていない。

● 「ナターシャ・グジー コンサート」だけれども,ナターシャ・グジーとはウクライナ出身の女性シンガー。亡くなった本田美奈子のような位置にいるのかも。本田美奈子より広い音域を持っていて(とはいえ,本田美奈子はCDでしか聴いたことがないわけだが),特に高音はここまで高い音を出せるのかと驚いた。
 バンドゥーラという楽器を携えて伴奏に使う。ウクライナの民族楽器だそうだ。弦楽器なのだが,音はチェンバロに非常に近い。張られている弦の数は63本。抱えられるピアノといったところか。

● チェルノブイリの原発事故を体験している。彼女が言うには,事故は夜中にあった。当局からは何も知らされなかった。翌朝は誰もが普通に生活したらしい。子供たちは学校へ行き,大人たちは働きに出た。話があったのはその翌日。たいした事故ではないけれども,念のために,3日間だけ避難してくれ,3日で戻るから荷物は持たないで避難してくれ,と。しかし,3日経っても,半年経っても,20年経っても戻れる日は来なかった。

● 当時,彼女は6歳。20歳のときに来日し,以後,日本に住んで11年になる。だから日本語も達者で,日本の歌も歌った。さだまさしの「秋桜」と「防人の歌」も歌ってみせた。さだまさしが好きなんでしょうね。彼特有の言葉廻しもしっかり理解しているようだ。
 もちろん,ハットするほどの美人だが,ウクライナ女もロシアと同じで,若いときはほっそりとして抜けるように色が白くて,動かなければそのまま彫像になりそうな美人であっても,年を取るとドラム缶のように太る,のかなぁ。

● お客さんの平均年齢はだいぶ高い。間違いなくぼくの年齢を超えている。多いのはやっぱりおばちゃん。会場も田舎の公民館のホール。昔の温泉旅館の大広間を思わせる。ホールの佇まいと観客がピッタリ合っている感じがしました。

● しかし,聴きに行ってよかった。アンコール(アメイジング・グレイスだった)も含めて75分間のコンサート,きっちり楽しませてもらえた。先月の大蔵流狂言もそうだったけれど,今回の「ナターシャ・グジー コンサート」も無料催行とは,さくら市はなかなか太っ腹だ。