ラベル ニシグ 西口彰子 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ニシグ 西口彰子 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年6月23日水曜日

2021.06.15 西口彰子 ソプラノ・リサイタル

栃木県総合文化センター サブホール

● 総合文化センターの「ランチタイムコンサート」の,これが38回目になるらしい。開演は正午。約1時間のコンサート。
 チケットは1,000円。全席指定。使用する座席は半分に抑えているが,満席になった。当日券はなし(だったと思う)。
 平日の昼休みでこの状態になるのは驚きだ。しかも,ここは宇都宮なのだ。
 が,西口さん,お客を呼べるソプラノだから,かくもあろうかとチケットはだいぶ前に確保しておいた。

● ソプラノの魅力は那辺にあるかと考えてみたときに,ぼくはエリー・アーメリングを思いだす。といっても,そんなにたくさん聴いているわけではなくて,たとえばグリーグ「ペールギュント」の “ソルヴェイグの歌” だ。
 本当に落ち込むような事態に遭遇したときに,人は何をするか。まずは酒を飲んで気を紛らすと思うのだが,飲みに行く気力も湧いて来ないようなときはどうするか。
 エリー・アーメリングの “ソルヴェイグの歌” を聴くのはどうか。CDを取りだしてセットするのも億劫かもしれないけれども,そこはまぁ頑張ってもらうことにして。

● あの “ソルヴェイグの歌” は女神の調べだもんなぁ。どこが女神なのかといえば,結局は母性ということになってしまうかもしれない。ペールギュントのすべてを許すっていう。
 それゆえ,ソプラノの魅力は母性にあると言ってしまっては,いくら何でも短絡が過ぎるという誹りを免れないけれども,少なくとも男よりも女の方が神に近い場所にいることは間違いないだろう。

● 女が男に与え得るものは,そうした神的なもの,癒しであったり,励ましであったり,許しであったり,たくさんのものがあると思う。
 しかし,男は女に何を与えることができるか。ひと昔前なら経済的安定と言えたかもしれないが,もはやそういう時代ではない。男より稼げる女は佃煮にするほどいる。
 ぼくが思うに,男が女に与え得るものはたった1つしかない。それが何かといえば,“笑い” ではないか。男が女に与えられる快は “笑い” しかないと言い切ってしまっていいような気がする。

● それゆえ,女に “笑い” を届けることに意を尽くすべきでしょうね,男はね。笑わせることにおいて吝嗇であってはならない。あとは適度にスケベであればいい。
 女どうしで作る “笑い” は爛漫さに至るまで突き抜けることは少ないように思える。だから,バカバカしい “笑い” を提供することが,男が女にできる唯一かもしれない貢献だと心得て,一意専心励むべし。
 お笑い芸人がやたらモテるのも,つまるところは “笑い” の源泉を多量に持っていると思われているからではないですかね。
 換言すれば,それ以上に自分を縛る必要はない。大それたことは考えなくていいんですよ。

● さて,このリサイタルの副題は,「歌となったシェイクスピア,ゲーテの世界」となっている。曲目は次のとおり。
 モーツアルト すみれ
 シューベルト ガニュメート
 クィルター 来たれ,死よ
 プーランク Fancy
 グノー 歌劇「ロミオとジュリエット」より “私は夢に生きたい”

 ベッリーニ 歌劇「カプレーティ家とモンテッキ家」より “あぁ,幾たびか”
 グノー 歌劇「ファウスト」より “なんと美しいこの姿”

● 言葉を大事に扱いたいと,西口さんはおっしゃる。まず言葉があって,音楽はその後だ,と。
 どの言語でも,話し言葉は音楽を内包しているように思われる。アクセントやイントネーションはその萌芽だろう。
 日本語はすべての音素に同じ強さと同じ長さを与える言語だから,やや感じにくいけれども,リズムの原型も併せ持っていると見るのが妥当だろう。
 それら言葉が内包するものに反した曲を与えても,収まりが良くない。ポップスなんかはわかりやすくそうだと思う。

● しかし,オペラの場合は,日本語上演であっても字幕が欲しくなる。フランス人がフランス語のオペラを聴く場合でも同じではないか。
 言葉が内包する音楽性は問題にならない。たとえばヴィブラートがそんなものを軽くかき消してくれる。

● 西口さんが言われる言葉の大切さとは,だからそのような意味ではないのだと思うが,ではどういうことなのかといえば,確たることはわからない。言葉が指し示すものをしっかりイメージすることが大切だ,というあたりで受けとめておけばいいのだろうか。
 外国語ということもあって,ぼくらは言葉ではなく歌唱を受けとめることになる。言葉と歌唱の関係の深いところは,歌い手にしかわからないものだろう。

● ピアノ伴奏が黒岩航紀さんという豪華版。黒岩さんによるピアノソロが1曲。メンデルスゾーン「結婚行進曲」。
 1,000円で西口さんと黒岩さんの演奏が聴けるんだから,お得感はかなりのもの。それもチケット完売につながった理由の1つでしょう。

● ところで,真昼の栃木県総合文化センター。真夏日が去っていって,いや,いい気分。まことにもって,セブン! イレブン!!,・・・・・!! なのだった。
 これから梅雨がやってきて,鬱陶しい日が続くんだろうけど,今日の今日はいい気分を満喫したい。

2017年1月17日火曜日

2017.01.09 那須野が原ハーモニーホール ニューイヤーコンサート

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● このコンサートに出向くのは,これが4回目になる。正直,去年のを聴いて,もうこれで打ちどめにしようと思った。
 が,なぜか前売券を買っていた。なんでだろ。なんでだろって,その理由はわかっている。第2部の「カルメン」に惹かれたわけだ。それ以外に理由はない。

● 開演は午後2時半。チケットはS席が3,000円。A席が2,000円。S席チケットを買っていた。前から3列目。
 オーケストラが乗るわけではないから,かなり前でもいいかなと思ったんだけど,少ぉし前すぎたかもしれない。

● 第1部はオルガン+α。曲目は次のとおり。
 宮城道雄 春の海
 バッハ 古き年は過ぎ去り
 デュリュフレ スケルツォ
 フランク 英雄的小品
 フォーレ 夢のあとに
 山田耕筰 この道
 バーンスタイン 「ウエストサイドストーリー」より『トゥナイト』
 プッチーニ 「トゥーランドット」より『誰も寝てはならぬ』
 J.シュトラウスⅡ 美しき青きドナウ

● 最初の4つと最後の「美しき青きドナウ」はオルガンの独奏。奏者はジャン=フィリップ・メルカールト氏。このホールのオルガニストゆえ,もう何度も聴いている印象があるんだけど,実際に数えてみるとそうでもなかったりするかも。
 フォーレ「夢のあとに」は寺田功治さんのバリトンが加わる。というか,バリトンの伴奏をオルガンがする。
 山田耕筰「この道」には大貫裕子さんのソプラノ。「トゥナイト」と「誰も寝てはならぬ」には渡邉善行さんのトロンボーン。
 オルガンは単独で主役を張るより,伴奏に回った方が,持ち味を発揮する楽器ですか。そんな気がした。

● ところで,ぼくの隣にはおば様がいらっしゃったのだけど。そのおば様,途中からお休みになられたようで。気持ち良さそうに寝息を立てて。
 っていうか,寝息じゃないわ,イビキだわ。隣の席からイビキが聞こえてくるという。さすがにこれは初めての体験。

● コンサート会場で生演奏を聴きながら寝る,というのはかなり贅沢な体験になるのじゃないかと思う。生演奏を寝るために活用するというのは,コンサートの使い方としてはありなんじゃないかと思っている。
 奏者からすれば,ちょっとちょっとってことになるのかもしれないけど,そこはお金を払ってチケットを買っているんだから,他者の迷惑にならなければ,何をしようとかまわない。

● なんだけど,イビキは他者の迷惑になるようなのでした。起こすわけにもいかないし,困ったよ。
 結局,そのおば様,第2部は聴かずに帰っていかれたようなんだけど,なんでお出でになったのですかとお訊ねしたい。
 チケットを買った人が都合で行けなくなったので,代わりにあなた行ってきてよ,ってことになったのだろうか。それともご本人が行くつもりでチケットを買ったんだろうか。

● 万が一,後者だとすると,もったいないと思うなぁ。3,000円っていうのは,チケット代としてはけっこうな額になる。プロのオーケストラでも5,000円以上の値を付けるのは,わりと勇気がいるんじゃなかろうか。
 3,000円をこういうふうに使えるのは,太っ腹だ。しかも,第2部は捨ててしまったわけだから。

● さて,その第2部。歌劇「カルメン」のハイライトをコンサート形式で,ってことなんだけど,ステージにオーケストラがいるわけではない。ピアノが2台(御邊典一,御邊大介)と太鼓(岩下美香)があるだけだ。
 実際の印象はコンサート形式のオペラというよりは,著名な場面のアリアを集めたという感じ。アリア集といった趣だった。ハイライト演奏なんだから,当然そうなるんだろうけどね。

● だからダメというのではなくて,むしろ逆だ。かなり聴きごたえのある「カルメン」になった。第一の功績は,脇を演じた人たちにある。
 フラスキータの西口彰子さん,メルセデスの郷家暁子さん,ダンカイロの荒井雄貴さん,レメンダードの升島唯博さんの4人の功績。
 特に,西口さんと郷家さんの“華”は大したもので,聴衆の視線を最も集めていただろう。

● ミカエラの大貫裕子さんもチャーミング。実力も申し分ない。第3幕で,ホセに対する切ない気持ちを独白するするところなんか説得力,無類。
 劇中のミカエラは,田舎しか知らない17歳の娘。ホセの母に養われた孤児。ホセとは兄妹のように育った間柄で,ホセ母の覚えめでたく,ホセ母はホセとミカエラが結婚してくれることを望んでいる。
 それを受けて,はるばる故郷の村から,ホセに会うためにセビリアに出てくる。当時,田舎者が都会に出るには,それだけで相当な踏ん切りを要したはずだ。都会は危険の塊だったろうから。
 一途にホセを想う気持ち。ホセを連れ帰るためなら何でも差しだすという気迫。つまり,ミカエラは可憐なだけではない。覚悟を決めている強い乙女だ(女に覚悟を決められたら,男は太刀打ちできないはずなのだが)。
 リアルの世界にミカエラのような女性がいるはずはない。男性作家の空想の産物なんだけど,それを歌と演技と佇まい(それから衣装も大事でしょ,ここは)で表現しなければならない。
 大貫さんが歌ってみせたアリアは,そのひとつの回答。

● カルメンを演じたのは鳥木弥生さん。歌とか演技とか,オペラの本体をなすところについて,ぼくが申しあげるのは僭越というものだ。っていうか,不満は何もない。
 したがって枝葉末節を突っつく話になるんだけど,鳥木さんの顔って,良家の子女という感じ。幼稚園とか小学校の先生にいそうな。
 ということはつまり,カルメンに見えない。そこを衣装や髪型や化粧でカバーすることは充分にできるんだろうけど,ステージ上の鳥木さんはお嬢さん育ちで何不自由なく暮らしてきたよっていうイメージの女性なんだよね。
 何者にも頼らず(頼れず),自分の才覚と価値観だけで生きていくしかない,半ばストリート・チルドレン(チャイルドではないわけだが)のようなカルメンの野性味,凄味といったものを,こちらとしては想像力で付加していくしかない。

● エスカミーリョは闘牛士であり,花から花へと渡っていくドンファン的なところもある役柄だ。日本人でそれを演じきれる人なんて,そうそういない。日本に闘牛士なんてプロフェッションはないんだし。
 寺田功治さんも,熱演は充分に伝わってきたんだけど,闘牛士に見えない。
 オペラの見方はそういうものじゃないんでしょ。歌で役を支えることができていれば,それ以外のことは聴衆が想像力で補ってくれよ,ってことなんでしょ。
 だから想像力を掻きたてようとするんだけれども,けっこう難しい作業なんだな,これが。小さい頃からテレビで育ってしまっているから,画は与えられるものと脳が思いこんでいるのかもしれないんだ。

● ドン・ホセの役柄は,逆に一般的というかどこにでもいそうな,ちょっと困った男だ。ミカエラがいるのに,カルメンしか見えないという。
 とっくに自分に冷めてしまっているカルメンを,そうと知りながら殺してしまう熱情は,日本の風土には馴染まないかもしれないと思っていた。
 けれど,最近もこの種の殺人事件があったなぁ。こういうのって,洋の東西や時の古今を問わないんだなぁ。
 高田正人さんは丁寧にホセの内面を表現していて,危なげがない。実力のある人なのだろうな,と。

2016年12月28日水曜日

2016.12.23 Christmas Concert 2016 Fantastic4

栃木県総合文化センター サブホール

● 開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券を購入。主催者はThe Metropolitan Music。
 これを聴こうと思ったのは,出演者の一人が渡邊響子さんだったこと。今年の9月に「渡辺響子&南部由貴デュオリサイタル」を同じ栃木県総合文化センターのサブホールで聴いて,機会があればもう一度聴いておきたいと思ってた。

● その渡邊さんが一番バッターで登場。チャイコフスキーの「くるみ割り人形」から“おもちゃの兵隊の行進曲”や“花のワルツ”などいくつか。ピアノは滝本紘子さん。
 ぼくの鑑賞能力はライヴを聴くようになってからもほとんど変わっていない。低位安定。彼女の水準になれば,もうぼくの鑑賞能力を超える。誰の演奏も同じに聴こえる。
 ほかの人はどうなのだろう。渡邊さんの演奏とたとえば諏訪内さんの演奏をCDで聴いて,区別がつく人っているんだろうか。

● 次は滝本さんのピアノソロ。演奏したのは次の曲。
 モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」序曲
 モーツァルト トルコ行進曲
 チャイコフスキー 「四季」より“12月”
 カッチーニ アヴェ・マリア
 坂本龍一 戦場のメリークリスマス

● 今回のこのコンサートはクリスマスコンサートというくらいだから,肩の凝らない,よく知られた曲を選んでいるのだろう。聴く側が畏まったり構えたりしないですむような曲。
 けれども,ぼくなんかはわりと息をつめて聴くのが好きだったりする。クラシックとはそういうものだと刷りこまれているのかもしれないけれど。

● ところで。この部分は曲ごとに滝本さんのMCが入った。彼女の口から発せられる話し言葉のイントネーションが妙に懐かしいのだ。理由は考えるまでもなかった。栃木弁のイントネーションだったからだ。語尾が独特なわけだよね。
 彼女は茨城県の出身だったのだ。そうかぁ,ぼくらと同類かぁ。

● 群馬,栃木,茨城は北関東という括りで括られる。ところが,言葉に関する限り,群馬は栃木,茨城とは違っている。訛り方が別もの。
 その点,茨城と栃木はよく似ている。一衣帯水といってもいいのではないかと思う。地名は群馬が上野,栃木が下野なのに対して,茨城は下総と常陸。だけど,言葉からだけ判断すると,栃木は群馬より茨城に近い。

● 弘前の旅館に泊まったことがある。地元民どうしの話を聞いていると,意味不明ってことはけっしてないけれども,これも日本語なのかと思う程度には独特だ。が,彼や彼女がぼくと話すときには,標準語になる。東京人も喋らないような完璧な標準語。
 しかし,ぼくら北関東の人間は,どうやっても標準語を話すことはできない。栃木人や茨城人の中に,自分は標準語を話せると思っている人がもしいるとすれば,何の躊躇もなく断言しよう。それはキミの勘違いだよ。

● 次はソプラノの西口彰子さんが登場。ピアノは滝本さんで,滝本さん,ここまでずっと出ずっぱり。
 ヘンデル 「メサイア」より“喜べ,シオンの娘よ”
 エリック・サティ あなたが欲しい
 ドビュッシー 家のない子のクリスマス
 プッチーニ 「ラ・ボエーム」より“私が街を歩くと”
 フレデリック・ロウ 「マイ・フェア・レディ」より“踊り明かそう”

● 西口さんは美人で笑顔。声楽の人って,表情筋が発達しているというか柔らかいというか。職業柄だろうけどねぇ。
 美人で笑顔なんだから,天下に敵なし状態になる。客席からの支持も集めやすい。
 美人だ笑顔だっていうその前に,実力があってのことだけれどもね。

● 次はチェロの宮地晴彦さん。ピアノ伴奏は室塚佳子さん。曲目は次のとおり。
 チャイコフスキー アンダンテ・カンタービレ
 チャイコフスキー ノクターン
 チャイコフスキー 奇想的小品

● つまり,オールチャイコフスキー。「アンダンテ・カンタービレ」をチェロ&ピアノで聴くのは,これが初めて。
 Wikipediaの解説によれば,「チャイコフスキーの隣に座っていたトルストイは(この曲を聴いて)感動のあまり涙を流した」とある。こういうエピソードを知ると,そこまでの感性を持ちあわせていない自分を歯がゆくも思ったりするけれどね。このあたりはでも,しょうがないね。

● 弦楽四重奏曲第1番の第2楽章。クラシックの楽曲の中でも,よく知られた名曲ということになるのだろう。もちろん,CDで何度も聴いてはいる。
 が,高い水準の演奏を生で聴くのと,CDで聴くのとでは,やはり印象が違ってくる。ここでもやはり鑑賞能力の問題になるんだと思う。CDでビシッと印象を作れる能力の持ち主なら,ライヴは聴かなくてもいいのかもしれない。しかし,ぼくはその能力を持っていない。

● 最後は,西口,渡邊,宮地,滝本のオールキャストで,シューベルトの「鱒」。これも贅沢な体験になるでしょ。
 シューベルトが生きていた時代,彼を助けるというか彼を認める仲間がいて,シューベルトを囲んで小さな演奏会を開いていたらしい。そこで演じられていたのはこんな感じだったかと思いながら聴いた。

● 芸術を仰ぎ見る(仰ぎ聴く?)という感じではなかったんだと思うんですよね。むしろ,ポップスに対するがごとくの距離感だったのではないか,と。
 だとすると,ぼくらがそこまで距離を詰めるのはなかなかってことになりますかね。