すみだトリフォニーホール 大ホール
● 黄金週間に突入。実際のところ,黄金週間に暦のとおりに休める人と休めない人とではどちらが多いのか。後者ではないかと思うんだけど,ともかく黄金週間に突入だ。
ぼくは暦のとおりに休める派。で,黄金週間は前半が高揚する。後半になると,休み明けのことがチラつくようになるからね。その前半の終わりにこの演奏会。
● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入。曲目は次のとおり。指揮は藤本宏行さん。
メンデルスゾーン 序曲「フィンガルの洞窟」
ヒンデミット 交響曲「画家マティス」
ムソグルスキー(ラヴェル編) 組曲「展覧会の絵」
● この楽団も名声はかねてから聞いていた。アマオケの中でも相当に著名な楽団であるらしい。実力のほどは開始前のチューニングでわかる。
しかし,ダメだった。演奏ではなくて客席が。幼児というより乳児を連れてきていた夫婦が,確認できただけで2組。こういうのがいると気になって,注意がステージに集中しない。困ったものだ。
● 乳児をオーケストラの生演奏の音圧にさらすのは,わが子を拷問にかけるも同然だと思うんだが,どうしてここまでのバカが出てしまうのか。どちらも途中で退席したけれども,ぼくの見るところでは,この2組のために,この演奏会は5割方破壊された。
この時期はどうしても出てしまうかねぇ。気にしなければいいのかとも思うんだけど,乳児の泣き声っていうのはねぇ,気にしたくなくても気になるもので。
● この時期はどこに行っても混んでいる。どこに行っても乳幼児の泣き声は聞こえてくる。コンサートホールも例外であることは許されない?
対策として考えられるのは,チケット料金を2倍にすることと招待状の送付をやめることだ。集客にはマイナスに作用するだろうが,オーケストラの演奏会は,客席側だけに限っても複雑かつ危ういバランスの上に立っているもので,バカが一人でもいるとそのバランスが覆ってしまうのだ。
● とはいっても,それは楽団側に委ねる話だ。楽団には楽団の事情や考え方がある。
とすると,自衛策はひとつ。行かないことだ。この時期のコンサートには行かない。少なくとも,日中に開催されるものは避ける。かなり真剣に検討すべきかもなぁ。
今回の黄金週間では5月4日と5日にも予定している。これは予定どおり行くことにして,来年以降の検討課題(?)だねぇ。
● というわけなので,演奏の印象も非常に散漫になった。
今回のプログラムは,絵画的なるものを揃えたということだろうか。が,作曲家が曲を作りあげる動機になったのは絵画的なるものだったとしても,その作品が絵画的かどうかは別の話。
「フィンガルの洞窟」を聴いて,その光景を眼前に彷彿とさせられる人はおそらくいないだろう。音楽として受け入れる以上のことはなかなかできない。ベートーヴェンの「田園」のような例外はあるんだけど。
● 演奏は事前に耳にしていた評判どおりのもの。「展覧会の絵」の最後の盛りあがりは鳥肌もの。気を抜いてしまったか,ポカも見せてくれたけれど,愛嬌の範囲内。
次は泣き声の聞こえてこない普通の環境で聴いてみたい。今回は聴いたうちに入らない。
約2時間のコンサートが終了した直後の満足感は,他のものでは代替できません。この世に音楽というものが存在すること。演奏の才に恵まれた人たちが,時間と費用を惜しまずに技を磨いていること。その鍛錬の成果をぼくたちの前で惜しみなく披露してくれること。そうしたことが重なって,ぼくの2時間が存在します。ありがたい世の中に生きていると痛感します。 主には,ぼくの地元である栃木県で開催される,クラシック音楽コンサートの記録になります。
2018年4月30日月曜日
2018.04.29 矢板東高等学校合唱部・吹奏楽部 第15回プロムナードコンサート
矢板市文化会館 大ホール
● 4年連続4回目の拝聴。開演は午後1時半(ただし,プレ演奏あり)。入場無料。
● 構成は例年のとおり。第1部が合唱。第2部が吹奏楽。第3部が両部合同演奏のミュージカル(厳密にいうと,ミュージカルというのはあたらないかも。つまりダンスがない)。
合唱部と吹奏楽部の合同演奏会となると,この構成は変えようがないのだろう。
● 印象に残ったものをあげていくと,第1部では「友情ソングメドレー」。理由は単純でMCが入るからだ。このストーリーや台詞は誰が考えるんだろうと,毎回思う。どこかにあるのをパクっているのか。それはないだろうからなぁ。
今回のは一人の男子生徒に二人の女子生徒が鞘当てを演じるというもの。最後のオチ(彼は極度のマザコンだった)が決まった。今どきの男子はこんなものだという共通認識があるんだろうか。笑いのネタにできてる間は大丈夫だろうけどね。
これを演じた3人(いずれも女子生徒)がなかなか以上に上手かった。ここまでやれれば充分だ。高校生くらいだと,どうしたって女子の方が上手いのかねぇ。テレを消せる。こういうものの大敵はテレだもんね。
● 最後の「花は咲く」はOB・OGも加わっての混声合唱。3月に同じ会場で開催された「百花繚乱春爛漫コンサート」では大田原高校の男声合唱でこれを聴いた。
東日本大震災というバックにあるものが大きすぎる。妙な言い方になってしまうんだけど,この曲は東日本大震災を力の源泉にしている。だから,力が枯れない。
● 第2部の吹奏楽では附属中学校の「いつも風巡り合う空」(福島弘和)。これも毎回思うことなんだけど,中学生がここまで完成度を高めて舞台にあげられることに驚く。
彼らが高校生になったときにはどれだけ凄いことになっているんだろう,と思うんですよ。
● この高校の吹奏楽部の演奏水準はかなり高いというのは間違いなくて,そこは誰もが等しく認めるところだと思うんだけど,一方で,こんなものじゃないはずだという思いもあってね。
つまり,中学生のときの演奏を聴いて,自分の中で想定した“凄いことになっている”はずの水準と,実際に聴いた演奏の水準が一致しない。潜在能力を十全に開発しきっていないように思えてしまう。
● 4年連続4回目の拝聴。開演は午後1時半(ただし,プレ演奏あり)。入場無料。
● 構成は例年のとおり。第1部が合唱。第2部が吹奏楽。第3部が両部合同演奏のミュージカル(厳密にいうと,ミュージカルというのはあたらないかも。つまりダンスがない)。
合唱部と吹奏楽部の合同演奏会となると,この構成は変えようがないのだろう。
● 印象に残ったものをあげていくと,第1部では「友情ソングメドレー」。理由は単純でMCが入るからだ。このストーリーや台詞は誰が考えるんだろうと,毎回思う。どこかにあるのをパクっているのか。それはないだろうからなぁ。
今回のは一人の男子生徒に二人の女子生徒が鞘当てを演じるというもの。最後のオチ(彼は極度のマザコンだった)が決まった。今どきの男子はこんなものだという共通認識があるんだろうか。笑いのネタにできてる間は大丈夫だろうけどね。
これを演じた3人(いずれも女子生徒)がなかなか以上に上手かった。ここまでやれれば充分だ。高校生くらいだと,どうしたって女子の方が上手いのかねぇ。テレを消せる。こういうものの大敵はテレだもんね。
● 最後の「花は咲く」はOB・OGも加わっての混声合唱。3月に同じ会場で開催された「百花繚乱春爛漫コンサート」では大田原高校の男声合唱でこれを聴いた。
東日本大震災というバックにあるものが大きすぎる。妙な言い方になってしまうんだけど,この曲は東日本大震災を力の源泉にしている。だから,力が枯れない。
● 第2部の吹奏楽では附属中学校の「いつも風巡り合う空」(福島弘和)。これも毎回思うことなんだけど,中学生がここまで完成度を高めて舞台にあげられることに驚く。
彼らが高校生になったときにはどれだけ凄いことになっているんだろう,と思うんですよ。
● この高校の吹奏楽部の演奏水準はかなり高いというのは間違いなくて,そこは誰もが等しく認めるところだと思うんだけど,一方で,こんなものじゃないはずだという思いもあってね。
つまり,中学生のときの演奏を聴いて,自分の中で想定した“凄いことになっている”はずの水準と,実際に聴いた演奏の水準が一致しない。潜在能力を十全に開発しきっていないように思えてしまう。
直線的に伸びていけるはずがないことはわかっている。わかっているんだけど,ある種のもどかしさを感じる。
● 部活なんだから諸々の制約がある。第一,高校生の本分は部活ではない。
勉強しろと言われる。本も読めと言われる。塾や予備校もあるかもしれない。友だちとお喋りしたいし,お茶もしたい。好きな異性がいて,気持ちの9割は彼(彼女)に向かっているかもしれない。家庭に気がかりなことがあるかもしれない。今の高校生は忙しすぎるのだ。
そういうこともわかるんだけど,限界よりもかなり低いところでストッパーをかけてしまっていないか,と。潜在能力って,いつも汲みあげていないと枯れるよ。不完全燃焼感を残し続けると,そこが限界値になってしまうよ。
酷にすぎる感想だろうか。
● と,申しあげたんだけども,「こうもり」セレクションは聴きごたえ充分。この演奏に対して,ここはこう直した方がいい,ここではブレスを入れるな,ここは走りすぎているから気持ち抑えろ,といった外野からのリアクションは皆無のはずだ。
歌わせやすい楽器とそうじゃない楽器があるんだろうけども,各パートとも充分に歌えていたし,いわゆる縦の線も揃っていた。立派なものだ。
● 番外(?)の“ルパン三世”は絶品。ひょっとすると,このときだけストッパーが外れた部員がいたかもしれない。
演奏はステージと客席の合作だというのは,本当にそのとおりだ。もちろん,メインはステージで演奏する側が握っている。客席は基本的には従者にすぎない。その従者を捕まえることができると演奏が良くなる。
では,どうすればそれができるのか。さぁ,皆さんもご一緒に,なんて声をかけるのはダメだ。SMAP時代の木村拓哉じゃないんだから。
“ルパン三世”で見せた演奏をいつもすればいいのだ,たぶん。自分をノセることが“場”を掴まえることに通じるのだ,たぶん。
● 第3部のミュージカル。今回は「アナと雪の女王」。吹奏楽部はピットで合唱部は舞台。合唱部が美味しいところを取る。という言い方は良くないんだろうけどね。先生に叱られるね。
昨年の「アラジン」ではジーニー役の男子生徒が圧倒的なオーラを放っていた。今回はそういうスーパースターは不在。総合力で手堅くまとめていくという戦略。
セリフのテンポが良く,発音も明瞭。特にアナ役の女子生徒。
● こういう劇で一番美味しいのは男装の麗人,じゃなくて,宝塚の言葉でいえば男役だ。今回の場合だとクリストフとハンス。やりようでいくらでも美味しさを取れる。
ハンスがじつは悪だったとカミングアウト(?)する場面では,思いっきり憎々しげにやれると良かったかなと思った。ここは抑制を効かせないで,オーバーアクションでいいような。
● 最後は全員でお約束(?)のバブリーダンス。言っとくぞ。これ,賞味期限は半分過ぎてっかんね。
ただね,去年のジーニー役の男子生徒がバブリーダンスを踊ったらどんなだったか見てみたかった,とチラッと思ったよ。
● さて,と。この演奏会はコンクールではない。その対極にあるものだ。少し以上に場違いな感想を申しあげたかもしれない。が,推敲するのはやめて,このままアップしてしまうことにする。
しょうもない高校時代を過ごしてしまった自分からすると(高校の3年間は捨てたも同然だと思っている。捨てるには貴重すぎる年代なのだが),このコンサートを開催できただけで,彼ら彼女らの高校生活は充実したものなのだなと思えて,眩しく映る。
● 部活なんだから諸々の制約がある。第一,高校生の本分は部活ではない。
勉強しろと言われる。本も読めと言われる。塾や予備校もあるかもしれない。友だちとお喋りしたいし,お茶もしたい。好きな異性がいて,気持ちの9割は彼(彼女)に向かっているかもしれない。家庭に気がかりなことがあるかもしれない。今の高校生は忙しすぎるのだ。
そういうこともわかるんだけど,限界よりもかなり低いところでストッパーをかけてしまっていないか,と。潜在能力って,いつも汲みあげていないと枯れるよ。不完全燃焼感を残し続けると,そこが限界値になってしまうよ。
酷にすぎる感想だろうか。
● と,申しあげたんだけども,「こうもり」セレクションは聴きごたえ充分。この演奏に対して,ここはこう直した方がいい,ここではブレスを入れるな,ここは走りすぎているから気持ち抑えろ,といった外野からのリアクションは皆無のはずだ。
歌わせやすい楽器とそうじゃない楽器があるんだろうけども,各パートとも充分に歌えていたし,いわゆる縦の線も揃っていた。立派なものだ。
● 番外(?)の“ルパン三世”は絶品。ひょっとすると,このときだけストッパーが外れた部員がいたかもしれない。
演奏はステージと客席の合作だというのは,本当にそのとおりだ。もちろん,メインはステージで演奏する側が握っている。客席は基本的には従者にすぎない。その従者を捕まえることができると演奏が良くなる。
では,どうすればそれができるのか。さぁ,皆さんもご一緒に,なんて声をかけるのはダメだ。SMAP時代の木村拓哉じゃないんだから。
“ルパン三世”で見せた演奏をいつもすればいいのだ,たぶん。自分をノセることが“場”を掴まえることに通じるのだ,たぶん。
● 第3部のミュージカル。今回は「アナと雪の女王」。吹奏楽部はピットで合唱部は舞台。合唱部が美味しいところを取る。という言い方は良くないんだろうけどね。先生に叱られるね。
昨年の「アラジン」ではジーニー役の男子生徒が圧倒的なオーラを放っていた。今回はそういうスーパースターは不在。総合力で手堅くまとめていくという戦略。
セリフのテンポが良く,発音も明瞭。特にアナ役の女子生徒。
● こういう劇で一番美味しいのは男装の麗人,じゃなくて,宝塚の言葉でいえば男役だ。今回の場合だとクリストフとハンス。やりようでいくらでも美味しさを取れる。
ハンスがじつは悪だったとカミングアウト(?)する場面では,思いっきり憎々しげにやれると良かったかなと思った。ここは抑制を効かせないで,オーバーアクションでいいような。
● 最後は全員でお約束(?)のバブリーダンス。言っとくぞ。これ,賞味期限は半分過ぎてっかんね。
ただね,去年のジーニー役の男子生徒がバブリーダンスを踊ったらどんなだったか見てみたかった,とチラッと思ったよ。
● さて,と。この演奏会はコンクールではない。その対極にあるものだ。少し以上に場違いな感想を申しあげたかもしれない。が,推敲するのはやめて,このままアップしてしまうことにする。
しょうもない高校時代を過ごしてしまった自分からすると(高校の3年間は捨てたも同然だと思っている。捨てるには貴重すぎる年代なのだが),このコンサートを開催できただけで,彼ら彼女らの高校生活は充実したものなのだなと思えて,眩しく映る。
2018年4月24日火曜日
2018.04.22 新交響楽団 第241回演奏会
東京芸術劇場 コンサートホール
● アマチュア最高峰との名声はかねてから聞いていたけれども,この高名な楽団の実演に接するのは,今回が初めて。
開演は午後2時。チケットはS,A,Bの3種。S席は3,000円だが,ぼくは安いB席を“ぴあ”で買っていた。こちらは1,500円。
● 曲目は次のとおり。指揮は寺岡清高さん。
シュミット 歌劇「ノートルダム」より間奏曲と謝肉祭の音楽
コルンゴルト 劇的序曲
シューベルト 交響曲第8番「ザ・グレート」
● いずれもあまり演奏されることのない曲だ。が,意図的にそうした曲を取りあげているわけではないらしい。
シューベルトの8番はCDが手元にあるが,あとの2つはCDすら持っていない。こちらはその程度の聴き手であるのだ。
● 曲については,プログラム冊子の曲目解説に詳しい。ぼくが印象を語るより,それを読むのがいい。楽団のホームページに掲載されるようだ。
CDも持っていないくらいだから,シュミットとコルンゴルトについては,生い立ちも経歴もまるで知らなかった。それが今回の曲目解説で多少の知見を得ることができた。0が1か2になったわけで,大いなる進歩(?)である。
● シュミットとマーラーの確執。たぶん,いくつもの誤解が度重なった結果でしょうね。航空機事故は通常では考えられないような偶然がいくつも重なった結果,発生するらしい。人と人との事故も同じなのではないかなぁ。
たとえば,初対面でウマが合わないと感じてしまって,それが雪だるまのように大きくなるなんてのは,その典型のような気がする。
● 「劇的序曲」はコルンゴルトが14歳のときの作品。作曲家の場合,その多くは早熟の天才だけれども,コルンゴルトの場合は歌劇「死の都」にしても知る人ぞ知るの域にとどまっているように思える。
父親の支配,ユダヤ系であるがゆえの時代の波(ナチスドイツの台頭)。思うに任せないのは,天才も凡人も同じだ。が,天才の場合は業績との対比が先鋭になるので,“思うに任せなさ”がよりクッキリと描きやすいのかもしれない。
● 「ザ・グレート」というタイトルはシューベルトが付けたものではない。「交響曲第6番ハ長調と区別するため,単に「大きい方」という程度の意味合いで後世名付けられた」のであるらしい。
そう教えてもらうとスッキリする。「ザ・グレート」は良くも悪くも,いろんなことを想像させる(させてしまう)。このタイトルは頭から追いだしてから聴いた方がいいと思った。
● 演奏水準は評判どおりで,演奏している姿も絵になっている。オーケストラに関しては,演奏している姿の絵になる度合いと演奏水準は一致する(と,とりあえず考えている)。
アマチュアがここまでの演奏をするのだとすると,国内に30余あるプロオケのいくつかはなくてもいいのじゃないか,と思えてくる。
● 団員名簿に職業が付記されている。比較的多いのは地方公務員(特に都庁),学校の教師,音大を含む学生(東大が多い印象)。
他に,医師やコンサルタント,外資系の証券会社,エンジニアなどなど,彼ら彼女らの職業は多種多様。これだけのバラツキがある中で,年に4回の演奏会を開催している。その事実がにわかには信じがたい。
● 「大向うを唸らせる」という章句がある。“大向う”とは「芝居小屋の舞台から最も遠い客席」のことで,そこには「安価な席にたびたび通ってくる見巧者の客」がいる。その客を唸らせるという意味の言い方だ。
こういうのって歌舞伎ばかりじゃなくて,クラシック音楽でも同じなんじゃないかと漠然と思っていた。が,ウィーン国立歌劇場のようなところではそうなのかもしれないけれども,日本のアマチュアオーケストラの演奏会ではそういうことはないようだ。
● B席にはロクなのがいない。自分を棚にあげて言うんだけどね。一人で来ている爺さんがいてね(いよいよ,自分を棚にあげて言うんだけどね),これが拍手をまったくしない。おまえにできることは拍手くらいだろう,できることはせめてやれよ,とどやしつけたくなったんだが。
椅子に浅く寝そべるようにして,肘掛けに腕を乗せる。この肘掛けって肘を掛けるためのものじゃなく,隣席との仕切りだからね。ここに肘を乗せるのはルール違反なんだがなぁ。こういうのが一人でもいると,気を取られていけない。
● この楽団には“維持会”がある。たいていのところにあるものだけれども,ここは1口1万円。それで5回分のチケット引換券がもらえる。身を入れて聴きたいのであれば,維持会費を払った方がお得だ。いちいちチケットを買う手間も省ける。
楽団にとってもまとまったお金が入るメリットはそれなりに大きいのだろう。加入しようか。
開演は午後2時。チケットはS,A,Bの3種。S席は3,000円だが,ぼくは安いB席を“ぴあ”で買っていた。こちらは1,500円。
● 曲目は次のとおり。指揮は寺岡清高さん。
シュミット 歌劇「ノートルダム」より間奏曲と謝肉祭の音楽
コルンゴルト 劇的序曲
シューベルト 交響曲第8番「ザ・グレート」
● いずれもあまり演奏されることのない曲だ。が,意図的にそうした曲を取りあげているわけではないらしい。
シューベルトの8番はCDが手元にあるが,あとの2つはCDすら持っていない。こちらはその程度の聴き手であるのだ。
● 曲については,プログラム冊子の曲目解説に詳しい。ぼくが印象を語るより,それを読むのがいい。楽団のホームページに掲載されるようだ。
CDも持っていないくらいだから,シュミットとコルンゴルトについては,生い立ちも経歴もまるで知らなかった。それが今回の曲目解説で多少の知見を得ることができた。0が1か2になったわけで,大いなる進歩(?)である。
● シュミットとマーラーの確執。たぶん,いくつもの誤解が度重なった結果でしょうね。航空機事故は通常では考えられないような偶然がいくつも重なった結果,発生するらしい。人と人との事故も同じなのではないかなぁ。
たとえば,初対面でウマが合わないと感じてしまって,それが雪だるまのように大きくなるなんてのは,その典型のような気がする。
● 「劇的序曲」はコルンゴルトが14歳のときの作品。作曲家の場合,その多くは早熟の天才だけれども,コルンゴルトの場合は歌劇「死の都」にしても知る人ぞ知るの域にとどまっているように思える。
父親の支配,ユダヤ系であるがゆえの時代の波(ナチスドイツの台頭)。思うに任せないのは,天才も凡人も同じだ。が,天才の場合は業績との対比が先鋭になるので,“思うに任せなさ”がよりクッキリと描きやすいのかもしれない。
● 「ザ・グレート」というタイトルはシューベルトが付けたものではない。「交響曲第6番ハ長調と区別するため,単に「大きい方」という程度の意味合いで後世名付けられた」のであるらしい。
そう教えてもらうとスッキリする。「ザ・グレート」は良くも悪くも,いろんなことを想像させる(させてしまう)。このタイトルは頭から追いだしてから聴いた方がいいと思った。
● 演奏水準は評判どおりで,演奏している姿も絵になっている。オーケストラに関しては,演奏している姿の絵になる度合いと演奏水準は一致する(と,とりあえず考えている)。
アマチュアがここまでの演奏をするのだとすると,国内に30余あるプロオケのいくつかはなくてもいいのじゃないか,と思えてくる。
● 団員名簿に職業が付記されている。比較的多いのは地方公務員(特に都庁),学校の教師,音大を含む学生(東大が多い印象)。
他に,医師やコンサルタント,外資系の証券会社,エンジニアなどなど,彼ら彼女らの職業は多種多様。これだけのバラツキがある中で,年に4回の演奏会を開催している。その事実がにわかには信じがたい。
● 「大向うを唸らせる」という章句がある。“大向う”とは「芝居小屋の舞台から最も遠い客席」のことで,そこには「安価な席にたびたび通ってくる見巧者の客」がいる。その客を唸らせるという意味の言い方だ。
こういうのって歌舞伎ばかりじゃなくて,クラシック音楽でも同じなんじゃないかと漠然と思っていた。が,ウィーン国立歌劇場のようなところではそうなのかもしれないけれども,日本のアマチュアオーケストラの演奏会ではそういうことはないようだ。
● B席にはロクなのがいない。自分を棚にあげて言うんだけどね。一人で来ている爺さんがいてね(いよいよ,自分を棚にあげて言うんだけどね),これが拍手をまったくしない。おまえにできることは拍手くらいだろう,できることはせめてやれよ,とどやしつけたくなったんだが。
椅子に浅く寝そべるようにして,肘掛けに腕を乗せる。この肘掛けって肘を掛けるためのものじゃなく,隣席との仕切りだからね。ここに肘を乗せるのはルール違反なんだがなぁ。こういうのが一人でもいると,気を取られていけない。
● この楽団には“維持会”がある。たいていのところにあるものだけれども,ここは1口1万円。それで5回分のチケット引換券がもらえる。身を入れて聴きたいのであれば,維持会費を払った方がお得だ。いちいちチケットを買う手間も省ける。
楽団にとってもまとまったお金が入るメリットはそれなりに大きいのだろう。加入しようか。
2018年4月7日土曜日
2018.04.01 全日本医家管弦楽団 第28回定期演奏会
東京オペラシティ コンサートホール
● 全日本医家管弦楽団の定演。その名のとおり,お医者さんたちのオーケストラ。28回を数えるこの楽団の演奏会を聴くのは,しかし,今回が初めてだ。
医師といえば激務の代表(特に,外科の勤務医)。日本の医療は医師や看護師の使命感と責任感でもっているようなものだ。おおもとのシステムは制度疲労を起こしていて,ほぼどうにもならないのではないか。ひょっとすると,医師や看護師の使命感や責任感の強さが,制度の問題を見えにくくしているのかもしれないんだけど。
この点に関する国会の怠慢はどうしたことか。モリだのカケだの,どうでもいいことにうつつを抜かしている暇があるなら,医療問題をなぜ議論しない?
● ともあれ。激務の合間をぬって時間を作るんでしょうね。大学までずっと楽器をやっていた人たちなのだと思うんだけど,卒業後もそれを維持するのはさすがに難しいだろう。定演前の短い練習で錆を落とすのがやっとなのではないかと思う。必死こいて錆を落として,曲を仕上げるのだろう。
さりながら,そうであればこそ表現できるものがある。こめられる思いがある。いや,頭が下がります。
● 開演は午後2時。チケットはA,Bの2種で,Aが2,500円でBが1,500円。どちらでもいいから当日券を買おうと思っていた。で,当日券の売場を見つけて,そこに向かっているときに,爺さまに声をかけられた。当日券? と。売場がわからないのかと思って,売場を指さして教えてあげたんだけども,どうもそういうことではないらしい。
券が余っているから使えということだった。招待券をもらったらしい。招待券というのは2枚送られてくるらしく,一緒に来る人などいないから1枚余っているのだ,というわけだった。
● ありがたくお言葉に甘えることにしたんだけども,3階席だったのはいいとして,件の爺さまの隣になるわけだ。なので,爺さまの話を聞くことになる。
以前はちょんちょん跳ねで来たものだが,最近は億劫になっていけないという話をしていた。歳だからってことなんだけども,そんなに高齢には見えなかったんだけどね。といっても,後期高齢者にはなっているのかな。
近い将来にぼくもその年齢になる。やはり出かけるのが億劫になるんだろうか。
● 目下のところ,東京に出るのはできる限り控えて,地元で開催される演奏会に沈潜しようと思っているんだけども,こういう話を聞くと,行けるときに行っておいた方がいいのかもしれないと思えてくる。
件の爺さまはたぶん都内に住んでいるのだろう。ぼくなんぞは栃木から出てきているのだ。出不精になったら,その影響は爺さまより(たぶん)大きい。
地元に沈潜するのは,後期高齢者になった後のためにとっておくのがいいのかもしれない。
● 曲目は次のとおり。指揮は曽我大介さん。
チャイコフスキー 荘厳序曲「1812年」
チャイコフスキー バレエ「白鳥の湖」より“情景” “ワルツ” “白鳥の踊り” “ハンガリーの踊り” “終曲”
ブラームス 交響曲第2番 ニ長調
● 「1812年」には合唱が加わった。「一音入魂合唱団」。この合唱団に接するのはこれが二度目になる。2016年11月の日本IBM管弦楽団の定演に登場していた。そのときも指揮は曽我さんだった。
この合唱団は,もともと「IBM社内の合唱愛好者が集結」して結成されたもの。現在ではIBMに限らず,広く門戸を開いているようだが。
● 「白鳥の湖」はこちらは気楽に聴くことになる。ここでのコール・ドが俺好きなんだよなぁ,とか,この旋律はオデットが「私はここよ,ここにいるのよ」って王子に切なく訴えるサインなんだよな,気づいてやれよ,王子よ,とか,バレエの情景を思い浮かべて,まぁお気楽に聴くわけですよ。
で,聴く側はこの聴き方でいいんだと思うんだけども,演奏する側はそう気楽にはやっていられない。逆だよね。優雅な調べを奏するには,弦なら細かく左指を動かして,右手の神経は弓に通わせなければならない。忙しいことこの上もない。
● ブラームスの2番。1番とは対照的に,ブラームスが短期間で完成させた曲だということが強調されることが多い。曲の出来不出来はかけた時間に比例するものではない。というか,個人的にはあまり時間をかけてはダメなのじゃないかと思っている。まったくの素人考えだけど。
1番はズッシリと重いという印象を受ける。2番は軽やかだ。重が軽に勝るということはないわけで,どちらが好きかは好みによるとしか言いようがない。
1番は“つっかえつっかえ”という印象を受けることがあって,ぼく一個は4番の次に2番が好きだ。
● 先に,錆を落とすという言い方をした。実際,週に2日は確実に休めるという仕事ではないだろう(中にはそういう人もいるかもしれないが)。日常の間に楽器に触るまとまった時間を取るのは容易ではないはずだと思うのだ。
まして,楽器を鳴らすには場所も選ばなくてはならない。本番が近づいてから,意を決して時間のやりくりをすることになるのではないかと思う。
そもそも,社会人になってから上手くなるなんてあるんだろうか。それにしては,かなりの水準をキープしている。出発点において相当な腕前だったのだろうかなぁ。
● アンコールはボロディン「ダッタン人の踊り」。ここでも一音入魂合唱団の合唱が入った。もちろん,こういう編成の「ダッタン人の踊り」は初めて聴くものだ。
彼ら彼女らは明日からまた激務の日常に向かっていく。この演奏会を催行するのも相当に大変だと思うのだが,同じ大変でも息抜きのできる大変さなのであろうな。
● 全日本医家管弦楽団の定演。その名のとおり,お医者さんたちのオーケストラ。28回を数えるこの楽団の演奏会を聴くのは,しかし,今回が初めてだ。
医師といえば激務の代表(特に,外科の勤務医)。日本の医療は医師や看護師の使命感と責任感でもっているようなものだ。おおもとのシステムは制度疲労を起こしていて,ほぼどうにもならないのではないか。ひょっとすると,医師や看護師の使命感や責任感の強さが,制度の問題を見えにくくしているのかもしれないんだけど。
この点に関する国会の怠慢はどうしたことか。モリだのカケだの,どうでもいいことにうつつを抜かしている暇があるなら,医療問題をなぜ議論しない?
● ともあれ。激務の合間をぬって時間を作るんでしょうね。大学までずっと楽器をやっていた人たちなのだと思うんだけど,卒業後もそれを維持するのはさすがに難しいだろう。定演前の短い練習で錆を落とすのがやっとなのではないかと思う。必死こいて錆を落として,曲を仕上げるのだろう。
さりながら,そうであればこそ表現できるものがある。こめられる思いがある。いや,頭が下がります。
● 開演は午後2時。チケットはA,Bの2種で,Aが2,500円でBが1,500円。どちらでもいいから当日券を買おうと思っていた。で,当日券の売場を見つけて,そこに向かっているときに,爺さまに声をかけられた。当日券? と。売場がわからないのかと思って,売場を指さして教えてあげたんだけども,どうもそういうことではないらしい。
券が余っているから使えということだった。招待券をもらったらしい。招待券というのは2枚送られてくるらしく,一緒に来る人などいないから1枚余っているのだ,というわけだった。
● ありがたくお言葉に甘えることにしたんだけども,3階席だったのはいいとして,件の爺さまの隣になるわけだ。なので,爺さまの話を聞くことになる。
以前はちょんちょん跳ねで来たものだが,最近は億劫になっていけないという話をしていた。歳だからってことなんだけども,そんなに高齢には見えなかったんだけどね。といっても,後期高齢者にはなっているのかな。
近い将来にぼくもその年齢になる。やはり出かけるのが億劫になるんだろうか。
● 目下のところ,東京に出るのはできる限り控えて,地元で開催される演奏会に沈潜しようと思っているんだけども,こういう話を聞くと,行けるときに行っておいた方がいいのかもしれないと思えてくる。
件の爺さまはたぶん都内に住んでいるのだろう。ぼくなんぞは栃木から出てきているのだ。出不精になったら,その影響は爺さまより(たぶん)大きい。
地元に沈潜するのは,後期高齢者になった後のためにとっておくのがいいのかもしれない。
● 曲目は次のとおり。指揮は曽我大介さん。
チャイコフスキー 荘厳序曲「1812年」
チャイコフスキー バレエ「白鳥の湖」より“情景” “ワルツ” “白鳥の踊り” “ハンガリーの踊り” “終曲”
ブラームス 交響曲第2番 ニ長調
● 「1812年」には合唱が加わった。「一音入魂合唱団」。この合唱団に接するのはこれが二度目になる。2016年11月の日本IBM管弦楽団の定演に登場していた。そのときも指揮は曽我さんだった。
この合唱団は,もともと「IBM社内の合唱愛好者が集結」して結成されたもの。現在ではIBMに限らず,広く門戸を開いているようだが。
● 「白鳥の湖」はこちらは気楽に聴くことになる。ここでのコール・ドが俺好きなんだよなぁ,とか,この旋律はオデットが「私はここよ,ここにいるのよ」って王子に切なく訴えるサインなんだよな,気づいてやれよ,王子よ,とか,バレエの情景を思い浮かべて,まぁお気楽に聴くわけですよ。
で,聴く側はこの聴き方でいいんだと思うんだけども,演奏する側はそう気楽にはやっていられない。逆だよね。優雅な調べを奏するには,弦なら細かく左指を動かして,右手の神経は弓に通わせなければならない。忙しいことこの上もない。
● ブラームスの2番。1番とは対照的に,ブラームスが短期間で完成させた曲だということが強調されることが多い。曲の出来不出来はかけた時間に比例するものではない。というか,個人的にはあまり時間をかけてはダメなのじゃないかと思っている。まったくの素人考えだけど。
1番はズッシリと重いという印象を受ける。2番は軽やかだ。重が軽に勝るということはないわけで,どちらが好きかは好みによるとしか言いようがない。
1番は“つっかえつっかえ”という印象を受けることがあって,ぼく一個は4番の次に2番が好きだ。
● 先に,錆を落とすという言い方をした。実際,週に2日は確実に休めるという仕事ではないだろう(中にはそういう人もいるかもしれないが)。日常の間に楽器に触るまとまった時間を取るのは容易ではないはずだと思うのだ。
まして,楽器を鳴らすには場所も選ばなくてはならない。本番が近づいてから,意を決して時間のやりくりをすることになるのではないかと思う。
そもそも,社会人になってから上手くなるなんてあるんだろうか。それにしては,かなりの水準をキープしている。出発点において相当な腕前だったのだろうかなぁ。
● アンコールはボロディン「ダッタン人の踊り」。ここでも一音入魂合唱団の合唱が入った。もちろん,こういう編成の「ダッタン人の踊り」は初めて聴くものだ。
彼ら彼女らは明日からまた激務の日常に向かっていく。この演奏会を催行するのも相当に大変だと思うのだが,同じ大変でも息抜きのできる大変さなのであろうな。
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