● 宇都宮に出て,隅田川テラス,ではなくて田川テラス(?)を歩いた。今日は日差しが強くて,夏のような強力な日差しを浴びながらだけれども,気持ちがいいや。
車がいないから静かだ。ウォークマンのイヤホンを耳に突っ込んで歩くには最適だ。
● その田川テラスの他にも,今日はけっこうな時間歩いた。ので,思いがけない成果(?)を得た。
ベートーヴェンの交響曲を聴きながら歩いてたんだけども,9番から聴き始めて,結局,1番まで聴くことができたんですよ。私家版「ベートーヴェンは凄い! 全交響曲連続演奏会」を催行したようなものです。
正確にいうと,電車に乗っていた時間も含めて,聴けたのは3番まで。2番と1番は家に着いてから,中に入らず,縁台に座って聴き続けたわけなんですが。
● 歩きながらウォークマンで聴くのが,聴いたことになるのかというそもそも論があるんですけどね。
それと,これだけの量を続けて聴けるのは,雑に浅くしか聴いていない(BGMのように)からに決まっているわけで,問題ありまくりなんですがねぇ。
● と言いつつも,ウォークマン以外のオーディオ機器は持っていない。ミニコンポすらない。
しいていえば,ノートパソコンに外付けのスピーカをつないでいるけれども,これは,ま,YouTubeを見るとき用と言いますか。基本,パソコンの回路に直接スピーカをつないでも,まぁ何というのか,気休めの域を出ないでしょ。
というわけで,生演奏を聴く以外は,もっぱらウォークマンで聴いている。
● 今後も持つつもりはない(ひょっとすると,Bluetoothスピーカを買うことはあるかもしれないけど)。ウォークマンの音質をバカにしてはいけないと思う。
おまえはそんなに貧乏してるのか? そうじゃないとは言わないけれど,あんまりゴチャゴチャとモノを持ちたくないんでさ。持ちたくないと思っていても,どんどん増えてしまうのがモノなんだから。
理想の視聴環境を整えるよりも,モノを増やさないことを優先する。そういう営業方針なんですわ。東日本大震災を実地に体験した人は,だいたいそう思うんじゃないかな。
● それよりも何よりも,生演奏を聴けばいいじゃん,ってことなんですよね。ところが,コロナのせいでそれができない。
今年はベートーヴェン生誕250周年で,プロもアマもいろんな企画を考えていたに違いないけれども,それを催行することができない。特に「第九」のような合唱を伴うものは,ほぼ論外とされているだろう。50年に一度のチャンスがこのまま流されてしまうかもしれない。
● CDを聴くならウォークマン(あるいはスマートフォン)で充分だ。それ以上の機材は大仰だとぼくは思っている。問題は,CDでライヴを代替することができないことだ。
演奏側もストリーミング配信など,できる工夫をしているが,ストリーミング配信でもライヴの臨場感は再現できない。当然だ。もしそれができたら,ライヴが死ぬ。
● チケットを買って,開演30分前に列に並び,着席して,開演を待つ。客席を見回してどんな人たちが来ているのか確認して,かすかな連帯意識を持つ。
ワラワラと団員が出てきて,落ち着いたところでコンマスが登場し,チューニングが始まる。どんな演奏をするのか想像してみる。
指揮者が指揮台に乗ってから演奏が始めるまでの数秒間の緊張感を,ステージと客席で共有する。
そうしたことがつまり臨場感の元になる。それゆえ,コンサートホールの存在が絶対条件で,それを満たさないCD視聴やストリーミング配信は,しょせんそれだけのものだ。
● というわけで,少ぉしジリジリしてきた。
いくつかのストリーミング配信をぼくも視聴したけれど,率直に申しあげると,ジタバタするな,ジッとしていろ,と言いたくなった(もちろん,そうじゃないのもある)。
しかし,聴く側がジレてくるんだから,演奏する側にジッとしていろと言うのは,酷に過ぎる注文であったろう。
約2時間のコンサートが終了した直後の満足感は,他のものでは代替できません。この世に音楽というものが存在すること。演奏の才に恵まれた人たちが,時間と費用を惜しまずに技を磨いていること。その鍛錬の成果をぼくたちの前で惜しみなく披露してくれること。そうしたことが重なって,ぼくの2時間が存在します。ありがたい世の中に生きていると痛感します。 主には,ぼくの地元である栃木県で開催される,クラシック音楽コンサートの記録になります。
2020年5月30日土曜日
2020年5月6日水曜日
2020.05.05 間奏64:生演奏を聴けない期間を何で埋めるか
● 生演奏を聴く機会は当分訪れないだろう。その間を何で埋めるか。
功成り名を遂げた大家の演奏をCDで聴けばいいとなる。とりあえずはそういうことだ。
● が,かつてはなかったけれども今は身近になったインフラがある。インターネットだ。ぼくはあまり詳しくないのだが,ベルリン・フィルは以前からネットを使った映像配信サービスに熱心だったと聞く(→「デジタル・コンサートホール」)。
こうしたインターネットを使った配信で最も気になるのは音質だろうが,ベルリン・フィルのこのサービスは「音質はCD並み。映像もハイビジョンの高品位」であるらしい。料金は年額18,500円だが,現在は(期間限定で)このサービスが無料開放されている。
● 国内の楽団もストリーミング配信を試みるところが増えている。コンサートホールに観客を入れての演奏はできなくなった。そうしたコロナ禍にあって,できることをしようということでもあろうし,聴衆へのサービス精神の発露でもあるだろう。
演奏家が演奏する機会を与えられない。自らのレーゾンデートルを自らが問わなくてはいけない事態だ。それを確保するための手段でもあろうことは当然だ。
● こういう未曾有の事態に見舞われてみると,演奏家がこうむるシリアスさとは比べものにならないものの,聴き手も観客にはなれないわけで,その間をどうやって埋めればいいかと考えだす。
で,ネット空間をウロウロして,こんなのもあったのか,あれ,こういうのもあるぞと,遅ればせながらの発見をいくつかすることになるというわけなのだった。
● ネットは多くの選択肢をもたらしてくれる。とりわけ,将来,大家になるであろう(ならないかもしれないが)若い人の演奏も視聴できる。これは大きい。たとえば,これだ。
こういうものを聴くと,今どきの若者は大したものだと思う。闊達で屈託がない。楽しそうだ。苦行にしていない。ショーマンシップにも欠けるところがない。
屈託を抱えて内向きになることもあるはずだし,見えないところで楽しくない練習をしているに違いないのだが,その素振りを見せない。
何より,これを見ていると元気になれる(気がする)。
● 昔の若者は内向癖,深刻癖,反抗癖があったように記憶する。戦前の旧制高校の生徒ほどではなかったかもしれないけれども,難しいとされる本を読んで悦に入ってるやつもいた。
内向して青春を悩み,将来を深刻に考え,政府や国家は権力であり,親や教師は反動的なるものであり,反抗する対象でしかなかった。
● 言っちゃなんだが,内向したり深刻がったり反抗するのは安易で簡単なのだ。頭を使わなくてもできるんだよ。早い話が,バカでもできるものなのだ。
20歳のときの自分と只今現在の20歳の若者を比較すれば,今の20歳の方が人格的に練れている。たぶん,多くのものを見,聞き,体験している。しかも,素直で吸収力が高い。
● 話が広がりすぎた。元に戻そう。
こうしたものをスマホで視聴するなら,スマホをXPERIAに替えた方がいいんだろうかな。ストリーミング配信をいい音で聴きたいとなると,圧縮音源もハイレゾ相当に復元して再生してくれる端末の方がいいやね。
あるいは,ダウンロードしてWALKMANに転送するか。そこまでこだわることもないかねぇ。という些末かもしれない問題を考えだしちゃったりする。
● 「クラシカ・ジャパン」もそういうものがあるってことは知っていた。「日本で唯一のクラシック音楽専門チャンネル」という謳い文句も。
が,基盤がスカパーだ。CSなんてのはそれそのものが近い将来に消えてなくなると思っているので,気に留めることもなかった。料金が月額3,300円とあっては,とても元が取れるとは思えなかったし。
● 今回知ったんだけど,CSやケーブルTVの他に,ストリーム配信にも対応してたんだね。一部は無料で見られるようにもなっている。2017年の12月からだから,けっこう前からじゃないですか。
といって,そのサービスを利用するかというと,なかなかそうはならない。
● CDに代表されるオールドメディアがまだまだ幅を効かせているからで,積ん読ならぬ積んCDや積んDVDを大量に抱えている音楽ファンが多いのではないかと推測する。
ネットもいいけれども,その前に積んCDを聴かなきゃ,積んDVDを見みとかなきゃ,と考える人もいるだろう。正直,音質だけでいえば,CDをハイレゾ再生するコンポで聴く方が快適だろうし。
● ちなみに,クラシック音楽をCDで聴くときには,すべてカラヤンでいいんじゃないかと思っているほどに,ぼくは大雑把な人間だ。が,唯一,カルロス・クライバーはカラヤンに優先する。
畏れ多いことながら,ベートーヴェンでも6番にはちょっと気だるさを感じることもある。のだけど,カルロス・クライバーで聴くと,印象が違ってくる。何ていうんだろ,気分が浮き立つような。
功成り名を遂げた大家の演奏をCDで聴けばいいとなる。とりあえずはそういうことだ。
● が,かつてはなかったけれども今は身近になったインフラがある。インターネットだ。ぼくはあまり詳しくないのだが,ベルリン・フィルは以前からネットを使った映像配信サービスに熱心だったと聞く(→「デジタル・コンサートホール」)。
こうしたインターネットを使った配信で最も気になるのは音質だろうが,ベルリン・フィルのこのサービスは「音質はCD並み。映像もハイビジョンの高品位」であるらしい。料金は年額18,500円だが,現在は(期間限定で)このサービスが無料開放されている。
● 国内の楽団もストリーミング配信を試みるところが増えている。コンサートホールに観客を入れての演奏はできなくなった。そうしたコロナ禍にあって,できることをしようということでもあろうし,聴衆へのサービス精神の発露でもあるだろう。
演奏家が演奏する機会を与えられない。自らのレーゾンデートルを自らが問わなくてはいけない事態だ。それを確保するための手段でもあろうことは当然だ。
● こういう未曾有の事態に見舞われてみると,演奏家がこうむるシリアスさとは比べものにならないものの,聴き手も観客にはなれないわけで,その間をどうやって埋めればいいかと考えだす。
で,ネット空間をウロウロして,こんなのもあったのか,あれ,こういうのもあるぞと,遅ればせながらの発見をいくつかすることになるというわけなのだった。
● ネットは多くの選択肢をもたらしてくれる。とりわけ,将来,大家になるであろう(ならないかもしれないが)若い人の演奏も視聴できる。これは大きい。たとえば,これだ。
こういうものを聴くと,今どきの若者は大したものだと思う。闊達で屈託がない。楽しそうだ。苦行にしていない。ショーマンシップにも欠けるところがない。
屈託を抱えて内向きになることもあるはずだし,見えないところで楽しくない練習をしているに違いないのだが,その素振りを見せない。
何より,これを見ていると元気になれる(気がする)。
● 昔の若者は内向癖,深刻癖,反抗癖があったように記憶する。戦前の旧制高校の生徒ほどではなかったかもしれないけれども,難しいとされる本を読んで悦に入ってるやつもいた。
内向して青春を悩み,将来を深刻に考え,政府や国家は権力であり,親や教師は反動的なるものであり,反抗する対象でしかなかった。
● 言っちゃなんだが,内向したり深刻がったり反抗するのは安易で簡単なのだ。頭を使わなくてもできるんだよ。早い話が,バカでもできるものなのだ。
20歳のときの自分と只今現在の20歳の若者を比較すれば,今の20歳の方が人格的に練れている。たぶん,多くのものを見,聞き,体験している。しかも,素直で吸収力が高い。
● 話が広がりすぎた。元に戻そう。
こうしたものをスマホで視聴するなら,スマホをXPERIAに替えた方がいいんだろうかな。ストリーミング配信をいい音で聴きたいとなると,圧縮音源もハイレゾ相当に復元して再生してくれる端末の方がいいやね。
あるいは,ダウンロードしてWALKMANに転送するか。そこまでこだわることもないかねぇ。という些末かもしれない問題を考えだしちゃったりする。
● 「クラシカ・ジャパン」もそういうものがあるってことは知っていた。「日本で唯一のクラシック音楽専門チャンネル」という謳い文句も。
が,基盤がスカパーだ。CSなんてのはそれそのものが近い将来に消えてなくなると思っているので,気に留めることもなかった。料金が月額3,300円とあっては,とても元が取れるとは思えなかったし。
● 今回知ったんだけど,CSやケーブルTVの他に,ストリーム配信にも対応してたんだね。一部は無料で見られるようにもなっている。2017年の12月からだから,けっこう前からじゃないですか。
といって,そのサービスを利用するかというと,なかなかそうはならない。
● CDに代表されるオールドメディアがまだまだ幅を効かせているからで,積ん読ならぬ積んCDや積んDVDを大量に抱えている音楽ファンが多いのではないかと推測する。
ネットもいいけれども,その前に積んCDを聴かなきゃ,積んDVDを見みとかなきゃ,と考える人もいるだろう。正直,音質だけでいえば,CDをハイレゾ再生するコンポで聴く方が快適だろうし。
● ちなみに,クラシック音楽をCDで聴くときには,すべてカラヤンでいいんじゃないかと思っているほどに,ぼくは大雑把な人間だ。が,唯一,カルロス・クライバーはカラヤンに優先する。
畏れ多いことながら,ベートーヴェンでも6番にはちょっと気だるさを感じることもある。のだけど,カルロス・クライバーで聴くと,印象が違ってくる。何ていうんだろ,気分が浮き立つような。
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