栃木県総合文化センター サブホール
チケットは1,000円。全席指定。使用する座席は半分に抑えているが,満席になった。当日券はなし(だったと思う)。
平日の昼休みでこの状態になるのは驚きだ。しかも,ここは宇都宮なのだ。
が,西口さん,お客を呼べるソプラノだから,かくもあろうかとチケットはだいぶ前に確保しておいた。
● ソプラノの魅力は那辺にあるかと考えてみたときに,ぼくはエリー・アーメリングを思いだす。といっても,そんなにたくさん聴いているわけではなくて,たとえばグリーグ「ペールギュント」の “ソルヴェイグの歌” だ。
本当に落ち込むような事態に遭遇したときに,人は何をするか。まずは酒を飲んで気を紛らすと思うのだが,飲みに行く気力も湧いて来ないようなときはどうするか。
エリー・アーメリングの “ソルヴェイグの歌” を聴くのはどうか。CDを取りだしてセットするのも億劫かもしれないけれども,そこはまぁ頑張ってもらうことにして。
● あの “ソルヴェイグの歌” は女神の調べだもんなぁ。どこが女神なのかといえば,結局は母性ということになってしまうかもしれない。ペールギュントのすべてを許すっていう。
それゆえ,ソプラノの魅力は母性にあると言ってしまっては,いくら何でも短絡が過ぎるという誹りを免れないけれども,少なくとも男よりも女の方が神に近い場所にいることは間違いないだろう。
しかし,男は女に何を与えることができるか。ひと昔前なら経済的安定と言えたかもしれないが,もはやそういう時代ではない。男より稼げる女は佃煮にするほどいる。
ぼくが思うに,男が女に与え得るものはたった1つしかない。それが何かといえば,“笑い” ではないか。男が女に与えられる快は “笑い” しかないと言い切ってしまっていいような気がする。
● それゆえ,女に “笑い” を届けることに意を尽くすべきでしょうね,男はね。笑わせることにおいて吝嗇であってはならない。あとは適度にスケベであればいい。
女どうしで作る “笑い” は爛漫さに至るまで突き抜けることは少ないように思える。だから,バカバカしい “笑い” を提供することが,男が女にできる唯一かもしれない貢献だと心得て,一意専心励むべし。
お笑い芸人がやたらモテるのも,つまるところは “笑い” の源泉を多量に持っていると思われているからではないですかね。
換言すれば,それ以上に自分を縛る必要はない。大それたことは考えなくていいんですよ。
● さて,このリサイタルの副題は,「歌となったシェイクスピア,ゲーテの世界」となっている。曲目は次のとおり。
モーツアルト すみれ
シューベルト ガニュメート
クィルター 来たれ,死よ
プーランク Fancy
グノー 歌劇「ロミオとジュリエット」より “私は夢に生きたい”
ベッリーニ 歌劇「カプレーティ家とモンテッキ家」より “あぁ,幾たびか”
グノー 歌劇「ファウスト」より “なんと美しいこの姿”
● 言葉を大事に扱いたいと,西口さんはおっしゃる。まず言葉があって,音楽はその後だ,と。
どの言語でも,話し言葉は音楽を内包しているように思われる。アクセントやイントネーションはその萌芽だろう。
日本語はすべての音素に同じ強さと同じ長さを与える言語だから,やや感じにくいけれども,リズムの原型も併せ持っていると見るのが妥当だろう。
それら言葉が内包するものに反した曲を与えても,収まりが良くない。ポップスなんかはわかりやすくそうだと思う。
● しかし,オペラの場合は,日本語上演であっても字幕が欲しくなる。フランス人がフランス語のオペラを聴く場合でも同じではないか。
言葉が内包する音楽性は問題にならない。たとえばヴィブラートがそんなものを軽くかき消してくれる。
● 西口さんが言われる言葉の大切さとは,だからそのような意味ではないのだと思うが,ではどういうことなのかといえば,確たることはわからない。言葉が指し示すものをしっかりイメージすることが大切だ,というあたりで受けとめておけばいいのだろうか。
外国語ということもあって,ぼくらは言葉ではなく歌唱を受けとめることになる。言葉と歌唱の関係の深いところは,歌い手にしかわからないものだろう。
● ピアノ伴奏が黒岩航紀さんという豪華版。黒岩さんによるピアノソロが1曲。メンデルスゾーン「結婚行進曲」。
1,000円で西口さんと黒岩さんの演奏が聴けるんだから,お得感はかなりのもの。それもチケット完売につながった理由の1つでしょう。
これから梅雨がやってきて,鬱陶しい日が続くんだろうけど,今日の今日はいい気分を満喫したい。
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