テレビだと音がベタッと寝てしまう。これじゃダメだと思って,以後,遠ざかった。
音をどうにかしないと。そのままではテレビはオーディオ機器にはならない。
● ネット配信とBTスピーカの登場を待つ必要があった。いや,そんなに待つ必要はなかったのだ。とっくに出ていたのに,こちらの対応が遅れに遅れて10年も経ってしまった,というのが実情だ。
もったいないことをしたかな。歳月をムダに捨てた,みたいな。非常に大げさに言えば,だけど。
● その間に,ウィーン・フィルでも女性奏者が増えていた。といっても,まだ少ない。N響など日本の楽団に比べれば際立ってそうだが,欧州の中でもウィーン・フィルの男性優位はかなり目立つ。
東洋系や南米系はいない。純血主義の残滓を感じた。それが悪いと言っているのではない。国際化するばかりが能ではない。
不思議だなと思ったのだ。オーストリアの人口は東京より少ないのに,純血主義を引きずりながらこの水準を維持できている。音楽界の最大の不思議ではないか。
● 岩城宏之さんがこのあたりを話材にしてエッセイを書いていた。ウィーン・フィルをギルドに例えていたと記憶している。ウィーンフィルのメンバーは職能として子供に受け継がれることが多いのだ,と。
それによって門外不出のノウハウが溜まっていったのではないか。それがウィーン・フィルらしさを作ることになった。というような内容だったと記憶しているが,違っているかもしれない。
一方で,ベルリン・フィルはダイバーシティの坩堝だから,ハプスブルク帝国のお膝元も変わっていくのだろうとも思う。
● 観客は上級国民なんでしょ。一般市民に回ってくるチケットなんてあるんだろうか。まして,何のコネもない外国人じゃ手も足も出まいね。ぼくはネット配信で充分だけどね。
ヨーロッパは今でも階級社会だと言われる。階級社会であることは人間の自然が然らしめるところかもしれない。
日本のように華族制度を廃止し,実際に出自や家柄がほとんど考慮されることがない(のみならず,考慮することは差別として忌避される)社会は珍しいのだろうと,納得することにしている。
ま,ぼくらのような一般大衆からは見えないところで,出自や家柄が活きている部分社会は日本にも存在するんだけどさ。
● このニューイヤーコンサートの映像を見て,音楽の都の聴衆はこうなのか,我々も見習わなければ,となってしまうことに対しては,ちょっと待て,と言わなくては。
それでは,にわか造りの鹿鳴館に集まった紳士淑女と同じことになってしまう。ひと言で申さば,チンドン屋的滑稽さをまとうことになる。
● あの格好をしてコンサートホールの客席に着座するのは,申しわけないけれども,貴方やぼくにはまったく似合わない。
似合うようになるためには,たぶん,生まれ変わる必要がある。
● ウィーン楽友協会の黄金ホールはステージがかなり高くなっている。これだと,1階席の前方に座ってしまうと音が頭上を通ってしまうんじゃないかと思うのだが,そんなこともないんだろうか。
ぼくがこのホールの客席に着座することはあり得ない話だから,心配しても仕方がないんだけどね。