すみだトリフォニーホール 大ホール
● オーケストラ ディマンシュ,すでに一度は聴いたつもりでいた。かなりの腕前だった記憶がある。ので,もう一度聴いておこうと,ぼくのスカスカの予定に入れておいたんでした。
が,それが記憶違いで,今回が初めてだった。人間の記憶ってここまでいい加減なのか。ぼくだけかなぁ,これ。
● ともあれ。開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入。
曲目は次のとおり。指揮は金山隆夫さん。
ビゼー 「カルメン」組曲より
リヒャルト・シュトラウス 楽劇「サロメ」より “第4場への間奏曲” “7つのベールの踊り”
チャイコフスキー 幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」
● 東京まで行って聴いてみようと思った理由のひとつは,この曲目にある。サロメの7つの踊りも,フランチェスカ・ダ・リミニも,生で聴ける機会がそうそうあるとは思えない。
ぼくなんかCDでも聴いたことがない。どちらも他の曲とカップリングされて録音されているのが多いだろうから,CDじたいは持っていても,聴かないままで過ぎている。そういう人は多いのではないだろうか。
● ので,生で聴く前にCDで何度か聴いてみた。予習しちゃったよ,と。いいことじゃないかって。とんでもハップン。
せっかく生で聴けるというのに,その前にCDで聴いてしまうのは,何ていうんだろ,愚劣という言葉はこういうことを指すためにあるっていうかな,阿呆なことをしてしまったよ。
今まで聴くことがなかったんだから,生で聴いてからCDを聴くという順序にすべきだった。けっこう,後悔している。
● サロメはオペラそのものも見たことがない。が,“7つのベールの踊り”がどういうものかは知っている。ストリップなんだよね。上品にいうと,ストリップティーズ。
シュトラウス自身は「徹底的に上品」にと規定していたようだけれども,実際にはなかなかね。この取り扱いが厄介なのは官能性が芸術(音楽にしろ美術にしろ)の核にあるものだからだ。官能性を感じさせないものは芸術にならない。たとえ,リンゴを描いた静物画であってもそうだ。
宗教画ですらそうではないかと思っている。キリストの磔を描いた絵であっても,どこかに官能を宿していなければ,後生に残ることはないのではないか。
● さらに言い募ってしまうと,「サロメ」のこの場面について,あまりに哲学的な精緻な議論は不要だと思っている。オペラはもともと貴族の娯楽として発祥したものだ。脳みそに快を与えることが重要で,観客に考えさせるようでは,作品としては失敗だ。
オペラは,誰でも楽しめる大衆性を有するものでなければならないという制約の下に誕生したものだろう。誰でも楽しめるものを,一部の貴族たちが正装して楽しみに行く。そこに観客(になり得る人たち)の密かな自己満足があったはずだ。
● 「サロメ」のような問題作についても,基本は変わらない。こういう場面は放っておけばよい。時々出るであろう跳ねっ返りも,そのまま放置しておけばいい。
いずれ,落ち着くところに落ち着く。時代が動けば変わるかもしれないが,その場合もまた落ち着くところに落ち着く。
● ただし,官能性を完全消去するような演出はダメだ。それでは「サロメ」を殺してしまうことになるからだ。で,そのような演出がなされたことは,これまでただの一度もないはずだと思う。
その官能性を器楽のみで表現することはできるか。理屈としてはできるはずだという結論になる。器楽って,ぼくらが思っている以上に雄弁で,場合によっては言葉の及ばない領域を抉りだすことがある。
● 理屈ではそうなのだが,この演奏を何らの予備知識なしで聴いたときに,ストリップを連想するほどの官能性を脳内でイメージできるかというと,それは難しい。
スメタナの「モルダウ」を予備知識なしで聴いたときに,山間の清冽な流れがやがて大河となってプラハ城に至るイメージを構成できないのと同じだ。そんなことは不可能だ。
● チャイコフスキーの「ロミオとジュリエット」を聴くと,これを聴けばチャイコフスキーのすべてを聴いたことになると思うことがある。チャイコフスキーのすべてが投影されていると感じることが。
「フランチェスカ・ダ・リミニ」ではそういう思いには至らない。チャイコフスキーはこういうこともするのかと思うだけだ。
● が,Wikipediaによると,チャイコフスキー自身はこの曲について「エピソードに刺激されて一時的なパトスで書かれた,迫力のないつまらない作品」と「自嘲気味な評価を下している」らしい。矜恃が言わせているんだろうか。
作曲の契機になるのが“エピソードに刺激された一時的なパトス”ではダメなのか。大作曲家の考えることは,凡俗の徒には測りかねるところがある。
● この楽団には固定ファンが付いているっぽい。すみだトリフォニーの大ホールがほぼ満席。
現時点で考えられるほとんど唯一の問題は,聴衆の過半を占める爺さん婆さんがホールに出て来れないほどに弱ったあとどうするのかということだ。さほど遠い将来の話ではない。ぼくにしてもあと15年だろうと思っている。もっと早く退役するかもしれない。
ま,この問題はこの楽団に限ったことではない。年をとれば順繰りにクラシック音楽に興味を持つようになるという自然則があればいいのだが(この傾向はないわけでもないような気がするのだが),会社で仕事ばっかりだったサラリーマンが定年退職後にクラシック音楽に首を突っ込むことはあるにしても,それが長続きするかといえば,たぶんに疑問を呈さざるを得ないだろう。
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