● 21日(土)は総合文化センターの特別会議室で講演を聞いてきた。桐朋学園大学准教授の「クラシック音楽は難しい」というタイトルの講演。
● 沼野さん,穏やかな紳士といった感じの人。育ちが良さそうで,音楽大学の教師が似合う。声も良くてこれもポイントが高い。
話の中身は音楽理論の基礎の基礎といったものだと思うのだが,視界30センチくらいだった見通しが3メートルくらいになった気がする。まだまだ見通しは悪いけれども,必要に応じて自分で何とかできるくらいにはなったかも。つまり,行って正解の講演でした。
● 無料ゆえ,定員一杯の申込みがあったらしいのだが,この日はみぞれが降っていたからか,ドタキャンした人がけっこういたようだ。聞き手は年配の女性が多かった。男性も平均年齢は高い。未就学児を連れてきている母親がふたりいた。いい子たちで静かにしていてくれたけれど。
無料のカルチャーセンターという感じ。こういう話をタダで聞けるんだなぁ。今はホントにお金をかけないで色んな催しに接することができるんですよねぇ。
● ベートーヴェンが生きていた時代にベートーヴェンの音楽を聴いた人たちはウィーンの市民ではない。職人や農民でベートーヴェンの音楽を一度でも聴いたことがあるという人は,彼らの中にはひとりもいない。人口のわずか数パーセントの超エリート階層の人たちに限られた。貴族というか遊んでいても生きていける人たちだ。
というような話から始まった。
● それが,今では極東日本に生きるぼくらまでがベートーヴェンを聴くことができる。これを称して音楽の大衆化というのだろう。
しかし,ぼくらが当時の貴族の水準に達したということではない。当時の彼らの聴き方がそのまま下に降りてきたというのではない。いうなら薄まった形で降りてきたわけだ。薄まったからこそ,薄める方策ができたからこそ,大衆化が可能になったわけだものね。
● 当時は電気がなかった。音楽を聴くということはすなわち生演奏を聴くことだった。しかも,今のような大ホールはない。貴族の館で演奏させて,それを少人数で聴いた。
そのためのコストは相当なものだったろう。同じことを今やろうとしたら1時間あたりいくらになるだろうか。その負担に耐えられる人は,現在の日本でも人口の数パーセントもいないに違いない。
ウィーンフィルにしてもベルリンフィルにしても,しばしば日本に来て公演する。たいていはサントリーホールで行われるその演奏会のチケットは3万5千円程度だ。2時間足らずの演奏に3万5千円を支払える人はそんなにいないだろう。しかも,サントリーホールの収容人員は2千人。一回の演奏会を2千人で共同負担してこの額になるわけだ。
● 電気を使えるようになって,蓄音機ができて,レコードができたことは画期的だった。生演奏のコピーを大量に,したがって安価に作れるようになった。
その後も多くの技術進歩があって,ぼくらは,ほとんど手間を要さず,費用を発生させることなしに,聴くという行為に至ることができるようになった。
ぼくらはたいていCDで聴く。あるいは,インターネットにアクセスしてネットにある楽曲を聴く。しかし,その体験は生演奏を聴く体験とは別のものだ。
これがつまり大衆化というものだよね。
● 現在のカトリックもプロテスタントも,原始キリスト教とは別のものであるはずだ。聖書はそのままだとしてもね。
クラシック音楽だって,楽譜はそのまま残っていても,当時と今とではたぶん別のものになっている。
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