2013年10月19日土曜日

2013.10.19 グローリア アンサンブル&クワイアー第21回演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 一昨年はベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」だった。昨年は行きそびれて,今回,2年ぶりにお邪魔した。今回はブラームスの「ドイツ・レクイエム」。
 この「グローリア アンサンブル&クワイアー」が存在しなければ,ライヴで聴く機会を一度も持つことなく終わったかもしれない。そういう意味じゃ,地元にこういう団体があってくれるのは,じつにどうもありがたい。
 開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券を購入。

● ロビーは結婚披露宴かと見紛うほどの華やかさに溢れてましたね。楽員の友人や知り合いがお客さんの中には多いのだろう。久しぶりに顔を合わせたのだろうな。ひょっとすると,この演奏会がなければずっと会わないで終わったかもしれない。
 というわけで,ロビーは華やいでいたよ,と。ぼくはといえば,一人で来てるし,楽員にもお客さんの中にも,ぜんぜん知った顔はいない。んで,その華やぎが遠く感じたよ,と。

● でもね,もし知った顔があったとしても,たぶん,気づかないふりをしたかもな。これは,ま,性格ですね。
 家でもない職場でもない,オープンスペースに一人でいるときに,誰かに話しかけられるのはかなりイヤ,っていう。自分からも話しかけることはない,っていう。実際は,イヤを通せないことの方が多いですけどね。
 コンサートに家族や友人(いないけど)と連れだって出かけるのもイヤだ。幸いにして,ウチのヨメはこういう方面に興味を持っていないので,助かっている。来るわけないとわかっているから,時々は誘ってみて,ご機嫌をとることもできる。

● 「ドイツ・レクイエム」に先だって,バッハの「アリア ヘ長調(カンタータ BWV68 第2曲)」など4つを弦楽合奏。指揮は粂川吉見さん。
 これが思わぬ拾いもの。っていうかですね,バッハをちゃんと聴かなきゃダメだよなぁと思わされたことですね。バッハの作品はともかく膨大で,全部聴くなんてだいそれたことは考えないとしても,聴かないまま一生を終えてしまっては,相当以上に後悔することになりそうな曲が,まだまだたくさんありそうだ。

● このあと,合唱団が入って,バッハとベートーヴェンの歌曲をふたつ。指揮は畑康博さん。
 プログラムのプロフィール紹介によれば東大理学部卒ってことだけど,東大とかの理系出身で,高いレベルで音楽活動をしている人って,けっこういるっぽい。最近はああそうなのかという感じで受けとめるようになった。
 傍目の印象だけれども,彼の中では東大なんてどうでもいいものになっているんじゃなかろうか。最初からどうでもよかったのかもしれないな。たまたま,東大に入れる学力があったから入っただけだもんね,っていう。

● 15分の休憩の後に「ドイツレクイエム」。粂川さんは管弦楽に,畑さんは合唱団の最後列に,それぞれ加わった。指揮は片岡真理さん。
 ソリストは澤江衣里さん(ソプラノ)と加耒徹さん(バリトン)。加耒さんは8月25日に「大泉町文化むら」で行われたカルメンにも出てらしたので,実力は知ってるつもり。
 加耒さんは第3曲と第6曲に,澤江さんは第5曲に登場。

● 要するに,メインは合唱団ってことになるんだけど,合唱だけは録音に載りにくいっていうか,CDを聴いても臨場感を掴みにくい(ような気がする)。CDとライヴの差が大きい。それゆえに,生で聴ける機会は貴重だ。
 しかも,これだけみっしりと実のつまった楽曲を,とにもかくにも形にして提供してもらうのだから,それだけでありがたい。
 各パートに際だって巧い人がいた(ように思えた)。その人の声だけ,発信源がわかるような感じがした。

● 問題はこちらの鑑賞水準で,レクイエムにしろミサ曲にしろ,西洋の宗教音楽がピタっとこない。歌詞の和訳がプログラムにも掲載されているんだけれども,それを読んだところで,はたしてどこまで了解できたものか,われながら心もとない。
 じつのところ,わかることを半ば以上は諦めている。仕方ないよね。ヨーロッパ人にとってのキリスト教のありようがわからないんだもん。
 このへんの難しさがあって,CDでもあまり聴くことがない。敬して遠ざけることになる。

● ここを厳密にいうと,それじゃバロックをはじめ,西洋のクラシック音楽全部がわからないことになるじゃないかと言われそうだ。
 だから厳密には考えないことにする。ただ,宗教音楽は難易度が高いというにとどめておく。
 人の声だけが醸せる荘厳さとでもいうべきものは,感じることができた。それで良しとしておかないと。

● 次回はヴェルディの「レクイエム」。これも聴くしかない。そしてまた難易度が高いとウダウダ言う。何をしてんだか,オレ。

2 件のコメント:

  1. funafunaさんのように感じている方が、圧倒的に多いのでは無いかと思いますね。ミサ曲などの聖句を、自分の信仰と受け止めて感じられるのは、本当に一握りの信者しかいないのではないでしょうか。そういう意味では、ミサ曲もゴスペルも、たいていの日本人は、雰囲気を楽しむためにやっている、というように私は感じています。

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    1. そうなんでしょうね。そこ(雰囲気)から入るしか,アクセスのしようがないでしょうから。それでいいのだと思います。

      ただ,そうではない,もちろん信仰絡みでもない,別の突っつき方がないものかと考えています。ないですかねぇ。

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