2014年6月30日月曜日

2014.06.29 宇都宮音楽集団第22回吹奏楽演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 宇都宮音楽集団,名前は前から知っていた。のだけれども,他の演奏会と日程が重なっていたり,こちらの家庭の事情とかで,聴きに行くのは今回が初めて。
 開演は午後2時で,終演は4時40分。かなり盛り沢山な内容だったということ。
 が,退屈を感じることはなかった。曲目がバラエティに富む。客席を乗せるサービスが随所に盛りこまれる。観客参加の色彩が管弦楽よりも濃い。吹奏楽の特徴なんでしょうね。
 チケットは800円(当日券は1,000円)。は

● 退屈知らずだったもうひとつの理由は,司会を担当した新理恵子さんの存在。プロのアナウンサーだった人。押しすぎず,引きすぎず,出すぎず。ちょうどいいほどの良さ。
 たまに,司会が自己主張を始めちゃうのに出くわすことがあって,それってわりと興を冷ますもんな。

● まず,「ジュビランス-祝典のための序曲」(ベンジャミン・ヨー)。ファンファーレから始まる。演奏によって重厚にも軽快にもできそうな感じ。1曲目にもってくるのにピッタリなんでしょうね。
 「最果ての城のゼビア」(中西英介)と「斎太郎節の主題による変奏」(合田佳代子)。この2曲は吹奏楽コンクールの課題曲になっているらしい。「斎太郎節の主題による変奏」は,5月にマーキュリーバンドの演奏会でも聴いている。

● このあとはテレビや映画の主題歌など,バラエティ的な曲目。
 「雨のち晴レルヤ」「川の流れのように」「愛燦燦」「ふな ふな ふなっしー」「レット・イット・ゴー」の5曲。
 知っている曲だと能動的に聴けるっていいますかね。NHKの連ドラも映画「アナと雪の女王」も見たことがないっていう人も多いと思うけど(ぼくもその一人),番組や映画は見たことがなくても,どこかで聴いてるってことは,けっこうありそうだ。
 「川の流れのように」と「愛燦々」は名曲といっていいんでしょうねぇ。琴線に触れてくる。これ,外国に持っていっても,受け容れてもらえそうな気がする。っていうか,もうとっくに出てってるんだろうけどね。

● 休憩後の第2部。音楽物語「長靴をはいたねこ」。指揮者の鈴木太志さんも仰っていたけど,「長靴をはいたねこ」って,タイトルは聞いたことがあっても,ストーリーは知らない。こういう話だったのかと,今回,初めて知った。とんち(あるいは悪知恵)で,自分が属する階級をひっくり返すという話。
 17世紀に出版されていたんですね。話じたいはもっと前からあったのだろう。で,当時は痛切な風刺だったのかもしれない。けっ,貴族ったってこの程度のもんだよ,っていう。
 が,今となっては,寓話以上のものとして受けとめるのは難しい。

● だから,こういうものは作り方が大事。どう演出するかという。かといって,メインは吹奏楽であるわけだから,他の部分はパターン化されているだろう。語りと映像だ。
 となると,語りと映像の完成度が客席に何が届くかを決める。

● その語りを務めたのは新さん。司会と語りは別物。要求される声質も違うだろうし,抑揚や間のとり方もまるで違うはず。けれども,一方を極めていれば,応用が利くんでしょうねぇ。巧いものだと思った。場数を踏んでるのも大きいのか。
 スクリーンに映される静止画は団員が描いたことが紹介された。形成外科の女医さん。勤務医らしかったから,忙しくないはずがない。それでもって,吹奏楽団に属してホルンやサックスを吹き,こうして絵まで描いてしまう。才人というか,生きることに貪欲な人というか。いるんですなぁ,こういうマルチな人。

● お二人の功績もあって,スッキリと楽しむことができた。ひっかかるところがない。ストーリーが奇想天外で単純なのもいい。
 要は,口を開けたまま楽しめるっていうか。ステージの方からこちらに来てくれるんで,こっちは動かなくていいっていう気楽さだね。

● そのあとは,聴かせる曲が2つ。リードの「吹奏楽のための第三組曲(バレエの情景)」と片岡寛晶「鳥之石楠船神-吹奏楽と打楽器群のための神話」。
 最後に,「花は咲く」(菅野よう子)を演奏して終了。
 最もソロの出番が多かったと思えるフルートの一番。彼女のフルートが印象に残りましたかね。数ある楽器の中で,フルートの音色が一番好きなんだと思うんですけどね,ぼく自身が。

● 東日本大震災の義援金の受付も行われていた。寄付するというより,面白かった演奏のお礼の意味で,わずかな額を募金箱に投入。
 次回はクリスマス・コンサートになる。12月14日。栃響の「第九」と重なる。さてどっちに行こうか,ということになる。

2014年6月25日水曜日

2014.06.22 ベルリン交響楽団 ベートーヴェン・交響曲チクルス-4

栃木県総合文化センター メインホール

● 開演は午後4時。8番と9番。
 ちなみに,この4回目が観客が最も多かった。地元の合唱団が登場するので,彼らの知り合いや家族が来たんだろうね。

● まず,8番。
 最初のフレーズがどう聞こえてくるか,これで決まってしまう。これが姿を変え,形を変えて,何度も出てくる。これでもかっていうくらいに畳みかけてくる。ベートーヴェンってそうですよね。5番も6番もそうだし,ヴァイオリン・ソナタの9番もそうだし。
 この畳みかけが気持ちいいんですよねぇ。その最初の一撃が,だから,とても重要になる。

● 前日の初っ端,1番を聴いて,この楽団に対するこちらのリスペクトは完成した。先ほどの6番と7番でゆるぎないものになった。
 その状態で聴く8番の最初。タッタラタララーン,タララララララー。
 まぁね,生きてて良かったとは言いませんよ。そこまでは言わないけれども,聴けて良かったとの思いは痛切にこみあげてきた。

● つながりがいいと感じた。間合いがいい。演奏が途切れる瞬間が当然ある。楽章間は言うまでもない。切れるんだけど,その前後が繋がっている感じ。
 いい悪いじゃなくて,ずっと繋がっているっていう感じね。スタミナの問題だと思う。奏者にスタミナが豊富にあるんだと思う。

● ふっと思った。お金が欲しい。1億円欲しい。何に使うか。
 完全防音の部屋をひとつ作る。そのうえでオーディオ装置に惜しみなくお金を注ぐ。電気も家の配電盤から分岐するんじゃなくて,電線から直接,専用で引きこみたい。
 その部屋にこもって,大音量でCDを再生したい。そうまですれば,CDでもこの味わいを再現できるんじゃないかと考えた。
 てな妄想に浸ったりもしながら,聴いてましたよ。

● 最後は「第九」。
 第1楽章はベートーヴェンの頂点だとぼくは思っている(反論は受け付けない)。そこで展開されるのは宇宙創成の物語だ。ビッグバンだ。何もないところに宇宙が生まれる(ビッグバン以前も無ではなかったらしんだけど)。いかな万能の神でも,この大業は一発では決まらない。何度ものトライアルを強いられる。神も苦悩するのだ。
 というような物語を,ぼくは作ってしまっていて,なかなかそこから自由になれないでいる。っていうか,自由になろうとしていなくて,CDを聴きながら脳内に勝手な妄想を作りだして遊んでいる。
 今回は存分にその妄想遊びを楽しむことができた。演奏がいいんだから,上質な妄想(?)がどんどん湧いてくるわけですね。

● (ぼくのイメージでは)第2楽章以降は人間の話になる。でね,ぼくのようなタイプの人は,純粋音楽ってたぶんダメなんでしょうね。楽しめないんじゃないかと思うんですよ。
 音楽を音楽として楽しむ能力が弱いか,あるいはまったくない。

● 第2楽章冒頭のティンパニの一打が印象に残りましたね。鮮やかな捌き。目が醒めるようなっていうか。
 この楽章はティンパニが主役。すごいもんだな。もっと具体的に言えればいいんだけれども,ぼくの鑑賞能力だとすごいもんだなのひと言で終わってしまう。

● 第3楽章の前に,ソリストと合唱団が入場。
 ソー二ャ・シャリッチ(ソプラノ),シュタイン・マリエ・フィッシャー(アルト),アッティリオ・グラセール(テノール),トマシュ・ヴィヤ(バス)の4人と,栃木県楽友協会合唱団の皆さん。

● これまで何度か聴いた「第九」の演奏会では,合唱が管弦楽を消してしまうことがあった。合唱のボリュームがすごくて,管弦楽の演奏が聞こえなくなる。
 年末に多く催行される「第九」では合唱団が主催者であるものが多い。合唱が主体。そのためにオーケストラを雇う。あるいは借りる。
 人の声が持つ問答無用の説得力。それに加えて,大編隊の合唱団。合唱はすごいんだけど,交響曲はどこに行っちゃったんだよ,ってことになる。過ぎたるは及ばざるがごとし,ということもある。

● しかし,今回はそういうことはなく,管弦楽がしっかりと聞こえていた。
 湿った空気と声楽は相性が悪いのかもしれない。空気が声を吸いとってしまうとか。ソリストの声も同じだったから。ぼくが座っていた席が,声の通り道から外れたところにあっただけかもしれないんだけどね。
 でも,結果において,これで良かったと思う。合唱が弱かったとはまったく思わない。力があった。練習の成果なのだろう。必要以上に大音量じゃなかったというだけだ。
 管弦楽とよく絡んでいたし,まったくもって何の不満もなし。

● 電気というものが発見されて,蓄音機ができて,音をコピーすることができるようになった。その恩恵は計り知れない。それがなかったら,ぼくのような者がこうして音楽を聴きにくるなんてことはあり得なかったはずだ。
 なんだけれども,その録音技術をもってしても,合唱だけは十全にコピーするのは難しいのかなと感じている。

● リアルの合唱が発生させる空気の震え。耳ではなく皮膚に届くもの。ここまでコピーするのはさすがに難しいのだろう。
 不可能ではないのかもしれない。こちらの受容器は二つだとしても,発生源はひとつなんだから。あるいは,環境を整えれば,今のCDでもそこまで再生できるのかもしれない。
 そのあたりはよくわからないんだけれども,ぼくが置かれたj状況下では,生で聴く機会をできるだけ確保するのが,現実的な対応というものだ。

● これで終わってしまった。「第九」の後とあっては,さすがにアンコールはない。これで終わってしまったんだなぁ。
 ステージで演奏しているオーケストラと自分との距離が,どんどん短くなるわけですよね。親近感っていうんですか。トルコ顔だの長髪だの黒髪だのが,個性を持って勝手に動きだしてるわけでね(セカンドヴァイオリンのトップも絵的に印象に残った)。物理的にも近い位置で聴いていたからだよね。
 ともかく。2日間のお祭りが終わってしまったよ,と。

● ライヴを聴くようになった頃の初心(?)を思いだすことができましたよ。ステージに立つ人たちが,今日までそこに込めてきた時間の長さに敬意を表すること。そこから出発すること。
 言わず語らずのうちに,こちらの思いをその地点に引っぱって行ってくれるような演奏でしたね。その意味でも,ありがたい演奏会だったなと思います。

2014年6月24日火曜日

2014.06.22 ベルリン交響楽団 ベートーヴェン・交響曲チクルス-3

栃木県総合文化センター メインホール

● 朝から雨。この時期,日本は雨期に入っているんだから,雨は降って当然だ。梅雨と台風がなかったら,日本列島は砂漠になるらしい。ありがたい雨というわけだ。
 ともあれ,3回目。開演は午前11時。演奏されるのは6番と7番。

● トルコ顔のフルートで7番が聴けるのかと思うと,朝からワクワクしたわけなんだけど,まずは6番。
 で,ですね,この6番がすごかったんですよ。今まで聴いたことのないテイストでしたね。
 どういうテイストだったんだよ,そこを説明しろよ。
 いや,それがわからないんですよ。こんな6番は初めてだというのだけはわかる。だけど,それが甘いんだか,辛いんだか,酸っぱいんだかは,わからない。どこをどう調理するとこういうテイストになるのかもわからない。だめだな,オレ。

● わりと荒っぽい感じも受けましたね。演奏が荒っぽいのではない。荒っぽさをめざしていて,めざすとおりに荒っぽく表現できていたんだろうなぁと思うんですよ。
 そのめざす方向が,今までぼくが聴いたいくつかの演奏とは違っていたんだろうな,と。まぁ,無理やり理屈を捻りだそうとすると,そんなふうなことになる。って,理屈になっていないか。

● ぼくには驚きの6番だった。6番ってベートーヴェンの中では少々平板で,起伏に乏しいよなと思うこともあったんだけど,そこのところを揺さぶってもらえた感じ。
 こんなふうにもできるんだよ,坊や,ってなもんだ。

● さて,7番。でも。あら,残念。トルコ顔が引っこんでしまった。
 替わって1番フルートを取ったのは,東洋系の若い女性奏者。緑なす黒髪っていう,古い言い方が浮かんできた。いや見事な黒髪で,たぶん,彼女も相当にこだわっているんじゃないかねぇ。ただ,わが大和撫子ではない(と思う)。
 その黒髪のフルートもぜんぜんOKなんですよ。OKというレベルじゃなくて,相当すごい。7番はフルートが前衛でオーボエが後衛を務めるテニスのダブルスのような按配だから,この二つがぶれないでいてくれると,全体が締まる。
 で,ピッと締まった7番になった。

● 長髪男性のファゴットも注目をひいた。テンポを刻む安定感ね。
 ティンパニもいやでも目立つわけだけど,見事な捌きですよね。敏捷でムダな動きがない。この天気じゃ楽器の調整も厄介だったろうけど。
 それからホルン。第3楽章に1ミリも乱れが入らない。ここはホルンだもんなぁ。

● 大晦日に東京文化会館で催行される「ベートーヴェンは凄い! 全交響曲連続演奏会」というのがありますね。1日で9つの交響曲を1番から順に演奏するという破天荒な演奏会なんだけど,2011年から3年連続で聴きに行っている。
 その中で最も圧巻だったのは,2012年の5番と7番だった。ぎゅっと圧縮した集中が切れることなく,鬼気迫るような演奏になった。
 今回のベルリン交響楽団の7番には,鬼気迫るといった気配は感じなかった。その理由はけっこうはっきりしている。演奏のうちに柔らかさを含んでいたからだ。
 ここは自信がないままにポロッと言っちゃうんだけど,鬼気迫るというのは最上ではない。ファインプレーをファインプレーにしない,あるいはファインプレーに見せない,プレーの仕方があるようなのだ。

● ここまでの演奏をしたうえで,今回もアンコールがあった。「フィガロの結婚」序曲。
 さて,残すは8番と9番。なんだかさ,お祭りの終わりが近づいてきた寂しさを感じてね。雨のせいもあるかな。

2014年6月23日月曜日

2014.06.21 ベルリン交響楽団 ベートーヴェン・交響曲チクルス-2

栃木県総合文化センター メインホール

● 夕刻から雨になった。宇都宮は大雨で地すべりが発生し,家屋が流される被害が出ている。先日のことだ。幸いなことに,空き家だったらしいんだけど。夕方から降りだすパターンが続いている。
 始まる前に何か食べておきたかったんだけど,館内のレストランは貸切りだという。この雨じゃ,身動きが取れない。ちなみに,傘は持ってきていない。なぜなら,第一に午前中は降っていなかったからであり,第二に傘は嫌いだからである。
 館内にグリコのバタープリッツと菓子パンを売る自販機があったので,菓子パンをひとつ食べた。140円。
 ともあれ,2回目の開演は午後6時。

● 4番と3番。CDでは4番と9番はカラヤン&ベルリン・フィルで聴いている。どういうわけか,4番を聴いている最中に,カラヤンのCDの音が頭の中でビンビン鳴った。ステージから届く音がカラヤンにそっくりだというわけではない。そういうわけじゃない。第一,CDと生なんだから,そっくりになるわけがない。
 どういうわけのものだろう。何の脈絡もないんだけど。

● シャンバダール先生,タクトを持たなくても,っていうか腕を振らなくても,表情だけで指揮できるのではあるまいか。ときどき指揮中の横顔が見える瞬間があったんだけど,そんな印象を持たせるものだった。
 なんだか,この人,何から何まで絵になるな。団員にとっては怖い人なのか。それとも,気のいいオッチャン的な親しみやすい人なのか。怖い人なんだろうな。

● 3番でも依然,香気がたちこめている印象。香りたつ。あれやこれや,小賢しいことを考えずにすむ。
 聴いてりゃいいんだから。っていうか,聴く以外に何もさせてもらえないんだから。

● トルコ顔のフルートの一番奏者が印象に残った。何ていうんだろうなぁ。なめらか? 幽玄? なめらかでもあり幽玄でもあるんだけど,それだとちょっと的をはずした言い方か。自由闊達? 心の欲する所に従って矩を踰えず?
 こんなフルートを聴いたことがあったろうか。明日はこのフルートで7番を聴けるのか。明日,早く来い。

● ここでもアンコールが2曲。グリーグの「ペール・ギュント」から「朝」。メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」間奏曲。
 シャンバダール先生の「おやすみなさい」で2回目も終了。

● 誤算は終演時点でも雨があがっていなかったこと。が,小降りにはなっていたので,そのまま歩きだした。雨にぬれたくらいじゃ死なないからね。

2014.06.21 ベルリン交響楽団 ベートーヴェン・交響曲チクルス-1

栃木県総合文化センター メインホール

● ベートーヴェンの交響曲は,最も演奏される機会の多い曲群。のみならず,CDでも気がついたらベートーヴェンを聴いていたってことも,けっこうな割合である。
 バッハでもモーツァルトでもなく,ベートーヴェンに向かう性癖がありますね。ぼくの場合は,ですけど。
 どれかひとつを選べと言われれば,9番の第1楽章。ぼくの場合は,ですけど。

● ベルリン交響楽団はちょうど2年前に同じ会場で聴く機会があった。今回は2日間で9つの交響曲を演奏する。
 まずは,その1回目。チケットはS席で5,000円だけれども,複数回の通し券だと4,000円になる。4回に分けて演奏するから,全部で16,000円。開演は午後2時。プログラムは別売で1,000円。

● ちなみに,7月にはサントリーホールでも演奏するんだけど,そちらは単公演で11,000円。曲目も違うし(及川浩治さんがソリストで登場する),サントリーホールと栃木県総合文化センターを同一に論じるわけにはいかないとしても,だいぶ安い。
 観客が負担してしかるべき分を公費で出してくれてるんでしょうね。その恩恵はありがたく受けることにして,4,000円で入場。

● 2年前は,正直,若干の不燃焼感が残ってしまった。今回はどうか。お手並み拝見。
 まずは選手入場。コンマスをはじめ,見覚えのある顔がいくつかあったけれども,メンバーの交代もそれなりにあるようだ。

● 指揮者はリオール・シャンバダール。この人は一度見たら絶対に忘れない。他の追随を許さない体型の持ち主だから。お相撲さんか。指揮台に上がるのに階段が設けられていた。
 しかし,その体型を含めて,所作がとても絵になる男だ。

● 1回目は1番,2番,5番の3曲。1番が始まってすぐに引きこまれた。すっと立ちのぼる香気。
 その前のチューニングでのオーボエの音色。並みの奏者じゃないことはすぐにわかる。
 オーボエもフルートも開始後すぐに長いブレスを強要される。どうやって吹いているんだろうと不思議に思えるほどに切れ目がない。どうやっているのだ。

● 会場の空気を切り裂いてこちらに届く音の連続を聴きながら,こっちがドイツに出向いて,こいつらの演奏を聴かなきゃダメだと思った。今の時期の日本の重くて湿った空気じゃなくて,ドイツの冷たくて乾いた空気(イメージで言ってるんだけど)の中で聴いてみたいと思った。

● 1番を聴いた時点で,この楽団に対するこちらのリスペクトは完成した。この先は,手玉に取られた猫さながらの状態で聴くことになった。
 2番。重いところはドスンと重く,軽やかなところでは席を立ってスキップしたくなるような軽妙感。軽やかさってモーツァルトの専売特許じゃないんだな。人生と哲学を持ちこんで音楽を重くしたと言われるベートーヴェンにも,なんとも浮きたつような軽みがある。そういう部分がある。

● 5番。第4楽章まで出番のないピッコロとトロンボーン。トロンボーンは後ろの方に並んでいるからまだ救いがあるけど,ピッコロ奏者は辛くない? 前後左右がバンバン働いているのに,自分だけジッとしてなくちゃいけないってのはなぁ。
 奏者はけっしてそんなことはないのかもしれないけれど。4楽章に入ったらその瞬間から暴れてやるぞ,と手ぐすねひいているのかね。

● これだけやって,アンコールが2曲。ブラームスのハンガリー舞曲第5番と,エルガーの「ニムロッド」。
 ショーマンシップに溢れているというか,サービス精神が旺盛というか。2年前もアンコールの1曲目はブラームスのこの曲だった。
 いや,大いに満足して,まず1回目は終了。

2014年6月16日月曜日

2014.06.15 日本交響楽団第3回定期演奏会

小山市立文化センター 大ホール

● 第2回に続いて,2回目の拝聴。開演は午後2時。チケットは1,500円(S席)。

● まず,シベリウスの「フィンランディア」。抑え気味のテンポでていねいに演奏していた(と思えた)。このていねいさは,指揮者の高山健児さんのスピリットなんだろうか。
 もちろん,客席にはひじょうに好ましいものとして映る。自分を客席代表に見立ててしまっているわけだけど。

● 次は,スメタナの「わが祖国より」第3曲(シャールカ)と第4曲(ボヘミアの森と草原)。この2曲,曲調はまるで違いますね。
 「シャールカ」はとにかくオーボエ。「ボヘミアの森と草原」はお立ち台に立たせる楽器はこれといってない。オールキャストの総力戦になる。
 それぞれの戦い方で,試合終了。勝ったのか負けたのかはわからない。奏者それぞれに思いはあるんだろうけど。
 ただ,客席は満足してましたよ。これは間違いない。ぼくもその一人だから。客席の反応はたぶんステージにも届くものだと思うんだけど,客席にいれば隣の人,その隣の人,そして客席全体,の満足度はヴィヴィッドに伝わってくる。
 
● 休憩後は,メインのメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」。これが聴きたくて出かけたようなものだ。
 高校時代,友人と一度だけクラシック音楽の話をしたことがある。彼(ちなみに,芸術科目は美術を選択していた)はメンデルスゾーンが好きだと言った。今思えば,おそらくヴァイオリン協奏曲の第1楽章に代表される叙情性のようなものに惹かれていたのじゃないかと思う。
 ともあれ。そうか,メンデルスゾーンなのか,とぼくは思った。その彼とも音信不通になって久しいけれども,ぼく自身,メンデルスゾーンはよく聴く作曲家のひとりになった。

● 安定感のある演奏だったと思いますね。第3楽章以降は安定感に勢いが加わった。個々の奏者のベクトルの向きが揃ったように思われた。ベクトルの長さは,個々の技量によって異なるとしても。
 こうなると強いね。吸引力が増す。

● この演奏会において唯一残念だったのは,開演前に市長のあいさつがあったことだ。定例的な言葉を用いた起伏のないあいさつ。開演前の緊張に水をさす。演奏会には演奏以外のものはない方がいい。
 この日を迎えられたのはひとえに市民の皆様のおかげと言われたって,オレ,小山市民じゃねーし。小山市の小山市による小山市のための楽団であり演奏会なのか。ケツの穴が小さくてすまんが。
 この種のあいさつを蛇蝎のごとく嫌う自分に,われながら驚いたというか。

2014年6月9日月曜日

2014.06.08 那須室内合奏団第6回演奏会 ピアノと弦楽の饗宴

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 第3回の演奏会を聴いている。2010年の5月。その後,東日本大震災があり,わが家においても,ま,いろいろあって今日に至る。
 わが家だけじゃないだろう,この間は,どちらのご家庭でもさまざまあったに違いない。東日本大震災は,それだけのインパクトのある出来事だった。
 ただし,わが家においては喉元過ぎればになりつつある。幸いにも,というべきなんだろうけど。

● ともあれ,4年ぶりにこの合奏団の演奏を聴きに行った。小さな合奏団にもかかわらず(と言っていいのか),やることは大きい。音楽監督兼コンサートマスターの白井英治さんの顔というか伝手というか,それが効いているんでしょうね。
 昨年は指揮者に小林研一郎さんを招聘しての演奏会だった。今回は山下洋輔さんが登場する。
 昨年は見送ったんだけれども,今回は何が何でも聴いておきたいと思った。山下さんのピアノを生で聴ける機会なんか,これを逃すといつあるかわからないからね。

● 先週,この辺も梅雨入りした。今年の梅雨は今のところしっかりした梅雨で,毎日ちゃんと雨を降らせている。この日も朝から雨。梅雨と台風がなかったら,日本列島は砂漠化するらしいから,ありがたい雨なのだ。
 その雨の中を出かけていった。開演は午後2時。チケットは2,500円(当日券は3,000円)。
 山下さんとの共演は,団員にとっても冒険(?)に違いない。その冒険をしてもらって,その成果を還元してもらうために,この程度の費用負担は厭うところではない。っていうか,安いでしょ,これ。

● まずは合奏団だけでヴォルフ=フェラーリの「弦楽のためのセレナーデ 変ホ長調」。もちろん,初めて聴く曲。CDも持っていないし。
 この合奏団には中学生の男の子や高校生の女の子もいる。中学生や高校生だからといって侮ってはいけないというのは経験済みだ。
 プロ奏者が数名,賛助に入っている。中高生にとってはけっこう以上の刺激になっているのかなぁ。

● 休憩後,山下さんが登場。登場の仕方も軽やかですな。曲はバッハの「ヴァイオリン協奏曲 ホ長調」の第1楽章。ヴァイオリンのところをピアノでやるということなんでしょうね。
 山下さんが何をどうしているのか,ぼくにはぜんぜんわからない。わからないんだけど,目を離すことができない。

● 白井さんの説明によると,山下さんは「何でもジャズにしてしまう」と。こちらはジャズというものがよくわからない。したがって,何でもジャズにしてしまうということがどういうことなのかわからない。何なんでしょ,頭だけで考えすぎてますか。
 山下さんによれば,バッハはそのまま弾いてもモダンジャズになる,ジャズマンの間では常識,ということなんだけど,なんで?
 どんなものでもジャズになるっていうのは,じつはけっこう聞くことの多いフレーズなんだけども,ジャズって間口が広いってことなんだろうか。ロックでもポップスでもあるいはクラシックでも,最初からジャズ的要素を抱え持っているっていうこと?

● 俳句を音にすることもできるという。実際にやってくれたんだけど,これ,すごい。古池や蛙飛び込む水の音,だったか(違うかもしれない)。ピアノで俳句を詠める。
 面白いんですよ。抱腹絶倒とはこういうことだろう。なんじゃ,こりゃあ,っていう。面白いんだけれども,どうして面白いのかが,自分でわからないというもどかしさ。

● 次は「ラプソディー・イン・ブルー」。肘うちもたっぷり見れた。が,山下さんが何を考えて,何をどうしているのかさっぱりわからない。わからないけれども,自然にニヤニヤしている自分を意識することになる。
 さすがに合奏団も山下さんに合わせきることはできなかったようだ。が,完全に合ってしまったのではかえって感興を削ぐかもしれない。合う合わないは二の次でいいような感じ。

● 5月に合わせ練習をして,前日のリハーサル,この日の午前中のゲネプロと,合奏団が山下さんと一緒に演奏する機会は三度あったらしい。でも,あんまりリハーサルをやってしまってはいけないんでしょうね。
 何が起こるかわからない楽しみといったものを残しておきたいもんね。合奏団にしても,山下さんが何をやってくるのかわからない方がスリリングなはずだ。同時に,不安でもあるだろうけど。

● アンコールもたっぷり見せてくれて,充分以上に堪能できた(と自分では思っているんだけど,ガードをあげてせっかくの演奏を遮断していたかもしれない)。
 山下さん,端正な人だ。印象としては端正というのがピッタリくる。最初からそうだったのか,最終的にそこに辿りついたのか,それはわからない。たぶん,後者だとは思うけど。最初から端正な人では,あそこまでの魅力はまとえないと思うのでね。
 72歳。ああいう歳のとり方をできれば素敵だ。もう遅いけど,ぼくは。

● なぜ素敵かといえば,絶対,女性にモテるもん。男なんてアホだから,いくつになっても女性にモテたいと思う。女性にとっては,思春期を除けば,男性にモテるっていうのが価値の第1位にくることはないと思うんですけどね。
 これならモテるよっていうのを教えてもらったような気がしましてね。それは何かっていうのを文字にしようとすると,うまく書けないので,詳細は略。
 が,ざっくりいうと,個性でしょうね。文字どおり,その個にしか存在ない何ものか。その何ものかが突出していること。そうすればたいていモテるでしょ。
 その何ものかって,一生かかって営々と積みあげるというよりは,一瞬で掴み取るものかもしれない。その反射神経を持たなかった者は,選ばれし者じゃなかったってことでしょうね。

● 逆にいえば,口を開けばテレビのコメンテーターがほざいているようなことしか言えず,何をやっても平均点を出ることがないような男は,つまらないがゆえにモテないだろうなぁ。
 うーん,もう遅い。残念だ。

2014年6月2日月曜日

2014.06.01 サマー・フレッシュ・コンサート

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 開演は午後2時。全席指定で料金は2,000円(昨年より1,000円安い)。終演は午後5時だったから,二度の休憩をはさんで3時間の公演。
 第1部は「第82回日本音楽コンクール優勝者コンサート」。ただし,登場したのはヴァイオリンの大江薫さんとフルートの松木さやさんのお二人にとどまった。

● 大江さん,まだお若い。演奏したのは,ヴィターリ「シャコンヌ」とヴィエニャフスキ「華麗なるポロネーズ第2番」。味わいのまったく違う2曲。ピアノ伴奏は梅村祐子さん。
 素人の耳にもそれとわかる圧倒的な実力。ポカンと口をあけて聴いた(実際には口はあけてなかったと思うけど,気分としてはそういうこと)。
 桐朋のソリスト・ディプロマコースのかたわら,慶応法学部の学生でもある。

● 慢心するとか練習の手を抜くとか,そういうことは想像しにくいタイプとお見受けしたけれども,これから今以上にうまくなるということは,つまりどういう状態になることなんだろうか。こちらには想像できない。

● 松木さんは芸大院に在籍。大江さんに比べるとわかりやすいですな。タファネルの「ミニヨンの主題によるグランド・ファンタジー」。ピアノ伴奏は與口理恵さん。
 大江さんもそうなんだけど,生まれたときからこういうふうに演奏できてたような感じなんですね。そんなはずがあるわけもなく,人に言ってもわかってもらえないような練習をしてきているに違いないんだけど,その長い練習時間を感じさせない。
 軽々と飄々と演奏していると思わせる。裏を想像させない。

● 第2部は「那須野が原の夏に歌う」と題して,伊藤和子さん(ソプラノ),藤田和恵さん(ソプラノ),女声合唱団コール・クランツェの皆さんが登場。

● 第3部は,まず金子鈴太郎さんのチェロ。バッハの「無伴奏チェロ組曲」の1番と5番。昨年は4番と3番だった。
 昨年は,この楽曲を味わえるようになるには,自分はまだまだだなと思ったものだった。が,今回は多少,ひっかき傷くらいはつけられるようになってるかもしれないなと思えた。この1年間で多少は進歩した? っていうか,去年は何を聴いていたんだろう。

● ここのところ,バッハを聴く機会が多い。体系的にバッハを聴いたことのあるはずもなくて,一度はちゃんと聴かなきゃとは思っている。
 あの膨大な作品群を体系的に聴く? 考えただけで臆してしまうんだけど,今回のような演奏を聴かせてもらうと,背中を押される思いがする。背中を押されてどうするか。あとは,百パーセント,自分の問題ってことになる。

● 最後は,御邊典一さんと岩本健吾さんのピアノ,岩下美香さんのパーカッションで,リストの交響詩「前奏曲」とピアソラの「リベルタンゴ」。
 華やかでショーとしての魅力がたっぷりあった。こういう形の「前奏曲」や「リベルタンゴ」を聴けるのは,これが最初で最後になるかもしれない。

● 開演後に入ってくるお客さんがいる。これは仕方がないのかもしれないけれど,なまじ指定席にしてあるものだから,演奏中に自分の席を探してウロウロと歩き回ることになってしまう。とりあえずは空いている席に座ってもらって,しかるべきタイミングで自席に移ればいい。
 そのように伝えないといけないのじゃないか。このあたり,若干,運営上の課題を残したかも。

● あと,ずっとお喋りをやめない婆さんの二人組がいたな。頭に浮かんだことは洗いざらい口から吐きださないといられない人って,いるね。選別しない。待てしばしもない。
 浄化槽もなければ,一時溜めておく集水枡もない。即時に全部,口から垂れ流してしまう。したがって,ある種の汚穢感がただよう。

● もっと言ってしまと,昨今の(一部の)高齢者の傍若無人ぶりは目にあまる。未就学児の入場はお断りいたします,というのがたいていのコンサートに付きものだけれども,未就学児と70歳以上の高齢者の入場はお断りいたします,とやれば,鑑賞マナーは格段に向上するだろう。
 70歳以上の高齢者と並べてしまっては,未就学児に失礼かもしれぬが。

● ただ,この種の年寄りっていうのは,品性の持ち合わせはないにしても,お金は持ち合わせているからね。彼らを除いてしまうと,コンサート自体が成立しなくなる可能性がひじょうに高い。
 加えて,彼らは人口ピラミッドのマスゾーンを占めている。当分は厄介な状況が続くことを覚悟しなければなるまい。