2018年2月13日火曜日

2018.02.12 東京大学歌劇団 第48回公演 チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」

三鷹市公会堂 光のホール

● 開演は午後3時。入場無料(カンパ制)。

● 歌劇は総合芸術と言われるけれども,演劇的要素が強い分,舞台の設えや演者の衣装など,視覚に依存する部分が大きくなる。視覚の支配力が増すほど,それは大衆性を帯びやすくなる。抽象度が下がって,具体度が上がるわけだから。
 視覚とはそういうもので,音楽に関する限り,視覚は抽象度を下げる働きをする。たとえば管弦楽に比べると,観客側の参入障壁は低くなるはずだ。
 また,そうならなくては,つまり多くの観客を動員できなくては,催行に要したコストの回収が難しくなるだろう。

● オケはピットに入って,客席からは見えなくなる。舞台の演者がフロントで,オケは黒子になる。
 それを残念に思う人もいるかも。歌劇はコンサート形式がいいと思っている人。っていうか,ぼくにもその気がないわけではないんですよね。

● さて,「エフゲニー・オネーギン」。
 ストーリーはいたって単純だ。昔,手ひどくふってやった田舎娘が,艶やかな淑女に変わっていた。サナギが蝶になったように。そこで,蝶になった彼女に自分から言い寄ってみたものの,彼女から手ひどく拒絶されて終わる,という話。
 ストーリーは単純で骨太である方が,歌劇にしやすいのだろうね。単純である方がいろんな綾を付けやすいのかもしれない。

● その単純で骨太なストーリーをどこに求めるかといえば,男女の恋愛が一番だ。ワーグナーという重大な例外があるし,歌劇という歌劇がすべて恋愛譚であるわけではないのだろうけど,まぁ恋愛ものが最も多いよね,と。
 となると,劇中人物の年齢はだいぶ若く設定しないといけなくなる。「エフゲニー・オネーギン」ではだいたい二十歳前。恋愛をするにも能力が必要だ。恋愛能力がね。それは誰にも与えられているモノだけれども,使用期間は限定されている。10代,せいぜい20代の前半まで。それを過ぎると恋愛能力は大きく低下する。

● いや,そんなことはない,と言われるか。「自分は30歳になるが,この歳になると女(男)を冷静に見られるようになる。いっときの衝動で突っ走ることがなくなるから,むしろ幸せな結婚ができそうな気がする」,と。
 いっときの衝動で突っ走るのを恋愛というのだ。それができなくなったのは,恋愛能力が低下したからだ。今のように結婚年齢が30歳ということになると,文字どおりの恋愛結婚は皆無のはずだ。本人が意識するしないに関わらず,打算と計算で結婚しているはずなのだ。
 もちろん,それでいい。恋愛のみでした結婚は必ず破綻に至る。恋愛と結婚は関係ない。結婚は打算ですべきものだ(しなくてもいいものだ)。

● 恋愛能力がなくなっているのに,打算や計算ができないサンジューバカ(男性)が多すぎるのが,むしろ問題じゃないのか。
 ついでに申せば,女性は冷徹なほどにこの種の計算をしていることも知っておくがいい。これができない女性はいない。
 もっとも,あり得ないほどに自身を高く見積もってしまうのも女性性の特徴で,ときに唖然とさせられることもあるから,そのことも心得ておくように。

● しかし,ドラマになるのは恋愛だ。花火のようなものなのだから,大体において絵になるのだ。自身も経験しているだろうし,そうじゃなくても身近にその例を知っているだろうから,感情移入もしやすい。
 何より女性が計算をしないで突っ走るのは,唯一,恋愛に落ちたときだけなのだから,恋愛は物語にしやすいのかもしれない。何があってもおかしくないのだから。

● したがって,とつないでいいのかどうか,恋愛には必ず愚の臭いが伴う。純と愚は同じものの別名だ。
 この歌劇においても,たいていの歌劇がそうであるように,ストーリーの肝要なところは,登場人物の短慮かおバカが引き起こしている。そこが人間らしいところだと言えば言えるわけでしょう。

● さらに脱線。
 幸か不幸か,君が恋愛に落ちてしまったとする。あるいは,その瀬戸際にいるとする。この際,心得ておくべきことが2つばかりある。
 恋の駆け引きというが,この点において男は女の敵ではない。横綱と幕下以上の差がある。ゆえに,駆け引きで勝とうとしてはいけない。もし勝ったと思える局面があったのなら,それはそうなるように彼女が誘導した結果なのだ。
 だから,恋愛においては,自分が彼女に惚れている以上に,彼女に惚れさせなければいけない。駆け引きはそもそも成立しないものだと考えよ。

● もうひとつ。他者のために自分を殺せる度合いは,女の方が男より高い。ということは,恋愛関係においては男が優位なのかというと,まったくそうではない。
 逆だ。女に覚悟を決められたら,普通の男ではまず太刀打ちできない。必ず,女が男を搦め捕る。
 何を言いたいのかというと,この女性はピンと来ないなとわずかでも思うのであれば,初期段階で離れよ,ということ。せっかくだからちょっとイジッてみようかっていうのは,もちろん彼女に対するこの上ない無礼であるわけだけれども,それ以前に少々以上に危険すぎることなのだ。御身大切に。
 「ドン・ジョヴァンニ」になろうとしてはいけない。君にその資質はないのだ。たぶんね。

● 今度こそ,さて,「エフゲニー・オネーギン」。
 じつは,この歌劇のCDもDVDも持っている。だけど,何というのか,封を開けていないんですよ。
 当然,聴いたことも観たこともない。ので,今回の公演で初めて「エフゲニー・オネーギン」とはこういう歌劇だったのかと知ったわけなのだ。
 だから語る資格はないんですよね。舞台の設えがどうだったか。演出に工夫を加えたようなんだけども,それがどうであったのか。そういうところに口をはさむ資格は1ミリもない(と言いながら,はさんでしまうわけだが)。

● バレエについてはチャイコフスキーは燦然と輝く存在だけれど,歌劇においてはチャイコフスキーに限らず,ロシア産のものって,あまり取りあげられる機会はない(ぼくが知らないだけで,あるのかもしれない)。
 初手で観客を鷲づかみするインパクトに欠けるんだろうか。管弦楽曲ではチャイコフスキーはそれを得意としている印象があるんだけど。

● 歌劇ってやっぱり歌い手なんだよね。演出でどうにかできる部分は限られる。玄人筋には重要と捉えられることがあるにしても,ぼくレベルの,つまりほとんどの聴衆にとっては,気づくことすらできないことが多いだろう。
 演出が歌い手に影響を与え,その結果,歌い手が客席に届けるものが変わってくる,ということはあるかもしれないけれども,演出が直に客席と対峙することはあまりないんでしょうね。どうなんだろ。

● 主役級3人のソプラノ,バリトン,テノールはそれぞれ説得力があった。中でも,ソプラノの高音部の抜け方が特に印象的。天性のものでしょうね。ここを努力でどうにかできるとは思えない。
 オネーギン役のバリトンは,巧い以前にていねいだった感じ。しっかり準備を重ねてきたのだろう。
 フィリピエヴナを演じた大島麗子さん。この歌劇団の公演を初めて観たのは2013年1月だった。演物は「カルメン」で,そのカルメンを演じていたのが,当時JKだった大島さん。さすがの安定感。

● タチアーナがオネーギンに辛い言葉を浴びせられて,悲嘆に沈む。ここがおそらく,この歌劇の最大の見せ場。
 その時の表情や姿をどう作るか。演者も演出者もここが腕の見せどころなんでしょ。今回のがその解答のひとつ。正統派というか。
 テレビドラマや映画ではないのだから,抑えた演技というのは選択肢に入ってこないように思うんだけど,他に解答はなかったか。おそらく,ここはいろいろと議論したところなのだろうけど。

● 学生さんのエネルギーがギュッと濃縮されているのが見て取れて,そのエネルギーに圧倒される快感がある。
 それは終演後も続く。キャストが並んでお客さんを出口で見送るわけだ。達成感と安堵感に包まれた彼らが発するエネルギーは並じゃない。まともに受けたら跳ばされそうな気がする。彼らから離れたところを歩かなきゃいけない。

● 歌劇はもう,この歌劇団の年2回の公演を観るだけでいいのではないかという気がしている。
 いや,昨年はこの歌劇団の講演を1回観ただけで終わっているんだけどね。

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