大田区民プラザ
● 新橋のホテルに1泊した。今日帰るんだけど,せっかく東京に出てきたんだから,演奏会を聴いて帰りたい。
毎度そう考えるわけだが,そろそろ,そんなことも言ってられなくなった感がある。コロナの影響が世の中を分厚く覆ってきたからだ。
東京に泊まるのだって,こういう時期だからこそ泊まろうと考えてそうしているのだが,そういうわけにも行かなくなってきている。ひょっとすると,ホテル側としてもそんな義侠心(?)は迷惑なだけかもしれない。
● クラシック音楽の演奏会も,中止や延期にするところがあるという状態はもう過ぎた。中止があたりまえで,開催するところが例外だ。
開催する場合でも,言い訳が必要になっている。なぜ開催することに決めたのかを縷縷説明しなくちゃいけない雰囲気が,鬱陶しくも,動かしがたく蔓延している。
この空気がいつまで続くのかはわからない。1ヶ月で終わるのか,五輪前には終わるのか,ひょっとするとそれ以上になるのか。
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大田区市民プラザ |
● ともあれ,スマホであれこれ検索をかけたら,Ritter der Musik の演奏会が開催されることを知った。今日開催されるのは,ぼくが知り得た限り,この演奏会だけだ。
場所は下丸子の大田区民プラザ。新橋から山手線,品川で京浜東北に乗り換えて蒲田(品川で乗り換えたのは失敗。跨線橋を渡ることになる)。東急多摩川線に乗り換えて,下丸子に来た。過去に何度か来ているので,迷うことはない。
● 東急多摩川線の列車に乗ると,宇都宮に着いたのかと錯覚しそうになるほど,車内の空気は鄙びるわけだが(東京というより,武蔵国といった方がピッタリくる),栃木県民にそんなことを言われる筋合いはないよな。
「翔んで埼玉」だって,埼玉だからこそアミューズメント作品になるのであって,「翔んで栃木」とか「翔んで群馬」っていうんじゃ,洟もひっかけられないだろうよ。箸にも棒にもかからない輩が何を言うかという話だね。
● 開演は午後1時。入場無料。
で,入場時にもらったプログラム冊子を見て気づいたのだけど,この楽団はもっぱらゲーム音楽を演奏しているようだ。
ゲーム音楽といっても,ドラゴンクエストやファイナルファンタジーではなく,「ファイアーエムブレム,ティアリングサーガ,ヴェスタリアサーガの曲を中心に演奏活動をしているアマチュアの楽団です」ということだ。加賀昭三さんのゲームに特化しているってこと?
と,わかったふうなことを書いてみたけれども,ぼくはゲームにはまったく疎い。
● 曲目は次のとおり。
第1部
ファイアーエムブレムヒーローズ より「Fire Emblem Heroes メドレー」
Vestaria Saga I より「Vestaria Saga ゼイドとシルティンメドレー」
ファイアーエムブレム 覚醒 より「きらーんって来て,ばーんみたいな感じ?」
ファイアーエムブレム if より「水底の記憶~濫」
ファイアーエムブレム 聖戦の系譜 より「ずっと敵のターン」
ファイアーエムブレム トラキア より「正義をかけて~トラキア776バトルメドレー」
第2部
ファイアーエムブレム Echoes (前編)より「タイトルループ」「ワールドマップメドレー」「悪逆の気配~序:悪逆の気配」「ミラの加護とともに」「出逢い」
第3部
ファイアーエムブレム Echoes (後編)より「在りし日の唄~悲しみの大地」「往く地の果てには」「ベルクト様メドレー」「神よ,その黄昏よ」「アルカディアの継ぎびと」
アンコール
ファイアーエムブレム 外伝 より「Fire Emblrem 外伝メドレー - RdM Version -」
ファイアーエムブレム 風花雪月 より「天裂く流星」
● 何が何だかさっぱりわからないわけだが,ゲーム音楽を聴くのに,そのゲームについて知っていないと音楽がわからないか(楽しめないか)といえば,そういうわけのものでもないだろう。
吹奏楽ではディズニーメドレーやジブリメドレーは定番のひとつになっているけれども,「アナと雪の女王」や「となりのトトロ」を見ていないと,楽しめないかというとそうではない。
● 知っているに越したことはないとは言えるだろうか。音楽もゲームの内容に合わせて作られるものだから,当然にして答えはイエスかというと,そうとも言えないような気がする。
鑑賞の仕方は自由であるべきで,突拍子もない聴き方もあってよい。ところが,ゲームの内容を知っていると,それに縛られて,自由の幅を狭くしてしまうことがあるかもしれない。
● でも,まぁ,それはためにする議論というもので,内容を知っていることとゲームを体験して得た多くのディテールが,音楽を聴くときのとっかかりになるとしたものだろう。
ゲーム音楽をゲームと完全に切り離して,音楽それ自体として聴こうとする人は少数派(というか,ほとんどいない)だろう。
ステージ上の団員もキャラクターの衣装や帽子を着けて盛りあげようとしているし,どうやらお客さんのかなりの部分も,ファイアーエムブレムやティアリングサーガのヘビープレーヤーであるらしいのだ。
● つまり,今回のこのホールは,ぼくには完全なるアウェイでありました。招かれざる客であったかもしれない。
正直なところ,第1部から3部までの楽曲がどれも同じように聴こえてしまったところもあった。勉強して出直して来い,と言われても仕方がないか。
● 栃木県総合文化センターへ出向いた。ネットで購入していたチケットを受取りに。
4月1日に予定されていた公演なのだが,すでに延期が決まっている。12月27日だ。チケットはそれまで保管しておかねば。
宮田大さんのリサイタルを1,000円で聴けるんだから,聴きに行く以外の選択肢はないわけだけれども,総合文化センターのリニューアル記念公演のわけが,12月になってしまっては,その意味合いがだいぶ薄れる。
● 5月に開催予定の演奏会のチケットを3つばかり,併せて買っておいた。
宇都宮北高校吹奏楽部。藝大同声会栃木支部,林真理子の劇場で愉しむオペラなるもの。
黄金週間に入る頃には,コロナは落ち着いているだろうか。特に,5月3日の宇都宮北高校吹奏楽部の演奏会はやらせてやりたいものだが。
● が,ネットに流れている情報から予想するに,おそらくむずかしいのではないかと思える。
ウィルス感染は,密室(密閉空間),密集,密接(近距離での会話や発声)が揃うと危ないと言われるわけで,クラシック音楽の演奏会においては,近距離での会話や発声は通常はない。密集もだいぶ緩和されているだろう。
しかし,そういうのは程度問題であって,油断はダメだと言われると,返す言葉はないはずのものだ。いつまで待てばいいのですかぁぁ。
● それでもチケットを買ったのは,ささやかな意思表示のほかに願望をも込めているわけだけど,もうひとつ,個人的な事情もある。
今月末日をもって仕事を完全引退するのだ。4月からは毎日が日曜日になる。もっと大事なことは,収入がなくなることだ。今までのように演奏会を聴くために東京に行くのは,なかなか難しくなるのではないかと思う。お金がないんだからね。
いきおい,地元で開催されるのをメインに聴いていくことになる。あるべき姿に戻る。そう,元々地元に沈潜するつもりだったのだから。
● で,地元開催というわけで,コロナのことなどあまり考えないで,買ってしまったというのがホントのところ。
もし中止になれば,代金はすべて寄付でいい。音楽を聴くというのは自分の生活においてけっこうな比重を占めている。が,正直なところ,自腹でお金を払っているのはチケット代くらいのものだ。
CDなんか買ったことがない。いや,何十枚かは買っているんだけども,あらかたは図書館で借りたものだ。パソコンでリッピングして,WALKMANに転送して聴いているわけなのだ。
音源入手にはお金をかけていない。チケット代はだからそのお礼。それゆえ,中止なら寄付でいい。
● 『音楽の友』も買って読んだことは一度もない。たいていの図書館には置いてあるが,図書館で手に取るのも10回に1回くらいのものだ。
あれは業界誌だと思っている。そうそう業界の都合に付き合ってはいられない。って,ぼくはプロオケはあまり聴かないので,付き合う付き合わない以前の話かもしれん。
ただ,『音楽の友』のコンサート情報は参考になる。ネットにもここまでまとまったものはないのではないか。ここに載っているコンサートを聴くことは実際にはあまりないとしても,動向はわかる。動向は知っておきたい。
● が,それだったら,コンサート会場に置いてある『ぶらあぼ』で足りるか。今日は総合文化センターでこんなのも見かけた。どうやらこれらで代替可能かもしれない。
となると,『音楽の友』とはいよいよ縁遠くなる。伝統のある雑誌のはずだけども,ぼくは縁なき衆生のひとり。
● ところで。総文センターのロビーは閑散の極み。催事はすべて中止または延期になっているのだし,それがいつまで続くか読めないわけだから,チケットを買いにくるお客さんもいない。
常ならぬ状態であることが,ここに来ると実感できる。帰る場所を持たない人(たぶん)がひとり,椅子にもたれて居眠りをしていた。
埼玉会館 大ホール
● 今日は埼玉会館で開催されるクラースヌイ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会に行こうと思っている。なぜなら,この言い方は失礼千万かと思うのだけど,軒並み中止または延期で,今日開催される演奏会はこれくらいだから。
聴衆にもマスク着用を義務づけるらしい。こうしたやり方に遭遇するのはこれが初めてではない。先月の24日にもあった。そのときはこのやり方に反発して,聴かないで帰ってしまった。
次のような次第だった。
● マスクはホールのカウンターで配っていると言うので,そのマスクを受け取った。のだが。コロナ・ウィルスを防げるようなものでないことは素人眼にも明らかで。お茶を濁すようなことをして,何ごとかをしている気になるのは最も拙いでしょ。
ぼくでもわかるくらいなんだから,主催者もお茶を濁しているだけなのはわかっているはずだ。何かあったときに備えて,いやできることはやっていましたとエクスキューズを作っているんだろうか。だとしたら,限度以上に拙い。
コロナ・ウィルスの拡散を怖れているのなら,演奏会を中止すべきだ。演奏会は,日常の平穏さが確保されて初めて成立するものだからだ。
● 主催者が払ってきた時間や労力や思いを優先してはいけない。左側を走らなければいけないことはわかっているけど,俺にはよんどころない事情があるんだから,今日に限っては右側を走らせろ,というのを認めるのと同断だ。あり得ない。それも主催者はわかっているはずだ。
こんな茶番に付き合わなくちゃ聴けないよう演奏会なら聴かなくていい。で,聴かずに帰ってきた。これって個々の楽団ではなくて,ホール側の方針なんでしょうね。
本当にコロナ・ウィルスの拡散を怖れているのなら,辛いだろうが公演自体を中止せよ。やるのであれば,茶番を付加するのはやめよ。
● というわけなのだった。
街行く人の大半はとっくにマスクを付けている。にもかかわらず,この状況であることが,マスクに効果がないことの証明ではないかと思っている。
そういうオールorナッシング的な考え方は,頭の悪いヤツの特徴なんだよと言われますか。
● その時点では,それを茶番と思える余裕があったわけだ。が,そんなことも言っていられなくなってきた。茶番が茶番でなくなってきた。空気が重くなってきた。
ことここに至っては,空気にしたがう以外の選択肢はなくなっている。それを拒否したら聴ける演奏がなくなるんだから。
ので,柔軟に対応することにしたよ。背に腹は代えられないものね。
● 本当のところはどうなんだろうか。わからないんだよねぇ。中止すべきなんだろうか。逆に,この自粛モードが異常なんだろうか。
大阪ではライブハウスで感染クラスタが発生しているらしい。たまたまライブハウスだったけれども,それ以外のどこで発生しても不思議はないわけだ。
● ぼくは,基本,通常スタイルを変えないことにしているんだけど,不要不急の外出は避けた方がいいんだろうか。
そうすると,外食業や物販業は参ってしまう。けど,一時的なものなのだから仕方がないと割り切るべきなんだろうか。
● もうひとつ,不思議なことがある。道行く人の大半がマスクをしているということそれ自体だ。ドラッグストアにもコンビニにもマスクはない状態がだいぶ続いている。どうしてマスクが買えるのだ?
が,これは身近なところにいる奥さんに訊ねることで解決した。洗濯できるマスクがあるようなのだ。わが家では,ぼくはマスクを付けないで生活しているが,奥さんはマスクをすることにこだわっている。
● で,その中から未使用の黒いマスクを渡された。ところが,出がけにそれを鞄に入れるのを忘れてしまった。
マスクなしで会場に向かうことになった。入場を断られたら,おとなしく退散しよう。
● 開演は午後2時。入場無料。全席自由。
マスクは義務ではなかったようだ。つけてなくても何も言われなかった。実際,市中で買うことが現時点で不可能なんだからね。
が,座席は指定された。バラけて座ってもらうための措置だろう。それができるほどに来場者が少なくなることが予め見込まれたということでもある。
名前と連絡先(電話番号)を書き,それを元にスタッフが指定券を作る。手書き指定券だ。スタッフにとっても余計な手間だ。
しかし,現状においてこれは必須の措置と言える。どれほどの効果があるのかは別の問題だが。
● 埼玉会館のトイレも,こういう措置がしてあった。開放性を確保する。羹にこりてないのに膾を吹く,か。備えあれば憂いなし,か。どちらなのかわからない。
わからないけれども,これに対して,異議申し立てをする人はいないだろう。女性の利用者も黙っているだろう。
● 前置きが長くなりすぎた。ともかく,今日はこの楽団の生演奏を聴くことができるのだ。コロナ騒ぎに伴って発生する諸々の面倒は,そのすべてを主催者が背負ってくれる。ぼくらは会場に自分の身体を運んでいくだけでよい。
予定どおり,午後2時に開演の運びとなった。ここまで非常事態に対応してきた(今日だけではなかったはず)スタッフのご労苦にまずはお礼申しあげたい。おかげで,ぼくらは演奏を聴くことができたわけだから。
● 曲目は次のとおり。
ゲティケ 劇的序曲
ボロディン 交響曲第2番 ロ短調
グラズノフ 交響曲第5番 変ロ短調
ボロディンとグラズノフはCDもあるし,記憶にはないが生でも聴いたことがあるかもしれない。が,ゲティケは全くの初耳で,CDも含めて彼の作品を聴くのは,今回が初体験。CDじたい,見たこともない。
● というわけで,この楽団はロシア音楽を演奏するために結成されたらしい。「Kプレミアムオーケストラの奏者およびそのOBOGを中心に発足」とある。慶應義塾大学の現役とOBOGがメンバーということ。
それで納得するのは,プログラム冊子の質量だ。同人誌を読んでいるような気分になる。話材はロシア音楽であり,ゲティケでありボロディンでありグラズノフであるのだが,内容は義経の八艘飛びのごとし。
書いている人は,団長の小秋元三八人さん(何て読むんだ? ショウシュウゲン サンパチヤッコ?)をはじめ特定の人に限られるのだが,これも同人誌と同じ。
● ここまで勉強している楽員が演奏するんだから,それに対してぼく程度の人間が何か言うのは,それそのものが僭越の誹りを免れない。聴かせていただくという謙虚な姿勢でいるのがいいんでしょうね。客席は謙虚で満ちているのでなければならない。
それでも,脊髄反射で何ごとかを言いたくなるのが一般大衆の度しがたいところであって,ぼくもこれからそれをやろうとしている。
● 指揮者は山上紘生さん。先月,豊洲でオーケストラ・ノットの演奏会を聴いているのだが,そのときの指揮者が山上さんだった。そっか,彼は浦和高校から藝大に進んだのか。上野の藝大までは余裕で通える距離だな。そういうところ,羨ましいな。浦和は都会だよな。
ラーメンの食べ歩きが好きなのか。指揮者の命はたぶん譜読み。自分が理想と考える音楽を脳内で何度も鳴らしているのだろう。ラーメンを食べているときもそうかもしれぬ。
指揮者というのは,胃袋がいくつあっても足りない商売かと思えるのだが,思えば因果な職業を志してしまったものだ。もっとも,因果ではない職業がこの世にあるのかどうか,それはわからない。
● 山上さんは,今月,藝大の学部を終えたはず。指揮者も若いが,団員も若い。したがって,とつないでいいのかはわからないのだが,演奏も若々しい。渓流を流れ下っていく清流のごとき勢いがある(と感じた)。
この腕なら,ロシアでなくても,何を中心にしても文句は言わない。次回は「十月革命」をテーマに,グリエール,カバレフスキー,ショスタコーヴィチを取りあげるらしいのだが,この尖りも若さゆえかもしれぬ。
● コンミスの躍動感が目を惹く。コンミスはそうして引っぱっていく。では,他は引っぱられるのかというと,そうではない。
ロシアを演奏しているのだ。金管や木管が引っぱられていたのでは演奏は成立しないとしたものだ。
アンコールはグラズノフ「勝利の行進曲」。
● 上に述べ来たったような理由で,この楽団の演奏を聴いたのは,コロナウィルスがもたらした偶然だ。それがなければたぶん東京に行っていたろう。
が,流れには流されてみるものだ。僥倖だった。クラースヌイ・フィル,記憶に留めておくべき楽団だと思う。
● 親の仇をとるように,週末ごとに東京に出かけているのだが,今週末も東京のホテルに宿泊予定。で,東京に行くのであれば,やはり東京で開催されるクラシック音楽の演奏会に行ってみたいと思う。
休日に首都圏で演奏会がゼロということはまずあり得ない。必ずどこかでやっている。ので,オケ専などのサイトをチェックして,どこに行くかを決める。
● が,ここに来て,演奏会の中止・延期がドッと増えた。ライブハウスでの感染が発生したとの報道が効いているんでしょうね。7日(土)と8日(日)も軒並み中止か延期だ。特に,8日は全滅状態だ。
演奏会に行けないのに,東京に行って面白いか。答えは当然,イエス。ホテルから出ないでまったり過ごすのもいいし,ホテルの近くを散歩するのも楽しい。東京は歩いてて楽しいところが多い。
● と思っていたのだが,何だか興趣を削がれる気分がなくはない。だったらわざわざ東京に行かなくてもいいか的な気分が兆すようになった。
4月からは仕事を辞めるので,主には経済的な理由で東京に行く回数は激減すると思うのだが,その空白感はさほどでもないような気がしてきた。これはこれでありがたい。
● 地域に根を張るつもりはないが,4月以降は演奏会も地元を中心に聴いていくことになるだろう。あとはCDで補えばよい。その環境でよろしい。
つまり,今回のコロナ・ウィルス騒ぎの効用は,自分に東京行きにおける演奏会の比重が自分が思っていたよりも重かったこととを教えてくれたことだ。
大田区民ホール・アプリコ 大ホール
● せっかく東京にいるのだからというわけで,本日はダブルヘッダー。渋谷から蒲田に移動。
アプリコは駅の近く。渋谷では散々迷ってしまったが,ここで迷うことはない。
開演は午後6時。当日券(2,000円)で入場。チケットのもぎりはここでもなし。コロナ・ウィルス対策で,ほとんどのところがそうしている(と思う)。
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アプリコ |
● 全席指定。が,指定されたエリアが団子のように固まって点在している。聴衆が密集しているところと,誰もいないところがある。
ひょっとすると,誰もいない席は新型肺炎を怖れて聴くのをやめた人たちが取っていた席かもしれず,後から誰かが来る席なのかもしれなかった。
が,そうだとしても,この状況では,指定された席にこだわらずに,空いている席にバラけて座るよう,アナウンスがあってもよかったかもしれない。休憩後,ぼくは個人的にそのようにしたのだが。
● 指揮は柳澤寿男さん。ぼくはまったく存じあげなかったのだが,激動のコソボで精力的に活動してきた人。いや,今回のプログラム冊子のプロフィールで知ったばかりなのだが。
バルカン室内管弦楽団を設立し,その音楽監督を務める。そのバルカン室内管弦楽団の来日公演が今年7月9日に第一生命ホールで行われる。憶えておこう。
● 曲目は次のとおり。
シベリウス 交響曲第7番 ハ長調
チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲 ニ長調
リムスキー=コルサコフ 交響組曲「シェエラザード」
● 白眉だったのは,チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。ソリスト(中村大地さん)もすごいが,オケもすごい。いや,このオケ,ほんとすごい。
創立は1991年。「慶應義塾大学ワグネル・ソサィエティー・オーケストラの卒業生を中心に」結成されたらしい。現在は「ワグネルOBではないメンバーも加わって」いるようなのだけど,それでもワグネルOB・OG管弦楽団的な性格が濃いのだろうと,とりあえず推測しておく。
● 独奏ヴァイオリンに絡む役がらが多いフルートが,どうしたって目立つのだが,このフルートがほんと絶品。彼女もワグネルOGだとすると(違うのかもしれないが),音大は経ていないわけだ。それでここまでの演奏ができるのか。音楽に集中した数年間がなければできない演奏だと思えたのだが。
フルートだけではない。オーボエもクラリネットもファゴットも,木管陣の手堅さには1㎜の隙もない。この曲だから木管に気が行くけれども,木管だけが突出していて他はダメなんてことはあり得ないわけで,つまりは大変な水準の高さだ。
● ソリストのアンコールは,バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番から「3 Gavotte en rondeau」。もうね,ありがたくて涙が出る。
前半だけで2,000円は安いと思った。うぅむ,この2,000円は安いよ。
● 「シェエラザード」ではゲストコンサートマスターの青木尚佳さんが登場。たくさんあるコンマスのソロを彼女に委ねたというだけではないんでしょうけどねぇ。
しっとりと聴きましたよ。やっぱりね,木管だけじゃなかったですよね。金管もねぇ。ハープを弾いてた人も団員なんだろうか。
● ストップ&ゴーも決まるし,瞬発力もある。だものだから,リムスキー=コルサコフが仕掛けておいた(?)急カーブやクランクも,スピードを落とさずに駆け抜けてみせる。そういう印象を残す。何だか,いろいろすごい楽団ですよ。
渋谷区文化総合センター大和田 さくらホール
● コロナ・ウィルスが急に存在感を持ちだした。そう感じるのは,クラシック音楽の演奏会でも中止や延期になるものが増えてきたからだ。じつは,今日はミューザ川崎で開催される東京アマデウスの演奏会に行く予定にしていた。
が,これも中止になったことを知った。頻繁にネットをチェックしないといけないね。
● これに関してはネット上にもいろんな意見がある。大半は何の情報も持たない有象無象がオダをあげているだけだから,無視すればいいものだけども,専門家の間でも意見が割れているから,ぼくらはどうすればいいのかわからない。
騒ぎすぎだという意見がある。コンサートの中止は当然だという意見もある。パンデミックという言葉も聞こえてくるが,コロナ・ウィルスによる新型肺炎は多くの場合,軽症ですみ,医療行為を要せず直ることが多いらしい。したがって,感染者はマスコミが報道している数よりずっと多いのかもしれない。
● ので,どう対応すればいいのかは,つまるところそれぞれの個人に任される。ぼくがどうしているかといえば,コロナ・ウィルスなど存在していないかのごとくふるまっている。
休日に東京に出る。中国人も泊まっているかもしれないホテルに泊まる。中国人も歩いているであろう銀座を歩く。そうして,多くの人が密集するコンサートホールに向かう。
● そういうわけで,この時期に中止しないで開催する東京カンマーフィルの演奏会にやってきた。たしかに閑散としている雰囲気はある。空席が多い。
けれども,渋谷駅前の雑踏はいつもどおりすさまじい。評判の飲食店なのだろうか,行列を作って順番を待っている人たちもいる。
これではコンサートを中止しようがすまいが,あまり(というか,ほとんど)結果に影響しないのじゃないかと思えてくる。感染する場合は,このホールにたどり着く前に感染しているのじゃないか。
あれだけの雑踏でも屋外なら心配には及ばないんだろうか。どうも,素人の体感ではついて行けない部分がある。
● チケットはもぎらない。見せるだけで通過。プログラムも手渡しではなくて,聴衆が勝手に取っていく方式。
濃厚接触を避けるためであることはわかるのだけども,これも果たしてどれだけの効果があるものやら。しかし,ポーズとしてもやらないわけには行かないんでしょうねぇ。学校が休校になるんだものなぁ。
何の根拠もなく言うんだけど,おそらく大山鳴動して鼠ネズミ1匹となるような気がする。とはいっても,世界中が鳴動しているんだから,日本だけ超然としているわけには行くまい。超然としている人が実際には多いんだと思うんだけど。
● 開演は午後2時。チケットは1,500円。曲目は次のとおり。指揮は松井慶太さん。
シューマン ピアノ協奏曲
シューマン 交響曲第3番「ライン」
● ピアノ協奏曲のソリストは海瀬京子さん。彼女のピアノを聴けただけで,1,500円の元は取れるでしょうね。
ちなみに,海瀬さんのアンコールはブラームス「6つの小品」。クララ・シューマンに献呈されてるんでしたね。
● シューマンというと,ぼくは吉田秀和さんのシューマン評が頭にこびりついてしまっていて,これがどうも鑑賞の妨げになっているような気がしている。吉田さんは『世界の指揮者』において,シューマンを「どこかに故障があって,ほっておけばバランスが失われてしまう自転車」「傾斜している船」に例えているのだ。
畏れ多くも,ぼくにはそれがピンと来ない。今日の2曲はどちらも堂々たる布陣で,しかも安定しているように思えるのだが。
● 第3番の頃にはすでに精神の疾患はあったのかもしれないけれど,この曲にそれが照射されているかといえば,ぼくにはそれを嗅ぎ分けることができない。
シューマンは今の言葉でいえば統合失調症で,自殺未遂を経て,最後は精神病院で亡くなるのだが,そういう知識を頭からはずしたうえで,今日の2曲を聴いたとして,それでもなお「ほっておけばバランスが失われてしまう自転車」とか「傾斜している船」に例えうる部分を感知できるものだろうか。
● 実際に演奏してみるとそこがわかるものなのだよ,と言われるんだろうかなぁ。ぼくはシューマンが本当に精神疾患だったのかどうかも怪しいものだと思っているのだが。
ま,しかし。ぼくの聴覚にはいくつもの盲点があって,知覚できないところが多々あるに違いない。
● オケの演奏はといえば,東京の層の厚さをまた知ることになった。比較的小さな規模のオケ。マーラーやブルックナーを演奏するわけにはなかなかいかないだろうけれど,そういうものを演奏したいとも考えていないだろう。
小粒でピリッとしたというと安易なまとめすぎになるけれども,輪郭がクッキリとしたオーケストラという印象。この東京で20回の定演を重ねてきたのだから,それだけのことはあるはずなのだ。