2020年11月7日土曜日

2020.11.01 オルケストラ・クラシカ 特別演奏会2020

神奈川県立音楽堂

● 昨夜は横浜市内のホテルに泊まった。ので,ちょうどいい場所で開催されるコンサートはないものかと物色したところが,神奈川県立音楽堂でもみなとみらいホールでも,お誂え向きのが開催されるではないか。
 まだコロナ禍の渦中にあるが,候補が複数あって選択できるところまで来ているということだ。主には首都圏でしか実現しない贅沢だけれども,これはコロナ以前からそうなので,日本においてはコロナの全盛期は過ぎたと見ていいのだろう。

● マスコミは依然としてPCR検査の陽性者が100人を超えたとか,十年一日のごとき報道を飽きもせず繰り返しているけれど,PCR検査などにもはや何の意味があるのかと思う。
 欧州では再びロックダウンを実施してたりするが,それは遠い国での話であって,4~5月の深刻な状況に日本が再び見舞われるとはどうも考えにくい。どういうわけでそうなのかはわからないが,玄関で靴を脱ぐとか,キスやハグをしないとか,そういうことのほかに何かもっと根源的な理由があるのじゃないのかねぇ。

● 複数の選択肢の中からオルケストラ・クラシカを選んだのは,最も早く知ったから。たまたまTwitterを開いたら,オルケストラ・クラシカの演奏会の告知がパッと目に入ってきたからだ。それ以外に理由はない。
 ので,チケットを予約してから,オルケストラ・クラシカってどういう楽団なのだろうと調べることになった。同楽団のサイトには「大阪フィルハーモニー交響楽団首席オーボエ奏者・大森悠の提唱のもと,2013年12月に発足した。東京大学音楽部管弦楽団のOBを中心に,優れたプロ奏者の支援を得て演奏活動を行っている」とある。

● ここで,東大オケの第100回定演のプログラム冊子に書かれていたことを思いだした。恐ろしいことを書いていた人がいるのだ。その人が大森悠さんだった。
 東大オケで学んだことを礎としてプロの世界に飛び込んだ時,プロも結構ユルいことやってんなぁ,と不遜にも思ったものだ。それくらい,東大オケは「厳格・厳密」だった。
● 東大を卒業してプロの演奏家に転向するというところで,只者じゃない感がすごいやね。一方の頂点から別の頂点にポンと跳べるところがね。
 本人に跳んだという意識はないのかもしれないけれど。東大ではなく東大オケの卒業生だというつもりでいるだろうし。
 ともあれ,オルケストラ・クラシカは東大オケを基礎にしている。となれば,これは相当な水準のはずだと予想できる。

● 開演は13時30分。チケットは2,000円(招待扱いされていた。ありがとうございました)。
 曲目は次のとおり。指揮は大森さん。
 ベートーヴェン 序曲「レオノーレ」第3番
 ベートーヴェン ヴァイオリン協奏曲 ニ長調
 シューマン 交響曲第2番 ハ長調

● で,予想どおり。かなり巧いマチュア・オーケストラの1つに数えられている楽団なのだろうな。今まで知らないでいたことを恥じなければいけないでしょ。
 まずは「レオノーレ」。フルートのクールで青白い音色が,ピーッと空気を横に切り裂いていく。
 横に切っていくイメージなんだよね。ステージから客席の方に迫ってくるんじゃなくて,ステージを横に切る。

● フルートの音色って,オーケストラの中では異色だとも思っていて。基本的には抑制的に使わなくてはいけないものじゃないですかねぇ。そのフルートが「レオノーレ」では重要な位置にある。
 空気は切っても音楽は切らない。楽曲の部品というのでもない。水先案内人の役割を果たしているようでもあるが,全然そんなことはないようでもある。ただずっと聴いていたいんですよねぇ,「レオノーレ」におけるフルートはね。

● ヴァイオリン協奏曲というとメンデルスゾーンやチャイコフスキーが人気先行の感あり。けれども,ベートーヴェンのニ長調もねぇ。これなくしてメンデルスゾーンもチャイコフスキーもあったものではないというかさ。
 川畠成道さんの圧倒的に正確無比な独奏。正確なだけではなくて,表現力とか芸術性とか情感という言葉が含意するところにおいてもピカイチなのであろうけれども,ぼくにはとにかく正確無比と映った。

● その表現力とか芸術性とか情感とか色艶というものも,いずれはゼロとイチに置き換えるプログラミング言語で捉えられることがあるんだろうか(ぼくはあると思っているのだが)。そうなった暁には,AIが情感溢れる演奏を正確にやってのけることになるんだろうか。
 AIがする演奏をホールで聴いてみたいと思うかどうかはさておき,もしAIがそういう演奏をすることがあるとすれば,それは今,目の前で川畠さんが紡ぎだしているのとそっくり同じ演奏になるのではないかと思ったことだった。

● という浮世離れした妄想を抱きながら聴いていたのだけども,管弦楽の応接もピタリと決まって,濃厚な味わいになった。高密度で質量が大きい。個々の奏者が籠めるエネルギー量が半端ないから,その総合体である演奏が生命を持ち始めているような,そういう印象になる。
 帰宅後,CDを聴きなおしてみた。平板でのっぺりと聴こえてしまう。装置の貧弱ゆえもある。それ以前に,CDと生を並列させて比較するのがそもそもの誤り。生を聴いたあとにCDを聴いて,やっぱりCDは平板だと言うのは,阿呆にもほどがあるというものだ。
 それはそうなのだが,特にこれだけの演奏を生で聴いた後ですからね。ちょっと言いたくなってしまった。

● シューマンの2番。プレトークで大森さんも仰っていたけれど,1番「春」と3番「ライン」は何度もホールで聴いている。4番も1番・3番に比べると回数は少ないが,聴いたことがある。しかし,2番を聴くのは今日が初めてではないか。
 精神病との関連で語られることが多いのだが,この曲を聴いてそうした不安定さを感知することはできない。正々堂々の交響曲のように思われる。

● シューマンを聴くと,吉田秀和氏が書いた「シューマンの指揮者は,いわば,どこかに故障があって,ほっておけばバランスが失われてしまう自転車にのって街を行くような,そういう危険をたえず意識し,コントロールしなければならない」という文章を必ず思いだすのだけれども,客席にいてこの文章に共感できたことがない。
 聴いているだけの人間がわかることには自ずからなる限界があるだろう。何度も楽譜を睨んで演奏する立場からすると,吉田氏の指摘に首肯できるところがあるんだろうか。伺ってみたいものだ。

● 4月29日の定演がコロナで延期になったので,今日はその代替かと思ったのだが,そうではなかった。そちらは曲目もソリストも全く同じまま,ピッタリ1年後の来年4月29日に開催する。
 今回は文字どおりの特別演奏会。ステージ上でもソーシャルディスタンスを確保しているから,弦も譜面台は1人に1台。その “特別” さも見慣れた光景になった。
 しかし,そうではあっても,最悪期は脱して,徐々にコロナ以前の日常に戻れるのだろう。まったく完全にというわけにはいかないのかもしれないけれども。

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