● 2年に一度の発表会。生徒の保護者に向けた催事なのだと思うけれども,2階席は自由席。ご自由にご覧ください,無料ですよ,誰でもどうぞ,ということになっている。
というわけで,3回連続で3回目の拝聴というか拝観となった。
● 開演は午後3時30分。入場無料。プログラム冊子は別売で500円。
ちなみに,終了したのは7時40分だった。詳細は次に見ていくけれども,4部構成の長大なもの。バレエ学校の発表会って,わりと長め(オーケストラの演奏会などに比べると)が普通のようにも思えるんだけど,ここまで長いのはそうないんじゃないか,と。
● が,その4時間の間に,退屈した時間は1秒たりともなかった。保護者向けの,いうなら内輪の発表会だとしても,水準の高いパフォーマンスを次々に繰りだしてくる。エンタテインメントとして充分以上に楽しめる。
● このS.O.Uのサイトを見ると,次のようなクラス構成になっているようだ。
幼児科 満3歳~入学前
児童科C 小学1,2年生
児童科B 小学3,4年生
児童科A 小学5,6年生
本科 中学生以上
児童科A以上になると,週3回,1回2時間の練習がある。
以上を予備知識としたうえで,さて,第1部から観ていこう。
● 第1部は「おそうじだんす」(児童科B),「カプリッチョ・イタリアン」(児童科A),「Tango Tango」(本科)。
ステージで踊るダンサーは,実際の年齢よりも大人びて見える。化粧効果,衣装効果,舞台効果で説明できるのだろうけれど,「カプリッチョ・イタリアン」を踊っているのが小学生だとは,教えてもらってもなかなか腑に落ちない。
● ひとりひとりが一個の若いレディであって,その若いレディたちが固まったり広がったりして,きれいなラインを作っている。しかし,小学生なのだね。
「おそうじだんす」もそうだけれども,小学生の一所懸命は気持ちを安らかにしてくれる。彼女たちのダンスを観ていると,気持ちが安らぐ。なぜなのかはわからない。
● 本科生による「Tango Tango」は,たぶん今回のすべてのダンスの中の白眉といってよいものだったろう。
全員が高い水準で動きが揃うのは,お見事というかあっけにとられるというか。
● 表現の技法について考えさせられた。文章,絵画,音楽,演劇。表現のための手段はいろいろある。
絵画にしろ音楽にしろ,表現のしもべではなく,それ以上のものを内包しているのかもしれないということ。よくわからないんだけどね。
で,身体表現という言葉があるわけで。ここでも,表現したい何かがあって,そのために身体を使うという捉え方では,おそらく豊穣なものは生まれないのだろう。
意図やイデアが先にあって,それをどうにかして表現しよう,あるいはそこに行き着くための方便として身体を使おうというのじゃないんだろうな。それだけではパフォーマンスが痩せてしまいそうだ。
● 仮にそれらが表現のしもべだとしよう。文章は誰でも書ける。絵もそうだ。けれども,それで何事かを表現しよう,他人に伝えようとすると,とたんに問題が難しくなる。
多くを伝えるためには,それなりの技術を要する(技術だけではダメなのかもしれないけれど)。つまり,誰にもできるとは限らない。
バレエでその技術にあたるものは身体能力なんだろうか。運動神経やリズム感を含めた運動能力?
これ,誰にもあるとは限らないもんね。残念ながら,ぼくにはない。
● それを豊富に持っている人たちがさらに磨きをかけようと努力して,その結果あるいは過程を舞台で披露する。
それはいろんな意味で説得力を持つ。その「いろんな」を忍耐強くほぐしていければ,論文のひとつやふたつは書けそうだよね。
というようなことをボーッと思いながら観ていた。
普通の幼稚園や保育園の学芸会とは一線も二線も画する。
● 唐突なんだけど,ぼくらの仕事っていうのは,無垢な彼女たちを守ることではないのか,と思ってしまった。
何のためにぼくらはいろんな仕事をしているのか。喰うためとか家族を養うためとか,とりあえずの目先はそういうことだとしても,畢竟,この子たちの無垢さを守っていくためではないのか。
● 何から守るのかといえば,邪悪なるもののすべてから,だ。しかるに,この世は邪悪に満ちている。というより,この世は邪悪でできている。自分もまたそっち側の人間だ。
邪悪よりも邪悪でなければ,無垢を邪悪から守ることなどできない。ん? 何を言いたいのかわからなくなってきたぞ。
● 本科生による「マリオネット」。可愛らしいのもいいんだけれども,大人(といっても中学生が多いのか)のダンスはさらにいい。それこそ身体能力が全開になる年齢だものね。
バレエの核は,人体の自然にどこまで抵抗できるかってことなんだろうか。ポワントなんて反自然の極みだよね。だけども,これがどうしようもなく美しい。痛ましいんだけど,美しい。
● あとは,「ジゼル」第1幕より“ペザント・パ・ド・トロワ”,「パリの炎」より“グラン・パ・ド・ドゥ”,「ドン・キホーテ」第3幕より“グラン・パ・ド・ドゥ”。
男女のペアあるいはトリオによる,オペラでいえばアリアにあたるのだろう,見せ場を選んで披露するタイプのステージ。
● 第3部は「眠れる森の美女」の第3幕から。児童科合同作品。もちろん,ソリストが加わる。
妖精たちがベンチに座って踊りを眺めるシーンが長く続く。ベンチに座ったきり,ずっと動かないでいる。静止の躍動感のようなものがビビッと伝わってくる。
● ダラッと座っているのではない。お姫さま座り(?)だ。背筋を伸ばして優雅に足をながす。女性が座っている姿勢の中で最も美しく見えるものだ。
これも反自然。身体が望むとおりの座り方を許したのでは,美しくなんかならない。身体が望まない姿勢に自分を固定する。
ひとつの型を長く保つのは,相当きついと思う。それを涼しげにやってのける。バレエではそれがあたりまえと言われれば,それはそうなんだろうけど。
● 第4部は,本科生による「白鳥の湖」第2幕。強力な助っ人も入って,横にも縦にも動きの大きいステージになった。華やかと言い換えてもいい。
が,第一の見どころは白鳥たちの群舞ということになる。ここはおそらく観客の意見が一致するところではないかと思う。
この場面は,自由を奪われ失意の底にあるわけなので,悲しげな踊りになる。短調的な動き。それが鍛えられた踊り手によって表現されると,何とも心地よい緊張感がステージを覆う。
それがそのまま,客席にとっては癒しになる。癒しという言葉を使っていいと思う。
● ステージを観ながら集中ということについて考えた。男性は多面集中,並列処理ができない。複数の課業を同時に処理することが苦手だ。
一点集中しかできない。できるのは直列処理だけだ。したがって,1個ずつ片づけていかなくてはならない。ひとつやって,はい次,というやり方だ。
● ところが,女性は多面集中,複数の課業を同時に並列処理していくことができるらしいのだ。となると,集中の仕方には男女差があって,しかもその差はかなり大きいのではないかと思う。
一点に深く集中しなければならない時,そこは男性の独壇場になるのだと思っていた。
● しかし,こうしてバレエのステージを観ていると,その見方は修正される必要があると思わないわけにいかない。
ステージとはまさにそこだけに集中しなければいけないところだろう。そういう場に臨むと,多面集中がむしろ得意なのではないかと思われる女性も,一点に深く分け入っていくことができるのだ。
何だかあたりまえのことを言っているようで気が引けるんだけど,そういうことをつらつらと思いながら,会場を後にした。
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