2014年2月6日木曜日

2014.02.06 間奏36:佐村河内守さん

● こういうことがあって,まず思うことは,人の感動欲望の強さだ。
 人は感動したい生きもので,感動したい,感動したい,と感動のネタを始終探して生きているのだと思う。意識的にか無意識的にか。それらしきものを見つけると,簡単に転んでしまうものなのだろう。

● 彼の経歴を見れば,ここまでのスーパーマンなどいるはずがない,と普通は思う。けれども,いるかもしれない,いてほしい,と思いたくなるのが,ぼくらにビルトインされた性癖なのだろう。
 この性癖は相当以上に強固なもので,仮にそれを抑制する仕組みを作ったとしても,できた瞬間から形骸化を余儀なくされるに違いない。

● こうした経緯と,できあがった音楽そのものは別。音楽はそれそのものによって評価されるべきだ。それはそのとおりだけれども,それが言うほど簡単ではない。
 学者,評論家,指揮者,演奏家で「HIROSHIMA」を絶賛した人がいた。評論家は間違うのが商売だから,彼らの言はそういうものとして聞いておくべきだし,彼らの書いたものはそういうものとして読んでおくべきだけれども,作られた物語に影響されずに,音楽そのものを評価した結果か。

● 酷評した人もいる。只今現在は,酷評した人が正しかったということになりがちだ(たいてい,酷評しておけば,非難は避けられるものだ)。
 でも,こういうのって食べものの好みと同じで,好きな人にも嫌いな人にも,それぞれ正義がある。好みが直接ぶつかりあえば,神々の争いになる。つまり,収拾がつかない。

● それ以前に,今回の事件を総括することすら,おそらくできないだろう。
 熱さはあっという間に喉元を過ぎていく。誰にとっても,自分の子供を殺されたという話ではない。話題としての賞味期限はすぐそこだ。これで何が変わるかといえば,たぶん,何も変わらない。
 学ばないのが(もちろん,ぼくを含めて)人間というものだ。斜に構えすぎかもしれないけれども,学ぶのがいいとも限らないし,学びようがないこともある。

● ちなみに,おまえはどうなのだと言われれば,「HIROSHIMA」はCDで一度聴いたけれども,最後まで聴き通すのに少々の忍耐を要した。あまりピンと来なかった。
 たぶん,多数派のひとりだと思う。安直な言い方になってしまうけれども。
 ただし,ショスタコーヴィチの第7番も最後まで聴くには,やはり忍耐を要したので,つまりはその程度の聴き手だってこと。

● NHKの放送がなければここまで売れることもなく,彼もゴーストライター氏も静かにひっそりと生きることができたかもしれない(できなかったか)。自らの経歴を飾ることもしなくてすんだかもしれない。
 テレビの影響力ってすごいね。ネットじゃとてもここまでの撹拌力はないでしょ。テレビは人を踊らせる。右にも左にも。
 ぼくも踊らされたことがけっこうあるな。すごいねって言ってるだけじゃしょうがないんだけどね。

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