2016年1月31日日曜日

2016.01.31 栃木県交響楽団 第100回定期演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● 100回目の節目。地元出身の宮田大さんをソリストに迎えて,ドヴォルザークの「チェロ協奏曲 ロ短調」。
 人気沸騰。14時から予定されていた公演のチケットは完売になったらしい。そこで急遽,18時半から同じ演目で追加公演を行うことを決定。

● ぼくが買えたチケットも追加公演のほうだ。その追加公演もほぼ満席となった。宮田効果というべきか。
 いやいや,何だかんだいって,栃響が地元に浸透しているってことだろうな。100回になるのか,よくやってきたな,栃響。そういうお祝い気分の然らしめるところではなかったか。

● チケットは1,500円。これまでは前売券は1,200円だったから,今回はやや高め(当日券は同じ価格)。今後はどうするのか。1,500円で行けばいいんじゃないかと思うが。
 曲目はドヴォルザーク「チェロ協奏曲」のほかに,ベルリオーズ「幻想交響曲」。指揮は末廣誠さん。

● チェロ協奏曲のソリストは世界の宮田。やはり,さすがというべきなのだろう。瞬時に客席を掴んで引き寄せる。聴衆は息をつめて,彼の演奏を見守る。
 しかし,だ。協奏曲の出来を決めるのは,管弦楽であって,ドヴォルザークのこの曲においても,それは同じだと思う。管弦楽なんですよ。

● だから協奏曲って面白いんじゃないですか。逆にいうと,ソリストの比重が高いもの,たとえばショパンのピアノ協奏曲,は,何でだか知らないけどつまらないんだよね。
 そういうことってないですか。え,ないですか。そうですか,ありませんか。

● 管弦楽とソリストの相互作用がないはずはない。宮田さんに引っぱられることはあったのだろう。
 これだけの演奏を管弦楽から引きだせたのは,ひとつには宮田さんの功績かもしれない。ただ,誰であっても,ないものは引きだせないわけでね。
 重厚な仕上がりになった。節目に相応しかった。結果において正しい選曲だったことになりますな。

● 宮田さんのアンコールは,バッハの無伴奏第3番から「ブーレ」。バッハの無伴奏組曲の中では,栃響の次の100回の航海を予祝するのに最も相応しいところかもしれない。
 ぼくとしては,宮田さんのアンコールを聴けるとは思っていなかったので,これは美味しかったよ,と。

● 今回の演奏会で配布された資料(下野新聞の記事)に,設立以後の栃響の歩みが紹介されている。海外で演奏したこともあるし,サントリーホールでも三度,演奏しているのだね。
 その時期を見ると,なんていうんだろ,時代に勢いがあったってことなんだろうな。そうした時代に乗って,栃響も外に打って出ることができたわけだろう。
 ともあれ,そのサントリーホールで演奏したのが「幻想交響曲」だったらしい。

● 高校生のときだったか,すでに大学生になっていたか,この曲をNHKのFMで聴いたことがあった。カセットテープに録音もした。
 が,何が幻想なのかぜんぜん理解できなかった。当時のぼくは,幻想という言葉に何を感じていたのだろう。男女の甘い恋愛ででもあったろうか。
 結局,録音はしたものの,放送は途中までしか聴かなかったし,テープを聴きなおすこともついにないまま,そのテープもどこかに行ってしまった。

● これは,事前に曲目解説を読んでおくべき数少ない楽曲のひとつでしょうね。そうじゃないと手も足も出ない。ベルリオーズが描こうとした舞台状況を音楽のみから想定するのは,何人にとっても不可能だろうからね。
 少なくとも,当時のぼくにとってはそうだった。
 ただし,ベルリオーズの意図を知ったからといって,それとは異なる自分なりの情景を思い浮かべるのは,聴き手の自由に属する事柄だよね。

● 今回の演奏は,ベルリオーズがこめた幻想の所以などどうでもいいかなと思わせるものだった。音楽として聴いているだけで充分で,その背後にある作曲家の意図は見えなくてもいいや,と。
 もともと,(聴く人が聴けば)音楽だけで屹立できる楽曲なのだろうけれど,それを完成度の高い演奏で再現(創造といったほうがいいのか)してもらえれば,音楽のみに寄りかかっていられる。

● 2012年12月の「第九」も素晴らしかった。あの演奏は,細心の注意をもって抑制すべきところで抑制することを維持できた効果だと思っているんだけれども,今回のはそうではない。
 前のめりの演奏だった。メリハリもあった。攻めた。攻めすぎては曲に負ける。負けないギリギリのところまで攻めた。結果,栃響は勝利を収めたといっていいだろう。栃響としても,一世一代の演奏だったであろうと(偉そうに)言っておく。

● アンコールは「ラコッツィ行進曲」。ここで手を抜いたらすべてがパーになる。もちろん,そんなことになるはずもなく,高いテンションを維持したまま,終演となった。
 今回の演奏は,見事のひと言に尽きる。栃響ってここまでできるんだっていう発見。常時,ここまでやれたら,相当以上に凄いことになりそうだ。

2016.01.30 東京大学音楽部管弦楽団 第101回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● 開演は午後6時半。座席はSとAの2種で,Sが2,000円。S席チケットを事前に購入していた。

● 今回はオール・フランスで,曲目は次のとおり。指揮は山下一史さん。
 プーランク バレエ組曲「牝鹿」
 ドビュッシー 海-管弦楽のための3つの交響的素描
 フランク 交響曲 ニ短調

● 「牝鹿」の演奏が始まって,気がついたら,自分,笑っていた。声を出さずに(当然だ)笑っている自分に気がついた。
 笑っちゃうほど巧いんだもんね。これだけ巧いと笑うしかないでしょ,的な。

● 昨年11月の「第6回音楽大学オーケストラ・フェスティバル」で,山下さんは藝大を指揮していた。そのときの曲は,R.シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」。
 さすがに藝大と比較されたのでは,東大オケも霞むことになるのだろう。が,山下さんに訊いてみたいと思った。藝大とこの東大オケと,どちらかひとつを1年間預けるから思いっきり鍛えてやってくれ,と言われたとしたら,どちらを引き受けたいと思いますか。

● まぁ,藝大なんでしょう。なんでしょうけど,ひょっとして東大オケのほうが鍛え甲斐があるとお答えになるかもしれないぞ,と思わせるものが,この学生オーケストラにはある。
 何なんだろうなぁ,この本格的な構えは。正統派というのか,正調派というのか,スッと中段に構えて隙がない。そういうイメージなんですけどね。

● ドビュッシーの「海」。この作曲家は数十年前に吉行淳之介のエッセイを読んで知った。が,ドビュッシーのCDは何枚か持っているんだけど,依然として最後まで聴き通せるようにはなっていない。
 ぼくのような,理屈というか既存の仕組みというか,そういうすでにあるものによりかからないと不安を感じるタイプ(基本的に知的に怠惰なのだと思うが)には,苦手な作曲家のひとり。ひょっとすると,“印象派”という言葉に邪魔されているのかもしれない。
 感覚,感性で現実を選り分けて進んでいける人には,面白いあるいは楽しい作曲家なのだろうな。

● 音楽って鑑賞の作法のようなものがあるんだろうか。最低限,これは知っておいたほうがいいというのはあるにしても,いわゆる作法はないのだろうね。
 自分がいいと思う曲を自分なりのやり方で聴いていけばいいものだろう。そうしているうちに,自分でも予想しなかった方向に展開することがあるだろう。それに任せていけばいいものだと思っている。
 苦手を克服しようとあまり思いすぎないほうがいいようだ。

● フランクの交響曲は,プログラムノートの曲目解説が非常に参考になった。そうなのか。当初は不評だったのか。不評の理由はドイツ圏から影響を受けていると思われたところにあるんだろうか。
 たしかに,そう言われれば,フランス的な軽さや華やかさからは遠い位置にあるかもしれないな。
 ただなぁ,フランス的という言い方じたいが,結論の先取りみたいな。フランス的とは何かという検証を経ていない,あるいはきちんと定義していないまま,ぼくも今使ってみたんだけど。

● という思考形式って,法律家的ですかねぇ。そういう形式にとらわれてしまうってこと自体,フランス音楽との相性がよろしくないってことになるのかね。
 いや,そんなことはない。そういう皮相かつ単純な話じゃないでしょうね。

● ともかく,フランクの交響曲,曲としても聴きごたえがある。加えて,この管弦楽団の演奏だ。最初から最後まで間然するところがない。
 ジェットコースターよろしくオオーッと思っている間に終わっていたという感じ。
 アンコールはラヴェル「マ・メール・ロワ」から「妖精の園」。フランスを堪能した。あとは,こちらの堪能能力(?)をあげること。

● にしてもだ。これだけの演奏をやってのける大学オケがある。そのことはもう前から知っているわけだけれども,聴く度に驚きますな。
 定演は年に1回。注力してくる時間と集中が半端ないわけだろう。ギュギュッと圧縮してくるその圧が違う。それでもってこういう演奏を聴けるのであれば,あえてプロの演奏を聴きに行かなくてもいいかなぁとも思ったりする。
 この演奏回は,毎回,満席になる。同じように思っている人は多いはずだ。

2016.01.30 ワグネル・ソサィエティー・OBオーケストラ 第79回定期演奏会

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● この楽団は名前のとおり,慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラの出身者が中心になって1974年に設立された。
 ワグネル・ソサィエティー・オーケストラといえば,大学オケの頂点に位置する楽団のひとつ(頂点がいくつもあっちゃいけないんだけど)。「1901年に創立した日本最古のアマチュア学生音楽団体であ」るらしい。
 残念ながら,ぼくはまだ聴いたことがないんだけどね。

● そのOBであれば,そりゃ相当なものでしょう。おそらく彼らは慶応を卒業したというより,ワグネルの卒業生だという思いが強いかもしれない。
 勉強などそっちのけで,練習に明け暮れていたのじゃないか。大学生の就職難の時代がしばらく続いたから,そうそうハチャメチャなことはできなかったOBもいるかもしれないけれど。

● ということになると,卒業後も現役時代の腕前を維持するのは困難だろうとも思われる。楽器とたわむれていられる時間は激減するはずだものな。
 卒業して企業や役所に勤めれば,さすがに部室に入りびたっていた学生時代のようなわけにはいかない。一応,仕事もしなくちゃいけない。

● 同じ理屈で,卒業して時間が経てば経つほど腕が落ちる道理だ。実際と道理は食い違うものだけれどもね。
 年をとると,なお巧くなりたいというところから,楽しめればいいやっていうところに行くんだろうかなぁ。楽しむためには最低限度の技術は持っていなければならないだろうけれど,その水準ははるかに超えている団員ばかりだろう。

● というようなつまらんことを考えながら入場。聴衆も多くは慶応の関係者(現役学生,OB・OG)かもしれない。という目で見るせいか,皆さん,セレブっぽく感じられる。
 しかし,日本の場合は,セレブといってもしれているという気はするね。想像を絶するような,目もくらむような,同じ日本語が通じないような,隔絶したセレブはいないっぽいよね。

● ともあれ,開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券を購入。曲目は次のとおり。指揮は角田鋼亮さん。
 ワーグナー 舞台神聖祝典劇「パルジファル」より「前奏曲」「聖金曜日の音楽」
 R.シュトラウス 交響詩「ティル=オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」
 ブラームス 交響曲第1番 ハ短調

● 「パルジファル」のCDはひとつだけ持っている。のだが,通して聴いたことは一度もない。歌詞の意味がわからないので最後まで保たない。歌詞カードがあっても,途中からどこなのかわからなくなってしまう。
 しかも,スマートフォンを携帯音楽プレーヤーにして聴くことが多いので(っていうか,それでしか聴かない)歌詞カードなんか持ち歩く気にならないのが本音。

● が,そういうことを別にしても,ワーグナーのオペラは超長編で,音楽もストーリーもずっしりと重い。男と女の恋情や騙しあいがメインテーマになっているなら,エンタテインメントとしてわかりやすいんだけど,ワーグナーに限ってはそうではない。
 ぼくは「ニーベルングの指環」をDVDで一度見ただけなんだけど,ジークフリートとブリュンヒルデの愛憎劇も,それそのものを描くのが目的ではなく,もっと人間の根源的なものを炙りだすための素材に過ぎないように思われた。

● お茶漬けサラサラから自由になれない日本人としては,ワーグナーのような重ったるい長編を自家薬籠中のものとするのは,たぶん無理なんだと思っている。いや,ドイツ人も同じなのかもしれないけどね。
 ワーグナーオペラは(めったに見る機会はないわけだけど)たまに気合いを入れて見るべきもの,異物を自分の中に取りこむ覚悟で接すべきもの,なのだろう。

● R.シュトラウスもどちらかといえば,おどろおどろしい曲を作った人だという印象。数多くある交響詩もそうで,その名も「死と変容」なんてのがあるし。
 その中で,今回の「ティル=オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」は軽く跳ねるように進んでいく。
 もちろん,演奏するのにたやすい曲ではないけれども,奏者側もポンポンと軽くステップを踏むような感じで演奏を進めていく。

● で,最後はブラームスの1番。ブラームスの4つの交響曲の中でも最も持ち重りがするというか,質量の大きさが並みじゃない。
 2番以降はどこかにスッキリと垢抜けたところがあるように思うんだけど,1番は悪くいえば筆離れがよろしくない。しかし,力がこもっている。

● 聴く側としても気を抜けるところがない。演奏する側はさらにそうだろう。
 疲れる曲だろうと思う。注意深く抑制を効かせなければならない。一方で,上下の起伏が激しい曲だから,その起伏も存分に表現しなければならない。
 滑りすぎてはいけないが,滑る勇気は必要だ。

● この楽団の印象は,すこぶる真面目というもの。個々の団員をとってみれば,剽軽もやんちゃも少なくない数いるに違いないのだが,全体としてみると真面目一辺倒な感じ。
 その真面目さに少し重さを感じてしまった。もっと軽い真面目さもあるのだろうな。だからといって,軽くなければいけないとは思わない。相当な年齢差を抱えると,こうなるものかもしれないし。
 そこも含めてこの楽団の個性と見るのが,最も普通な見方だろう。

2016年1月25日月曜日

2016.01.24 ロシア国立ワガノワ・バレエ・アカデミー 『くるみ割り人形』

栃木県総合文化センター メインホール

● “留学生オーディション第20回記念公演”と銘打たれている。栃木県が全国に先駆けて,ワガノワ・バレエ・アカデミーと留学生を送りこむ協定を取り決めてから20年になる,それを記念しての公演だという意味のアナウンスがあった。

● 開演は午後3時。座席はSS,S,A,Bの4種。料金は,それぞれ,10,000円,8,000円,6,000円,4,000円。
 B席のみ当日券が残っていた。高い席から売れていったようだ。こういう現象が起こるのは,この催しが特別なものだったからだ(と思われる)。
 つまり,普段は来ない人がたくさん来ていたはずだ。自分もバレエ・スクールに通っている子とその母親がその代表だと思うけれど,それだけにはとどまらない。普段はバレエなんか見たことないっていう人も多かったろう。

● 本だって,ベストセラーになるのは,普段は本なんか読まない人が買うからだ。メインホールが満席になるのは,普段は来ない人が来たからに決まっている。
 普段は輪の中にいない人をどうやってつかむか。これが興業側にとっては永遠の課題。

● それができるのは,ひとつには圧倒的な知名度があること。たとえば,パリに行った日本人は,普段は美術館など一度も行ったことがない人でも,ルーヴルやオルセーには行く。
 そういう人に来てもらって,ルーヴルやオルセー(で働くスタッフ)が喜ぶかといえば,それは別の話だけれども,それがルーヴルやオルセーの価値のひとつになっていることは間違いないと思う。
 が,ルーヴルやオルセーをこれから作れるか。

● さて,ぼくの席は一番安いB席。当日券がそれしかなかったわけだから。2階席の奥のほう。実質は4階席といっていいけれど,舞台が遠いという感じはさほど受けなかった。
 このホールの収容人員は1,600人くらいだったと思う。この程度の規模だとだいたいそうかというと,わりとそうでもない。ホールの構造や形,客席の勾配をどの程度とるかなどによって,ステージからの距離はだいぶ変わってくる。
 でも,これならB席で何の不満もない。オペラグラスを使っている人もいたけれど,その必要もほぼ感じなかった。

● このバレエを観にきたのは,美しいものを観たかったからだ。それ以外に理由はない。
 その思いは充分以上に満たされた。圧倒的な才能の持ち主たちが圧倒的な努力を続けるとこうなるのだろうな。
 滞空時間の長いジャンプ,ほとんど直線に見える開脚,どうしてあれで立っていられるのか不思議な片足立ち。観ているこちらが痛いだろうなと顔をしかめてしまいそうな,ポワントの継続と上下の動き。
 一番ありがたかったのは,子役(?)の水準の高さだ。

● コール・ドが織りなす秩序が素晴らしい。その秩序が放つ美の力強さ。
 同時に感じさせる儚さのようなもの。あるいは,危うさのようなもの。ぼくがそれらを観たい,感じたいと思っているから,そう見えてしまうのかもしれないんだけど。

● でも,人間の生身の身体が表現するものは,どうしたってそうした儚さをかもすものじゃなかろうか。彼ら彼女らが,いつまでも若くいられるわけではないっていう前提がある。それが儚さに通じるという,ちょっとお粗末な筋なんだけどね。
 世阿弥『風姿花伝』を読まなきゃなとチラッと思った。

● 技術が高いから,ラインを稠密にしても崩れたり混雑したりしない。だから,ラインも伸縮自在。
 バレエってそういうもんでしょ,と言われれば,そうですかと返すしかないんだけど,実地に見せられると,うぅむと唸ってしまう。

● 美しきものをたっぷりと見せてもらった。で,あたりまえのことを感じた。日本人である必要はないってこと。
 演者が日本人である必要は全然ない。ロシア人でもフランス人でもアメリカ人でも中国人でもベトナム人でも誰でもいい。美を作る者には,人種や国籍は関係ない。そういうあたりまえのことを思った。

● 開演の1時間くらい前だったか,ふたりの白い美人がコンビニのビニール袋を持って楽屋に入っていった。チョコレートでも入っていたんだろうか。
 そうして見てる分には,普通のお嬢さんなんだけどねぇ。イチローだってオフでリラックスしているところを見れば,普通のオッサンにしか見えないんだろうけどさ。

2016年1月14日木曜日

2016.01.11 那須野が原ハーモニーホール ニューイヤーコンサート

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 開演は午後2時半。全席指定で,S席が3,000円。チケットは予め買っておいたけれども,当日券がけっこう残っていたかと思われる。

● 第1部はニューイヤーオルガン。ジャン=フィリップ・メルカールト氏のオルガン演奏に,渡邉善行(トロンボーン),大貫裕子(ソプラノ),髙田正人(テノール),那須野が原少年少女合唱団が加わって,7曲を。
 バッハの「ヴィヴァルディによるコンチェルト イ短調」に始まって,最後はヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」。

● オルガンは何というのか,少しでいい。オルガンだけを長く聴くのは,けっこうしんどい。
 チェンバロと同じで,時々眠気を誘う。聴き手の問題なんだろうけどね。

● 第2部はプッチーニの「蝶々夫人」をハイライト形式で。出演者は,大貫裕子,田中明美,髙田正人,寺田功治,長濱厚子,升島唯博。伴奏は御邊典一さんのピアノと岩下美香さんのパーカッション。
 原語で歌うんだけども字幕はなし。それを,MCであらすじを説明することで補う。このやり方はぜんぜん悪くない。前にも同じような手法でやっていたのを聴いたことがある。
 舞台上の設えも,簡素ながら華やぎがあるもので,誰が考えたのだ,これ,とか思った。

● が,終演後に残った不燃焼感はなにゆえか。
 そこはあまり追いかけないことにする。たぶん,演奏した側も同様だったのではないか。少なくとも,客席が冷えていたのは感知していたはずだ。

2016年1月13日水曜日

2016.01.10 アウローラ管弦楽団第14回定期演奏会

ミューザ川崎 シンフォニーホール

● 東京には数えきれないほどのオーケストラがある。その中のいくつかは毎年一度は聴きに行っていたりする。合奏団ZEROとか,今回のアウローラ管弦楽団とか。
 それ以外にも水準の高いところがいくつもあるに違いない。だけども,ここは縁というものなのだろうな。あるいは,栃木から行きやすい時期(つまり,“青春18きっぷ”が使える時期)に演奏会を実施しているからだろうかなぁ。

● アウローラ管弦楽団の演奏を聴くのは,これが6回目になる。ロシア音楽をもっぱら演奏する楽団というところに惹かれた。それが,行ってみようと思うキッカケになったと記憶する。
 けれども,ロシア音楽を専門にしているところは,アウローラのほかにもあるし,フランスを専門にしているところもあったりするわけで,その中から行くところと行かないところが出るのは,やはり縁と考えるしかないかな。

● もっとも,一度でいいやとならないのは,演奏水準に確たるものがあるからで,それは今回も余すところなく発揮されたように思う。
 今回の曲目は次のとおり。指揮は田部井剛さん。
 グラズノフ 交響曲第7番 ヘ長調「田園」
 チャイコフスキー バレエ音楽「白鳥の湖」
 開演は午後1時半。チケットは1,000円。当日券を購入。

● で,“余すところなく発揮された”のは「白鳥の湖」。こちらは勝手に組曲を演奏するものだと思いこんでいたんだけど,そうではなく全曲を演奏(文字どおりの全曲ではない)。
 プログラムノートにあった言葉によれば「舞踏交響曲 白鳥の湖」。「舞踏交響曲」とは言い得て妙だ。「各幕を交響曲の楽章と見なし,4幕から成るバレエ音楽がまるで4楽章制の交響曲のように構築され」ていると,評されてきたんですか。

● 「情景」で奏される「白鳥の主題」は,オデットが王子に私はここよと懸命に告げている,のに,うまく伝わらないその切なさを,管弦楽が総出で奏でるに足る旋律に置き換えたもの。
 大衆性もあって,これだけでチャイコフスキーは天才と認められて然るべきだと,偉そうに語っておくけれども,同時にここで涙腺が緩むのは俗物の証でもあるのだと思う。
 で,ぼくは紛れもない俗物なのであって,長いこの曲に何度か登場する「情景」のところで,グッと来るのを抑えるのに苦労するのだった。

● やはり,ここでの主役は美しくかそけき乙女であってほしい。イメージの貧困なぼくは,松本零士さんが描くところの「メーテル」とか,石ノ森章太郎さんが描く「サイボーグ003」くらいしか,この場面に似合う女性は思い浮かんでこない。
 「メーテル」はたぶん,スラヴ系ではないかと思うので,まんざらロシアとつながらないわけでもあるまい,ということにしておく(「003」はフランス人だったか)。

● 演奏する団員も全力投球。長丁場でも集中を切らすことなく,抜いてはいけないところで手を抜くことを自ら戒め,自分に鞭を入れ続けたという印象。
 もっとも,ストイックにそうしたというよりも,曲が無言のうちにそうするよう要求してくるわけだろうし,また,そうさせるだけの吸引力も持っているのだろう。

● あと,当然ながら指揮者。身体の全部,表情筋もすべて使って,渾身のリード。
 こういうとき,客席の役割っていうのもあるのだろうな。具体的に何をするということではなくて,演奏をしっかりと客席が受けとめていれば,そのことはステージに伝わるはずだ。それが,ステージの集中を強化するということ。
 演奏の幾ばくかは客席が作るのだと思えないと,聴いてても張りがない。だからそう思うことにする。

● という次第であって,ステージから発せられるエネルギーに気圧され,心地よく会場をあとにすることができた。

2016年1月12日火曜日

2016.01.09 新山詩織ミニ・ライヴ

山野楽器銀座本店

● 銀座の中央通りをフラフラと歩いていた。ら。山野楽器の前に人だかりができていた。新山詩織のミニ・ライヴが始まるところだった。そんなに遅い時間じゃなかった。午後の3時半だったか。
 ちなみに,この時点で新山詩織って名前をぼくはまったく知らない。なのになぜ立ちどまったかというと,そこに何枚も貼られていた彼女のポスターに惹かれたんですかねぇ。

● 人垣から少し離れたところに立って,彼女の登場を待った。
 ギターを抱えて新山詩織,登場。最初に歌ったのは『絶対』。
 当然,初めて聴くので,彼女がMCで語ったタイトルをそのまま書いているわけだけど。

● 埼玉県出身。19歳のシンガソングライター。
 シンガソングライターって,自称も含めると大変な数いると思うんだけど,彼ら彼女らに抱きがちな不満は言葉の使い方の甘さなんですよね。おまえに言われたくねーわ,ってことだろうけどさ。
 要するに,歌詞が緩いというか,ギュッと詰まった感がないというか。もちろん,例外はある。尾崎豊,さだまさし。福山雅治も巧いと思う。

● ともあれ,そういう次第なので,ぼくはまず歌詞に気がいってしまう。
 で,彼女の歌詞はどうなのか。控えめな表現のように思った。もともとそういう性格なのか。つぶやくような。ちょっと自信なさげに自分の意見をいうような。つまり,悪くないんじゃあるまいか。
 それで聴衆を乗せていけるのか。不思議なことに(いや,不思議でも何でもないのかもしれないけど),これは聴衆を乗せるのに支障になることはないんだよね。

● 次は,『ゆれるユレル』。彼女のメジャーデビュー曲らしい。
 この世界でのしあがっていくのに必要な要素って何なのだろうなぁ。ルックスが良くて歌唱力があること?
 それだけでも大したものだ。が,それだけではダメなのだろうな。曲の構想力とか作詞の才能とか,そういうものも当然必要だろうけど,それも十分条件ではないように思われる。

● ひとつ思ったのは,次に歌った『今ここにいる』について彼女が語ったことからの連想なんだけど。
 この曲の詞は中学生のときにできていたらしい。その頃,友だち付き合いが上手くなくて,勉強にもやる気がしなくて,っていう生活をしていたそうだ。そういう時期にできた歌詞。

● この話を聞いて,見城徹さんが書いていたことを思いだしたんですよ。見城さんは林真理子さんとの共著『過剰な二人』(講談社)で,自らが担当した作家について,次のように書いている。
 彼らとの付き合いが深まるにつれ,僕ははっきりとあることを自覚した。それは,「この人たちは,書かずには生きていけない」ということだ。 彼らは自分の中に,染み出す血や,それが固まったかさぶたや,そこから滴る膿を持っている。それらを表現としてアウトプットしなければ,自家中毒を起こし死んでしまうのだ。 それだけのものは,僕にはない。書かなくても,僕は生きていける。(p48)
● 同じことが歌手についても妥当するのだろうか。要するに,歌う以外に生きる術がないということ。そのことが,その世界で生き抜いていく絶対条件なのかもしれない。
 普通にサラリーマンやOLもやれるような人だと,なかなか厳しいのかも。彼女はどうなのだろうか。

● あとは,芯の強さと肉体的なタフさか。MCなどは訓練と慣れでどうにかできるはずだ(現状で下手だというわけではないが)。
 登場して瞬時に客席を掴む,いうところの掴みってやつ。これは天性のものなのだろうが,彼女はすでに備えているように思われた。

● 最後は『隣の行方』。彼女の20歳の誕生日である2月10日に出ることになっている新曲。
 以上の4曲。ほんとにミニ・ライヴだったけれども,クラシックやジャズ以外のライヴはこれが初体験になる。ひょっとしてひょっとすると,この偶然の機会が,そっち方面の音楽も聴くようになる契機になるやもしれぬ。