● 松が峰教会の聖堂,失礼ながら聖堂というにはキッチュな印象を受ける。荘厳品にプラスチック製品があったりするからだ。
掃除も日本の社寺(の一部)のように浄められたという感じにはなっていない。浄めるということの感覚が欧米と日本では違うのかもしれない。日本の社寺は(いわゆる観光寺社を除くと)“葷酒山門に入るを許さず”的に外界から隔絶されているのに対して,教会は集会所でもあるという性格の違いから来るのでもあるだろう。
● 曲目は次のとおり。
デュファイ Missa Se la face ay pale(ミサ もし顔が青いなら)
ジョスカン Missa Pange lingua(ミサ 歌え舌よ)
● プログラムの曲目解説に,簡潔な説明がある。が,これを読んでサッと理解できる人は,ルネサンス音楽に相当詳しい人でしょうね。ぼくは何度か読み返すことになった。
● どちらも合唱曲(と言っていいんだろうか)としては大曲だと思う。これをステージにかけられる合唱団(と言っていいんだろうか)はそんなにないだろう。少なくとも,栃木県ではこのルックスエテルナだけかと思われる。
それ以前に,この2曲のすべてを生で聴ける機会というのは,極く少ないはずだ。少なくともぼくの場合,今回が最初で最後になりそうな気がする。もっと聴きたければCDで,ってことだ。
● 奏者の一人ひとりが一騎当千。とても巧い。そこだけはぼくにもわかる。特に男声にそれを感じる。テノールは遠くまで届き,バスはしっかりと土台になっている。
これってたぶんあれだよね,その他の合唱団の多くが男声が弱いからなんだと思いますよ。他との違いの最も明瞭なところが,ここなんだってことなんですよ。
少数精鋭でもある。少数だから精鋭でいられるのだと思われる。数を増やしてしまってはいけないのかもしれない。
● ジョスカン『Missa Pange lingua』の前に,テノールだけの演奏があった。
以下は,プログラム冊子からの引き写しになるのだけれど,「『Missa Pange lingua』は,同名のグレゴリアン・チャントをモチーフとした循環ミサ曲であ」るらしく,その「グレゴリアン・チャント『Missa Pange lingua』の一部分を,テノールが演奏」したということ。
グレゴリアン・チャントとはつまり,グレゴリオ聖歌のことですね。
● 松が峰教会の聖堂は,音楽のコンサートにもわりと使われるところで,ぼくもここで何度か聴いたことがある。音響は独特だ。残響が長いのが特徴かもしれない。
特に今回のように,神に捧げる音楽あるいは神を讃える音楽の場合,それを教会で演奏したいと演奏する側が考えるのは理解できる。そこに何の齟齬があるわけでもない。
● でも,ここはコンサートには向かないところだと思うんですよ。
まず,固い木のベンチに座っていなければいけない。同じ姿勢を保っているのがけっこう辛い。
● 聖堂内部にアーチを支える支柱が何本もあって,これが視界の邪魔をする。演奏者の全体が視野に入る席は,中央の前3列くらいではないだろうか。それ以外は支柱が視界を遮ってしまう。
ぼくが座った席も,支柱によって演奏者の半分が見えなくなった。これ,かなりフラストレーションが溜まる。
その不快感のために,演奏を聴くという行為に没入できなかった感がある。それでは聴いたことにならない。
● CDではなく生を聴くことのアドバンテージは,奏者が見えるところにある。視覚から入ってくる情報の多さ。その情報を曲解したり誤解したりできる自由さ。そこがライヴの生命線だと思っている。その生命線が,この会場ではまったく担保されない。
ゆえに,この会場で聴くのは今日をもって最後にすると決めた。例外は作らない。
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