● 鹿沼ジュニアフィルの存在は知っていたけれど,定演を聴くのは今回が初めて。当然,今回で28回を数えることも知らなかった。かなり前からあったのだな。
定演を知らないでいたのは,情報がなかったからだ。今回はたまたまTwitterでつぶやいてくれた方がいたから,知ることができたけれども,それがなければやはり知らないままで過ぎたろう。
ま,定期的に鹿沼市民文化センターのサイトで催し物案内をチェックすればいいわけだけどね。
開演は午後2時。入場無料。
● 曲目はベートーヴェンの5番とブルックナーの4番。交響曲が2つ,しかもひとつはブルックナーという重量級のプログラム。
最近はこういうのが珍しくなくなったけれども,ジュニアでもその傾向があるのか。と思ってプログラム冊子を眺めたところ,自分の不明を恥じる結果になった。前からそうなんだ,ここ。
第8回ではベートーヴェンの5番とショスタコーヴィチの5番,第14回ではレスピーギ「ローマの松」とベルリオーズ「幻想交響曲」,第15回はドヴォルザークの8番とストラヴィンスキー「春の祭典」,第20回ではマーラーの5番。
● 「ローマの松」にしても「春の祭典」にしてもマーラーにしても,大編成のオーケストラになるはずだ。「幻想交響曲」もそうだけれども,そもそも,ジュニアには難易度が高すぎるのではないか。
本当にこれをやったのか。って,やったんでしょうねぇ。ちょっと驚きだ。
● プログラム冊子の“演奏者紹介”によると,このジュニアオケは鹿沼東中と西中の卒業生が立ち上げたものらしい。「近年は中学生が多くなってきました」ともある。東中と西中で部活で管弦楽をやっている生徒たちがジュニアのメンバーにもなっているんでしょ。
東中と西中の定演は何度か聴いたことがある。その都度,この生徒たちの演奏で交響曲をまるごと聴いてみたいものだと思った。生徒たちもやりたがるんじゃなかろうか,とも思った。
● やっていたんだね。ジュニアオケで(全員ではないのかもしれないけれど)。しかも,たっぷりと。
学校の部活のほかに,こちらまでやっているとなると,けっこう負担が大きいでしょうねぇ。好きなことなら負担を負担と感じないってことなんだろうかなぁ。
● 断言するけれども,大人になっても仕事に対してそれができたら,どんな仕事であっても必ずひとかどの人物になれる。まぁ,仕事となるとなかなか好きにはなれないものだけど。
逆に,この生徒たちが授業と音楽に費やしている時間と労力を,並の大人が仕事に費やしたら,九分九厘,過労で倒れるかメンタルに疾患を来すだろうね。
クラシック音楽の玄人筋には批判の対象でしかなくなった感のあるカラヤン。けれど,そういった批判者をぼくはあまり信用していない。おまえら,ほんとにわかって言ってるのか,程度に思っている。ぼく一個は,たいていの曲にはカラヤンの録音があるのだから,カラヤンで聴けばいいじゃないかと思う。
が,カルロス・クライバーだけが例外で,彼の録音があれば,できればそれで聴きたい。ので,ベートーヴェンについていえば,4番,5番,7番はクライバーで聴く。その程度がぼくのこだわりといえばこだわりだ。
● って,どうでもいい話ですな。そのクライバーでベートーヴェンの5番は数え切れないほど聴いているってことです。
しかし,そのCDと今回のジュニアフィルの生演奏とを並べて,どちらを択るかといえば,躊躇なく後者を選ぶ。生の迫力というのはハンパない。特に,5番のような曲はね。
もちろん,その演奏が一定の水準に達していることが前提になるんだけど。
● 5番を「運命」と名付けているのは日本だけらしい。“曲目紹介”でも触れられているけれど,シントラーに対して,ベートーヴェンが「このように運命は扉をたたく」と言ったとか。どうもこれはシントラーの作り話のようだけどね。
でも,「暗から明へ」という構成であること,第4楽章で歓喜が迸るような曲想になっていることは,誰もが認めるところなので,苦悩を通して歓喜にいたる音楽だという理解でいいのだろう。っていうか,それ以外の聴き方をするのはほとんど不可能だ。
● となると,この曲の第一の聴かせどころは,3楽章からアタッカでなだれこむ4楽章の冒頭の部分ということになる。われ,(運命に)勝てり,という高らかな勝利宣言。
満を持して控えていたトロンボーンとピッコロも加わって,管弦楽が全身ではじけるところ。
ここが少し弱かったような気がした。
● のだが。瑕疵ではないのでしょうね。あえてそうしたのかもしれない。解釈の問題かも。
次のブルックナーを聴いたあとで,そう思い直した。できなかったのではなくて,やらなかったのだ。
● 中高生がここまでの演奏をすることに驚く。管弦楽の豊穣さを思い知らせてくれる。
この曲をノーミスで通すのは至難。かといって,ミスるまいと守勢に入ってしまっては,つまらない演奏になる。演奏が横臥してしまう。
あくまで攻める。ステージには間違いなくベートーヴェンが立ちあがっていた。
● 次はブルックナー。中高生がブルックナーを演奏するということ自体が,ぼくの常識にはなかったもの。
ブルックナーの交響曲はそれぞれの楽章に交響曲の全体が折りこまれている(という印象を持っている)。交響曲が4つ集まって,ひとつの交響曲になっているのがブルックナー。
4番もしかり。そこを強いていうと,1,2楽章でひとつのまとまり。3,4楽章でもうひとつのまとまり。全体として壮大な戯曲のようなもの。
これを中高生が演奏しているという目の前の現実が,あり得ないことのように思われる。
● 出だしはお約束の“原始の霧”。そのあとに,静寂を破るホルン。ここ,責任重大。ここでホルンがこけたら,そこで聴衆の演奏全体に対する印象が著しく損なわれるし,そのあとのオーケストラ全体の士気をも大きく下げてしまう。
ホルンの女子生徒,見事に責任を果たした。が,そこでひと息つくわけにはいかない。すぐに次の出番が控えている。
● 弦の清澄さ。低弦部隊がしっかりしているから,ヴァイオリンが思うさま踊ることができる。チェロの落ちついた響きが特に印象に残ったけれども,チェロに限らない。
ファゴットをはじめ,木管陣の1番奏者の技量も相当なもの。1番はどうしても目立つのでそう感じるわけだが,1番だけではないだろう。
● この演奏をブルックナーに聴かせてみたい。さいはて(極東)の島国の,しかも地方の,しかも中高生の,この演奏を聴いて,ブルックナーはどう感じるだろうか。彼の感想を聞いてみたいものだ。
● あえて難癖をつけるとすれば,弦のピッツィカートだろうか。指先(だけ)で弾くと音が寝てしまう。ペチャっとなってしまう。三味線じゃないんだから,腕全体を使った方が良いような。
もちろん,コンマスをはじめ,そうしている奏者の方が多かったとは思うのだが。
● というわけで,大きな拾いものをした気分。
栃木県内の音楽のセンターは,ひとつは宇都宮大学(教育学部音楽科と宇都宮大学管弦楽団),もうひとつは音楽学科を有する宇都宮短期大学。
そして,三番目の核がどうやらこの鹿沼にある。理由はわからないけれども,そうなっているらしい。
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