栃木県総合文化センター サブホール
● 第46回,47回に次いで3回目の拝聴となる。ぼくは宇短大や附属高校の生徒の父兄でもないし,縁もゆかりもない人間だけれども,この演奏会は楽しみにしているもののひとつだ。
開演が平日の17:30なので,必ず行けるとは限らないけれども,できるだけ行くようにしている。
● なぜかといえば,その年齢のときにしか表現できないものがあるはずだと思うから。18歳あるいは20歳。そのときの感性。そのときの環境。そのときの生命力。そのときしかできない表現。それがあるはずだと思うから。
30歳や40歳でもそのときにしかできない表現はあるのかもしれないけれども,ここはやはり若く可塑性に富んでいるときの演奏に接したい。
● 技術はこれからまだまだ上達するとしても,技術がすべてではない。ひょっとしたら技術を超える何かが現出するかもしれないという期待。若さが持つ魅力のひとつはそこではないか。
● 宇短大と附属高校の音楽科が,栃木県の音楽活動におけるセンターのひとつになっていることは間違いない。センターがいくつもあるのもおかしなものだけど,もうひとつは宇都宮大学教育学部の音楽教育コース&宇都宮大学管弦楽団。さらにもうひとつ。鹿沼市立西中&東中のオーケストラ部。
栃響の団員にも宇短大の卒業生は多いようだ。アマオケの指導者にも卒業生が多い。人材の供給源になっている。
● 開演は午後5時半と平日にしては,異常に早い。おそらくは,聴衆として見込んでいるのは,在学生,卒業生,彼らの友人・知人といったところなのだろう。
実際には保護者も来ている。でも,たぶん,ぼくのようなまったくの部外者もいるはずだ。市内のホールで何度か見かけている顔もあったから。
● 46回のときは,電子オルガンの演奏者が多かったのだけど,47回と今回はゼロ。
プログラムを転記しておく。まず,高校。
カバレフスキー ピアノソナタ第2番 第1楽章(ピアノ独奏)
バラ イントロダクションとダンス(チューバ独奏)
シューマン アレグロ ロ短調(ピアノ独奏)
ベッリーニ 歌劇「夢遊病者の女」より“ああ,信じられない”(ソプラノ独唱)
クレストン ソナタ(サクソフォン独唱)
シューマン 「3つのロマンス」より第1番,第3番(ピアノ独奏)
モーツァルト アリア“大いなる魂と高貴な心”(ソプラノ独唱)
● いつも思うことだけど,高校3年生というのは,正装すると完全なる淑女だ。近くで見れば,まだかすかに子供っぽさを表情に残しているはずだけれど,客席からステージに立つ彼女たちを見ていると,他を圧する大人の風格がある。
トップバッターの大橋桃子さんの演奏する姿を見て,まず感じたのはそのことだ。
● いずれ菖蒲か杜若。そこをあえていうと,高校生の演奏で印象に残ったのは次の3人。サクソフォンの石橋佳子さん,ピアノの山本杏実さん,ソプラノの早川愛さん。
石橋さんのサクソフォンはメリハリが利いている。この曲がメリハリがあった方がいい曲なのか,そこをあまり強調してはいけない曲なのか,そこのところはわからない。
が,心地よく響いてきたのは確かで,であれば,少なくともぼくという聴衆のひとりにとっては,彼女の演奏で良かったはずなのだ。
● 山本杏実さんが演奏したのはシューマン「3つのロマンス」で,ぼくはこの曲が好きなのだと思う。だからよく聞こえるというところもあるのかもしれない。
しかし,それだけのはずはない。実力が持つ説得力というのがある。
● 声楽を能くする人というのは,ぼくからすると異能者。つまり,自分にはない能力を持つ人たちだ。簡単に参ってしまう。
早川さんの伸びやかな声を聴いていると,生まれ持ったものが大事で,努力でどうにかできる部分というのは,そんなにないのかなと思う。努力でどうにかできるようなものは,そもそもどうにかする必要もないものに限られるのかも。
● 次に短大。
クラーク 霧の乙女(トランペット独奏)
ハイドン オーボエ協奏曲 第1楽章(オーボエ独奏)
オッフェンバック 歌劇「ホフマン物語」より“森の小鳥はあこがれを歌う”(ソプラノ独唱)
ドビュッシー 前奏曲集第2巻より第6曲,第12曲(ピアノ独奏)
クラーク ベニスの謝肉祭(トランペット独奏)
グラナドス 演奏会用アレグロ 嬰ハ長調(ピアノ独奏)
イベール コンツェルティーノ・ダ・カメラ 第2楽章(サクソフォン独奏)
ショパン ピアノソナタ第3番 第1楽章(ピアノ独奏)
● ピアノはどれも良かったと思う。佐藤佑香さんのドビュッシーも小味が利いていたし,長雅大さんのグラナドスも聴きごたえがあり,長野美帆子さんのショパンは貫禄すら感じさせた。
青木嶺さんのオーボエも。貴重な男性奏者だからそれだけで印象に残る。
● 最後に短大卒業生の全員で合唱。女声合唱とピアノのための組曲「桜の花びらのように」という曲らしいんだけど,男性も混じっている。3人ほど。その男性諸氏はクチパクかというと,もちろんそんなことはなくて,きちんと男声も聞こえていた。カウンターテナーではないと思えたが。
要するに,男声が混じっても別段破綻は来さないんでありますね。
● 以前は,ヘンデルの「ハレルヤ」を歌っていて,それがこの演奏会の伝統でもあったようだ。が,それはやらなくなったのだね。
時間は限られている。そのために,たとえばピアノ独奏をひとつ削るなんてことになると,本末転倒だろうし,「ハレルヤ」にこだわることはないとぼくも思う。どういうわけでやらなくなったのかは知らないわけだが。
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