ドン・ジョヴァンニ(バリトン)に湯澤直幹さん,レポレッロ(バス)に武田直之さん,アンナ(ソプラノ)に遠藤紗千さん,エルヴィラ(ソプラノ)に結城麻子さん,オッターヴィオ(テノール)に佐々木洋平さん,マゼット(バス)に清水那由太さん,ツェルリーナ(ソプラノ)に佐藤瞳さん。合唱は一音入魂合唱団。
● セミステージ形式とあるんだけど,このセミステージ形式というのがいまいちよくわからない。「ただ立って歌う演奏会スタイルではなく,簡単なセットの前で芝居をしながら進んでいくのがセミステージ方式」らしいのだが,いわゆるコンサート形式といわれるものでも,立って歌ってるのなんか見たことがない。必ず,芝居をつけている。
たんにオケがピットではなくステージに上がっているのをコンサート形式というのだと思っていたのだが。セミステージ形式とは,そこからさらに舞台装置を簡略にしたものかと思えた。
ま,どうでもいいか,そんなことは。
● 「ドン・ジョヴァンニ」とはドン・ファンのことで,つまり,この世に生存するすべての男性の永遠の憧れだ。かつ,憧れにとどまるものだ。生身の男性がドン・ファンになんかなれるわけがないんだから。
そのやっかみが男性陣にあるからか,劇中の「ドン・ジョヴァンニ」はかなりの問題児として描かれている。最期は地獄に墜ちる。
しかし,剣の腕は立つんだし,幽霊というのか亡霊というのか,得体のしれないものが現れても少しも怯まず,それに対峙していく。それだけで相当モテるはずだよなぁ。勇敢なんだもん。
● ただし,たしかに問題もある。関係した(しようとする)女性との間で問題を作ってしまうことだ。そんなことをしてたら,2千人を超える女性と関係を持つことなどできるわけないんだけどな。
後腐れを残さないことは絶対条件だ。後腐れは足を引っぱるから。あくまで軽くなくては。そのためには,たかが人生,たかが人間,という達観が,ポーズとしてではなく,脳髄に染みこんでいなければならない。
ところが,「ドン・ジョヴァンニ」はそこのところで少し重さを抱えてしまっているんだな。そうじゃないと劇にならないわけだが,これだと悩み多い人生になってしまうなぁ。
● この脚本は単純に観客を笑わせるために書かれている。特に,レポレッロの台詞は笑いを取るためにあるようなものだ。アンナやオッターヴィオのシリアスな部分も,(主にはレポレッロが放つ)笑いを際立たせるためにある。
おそらく,当時のウィーンの市民はこの歌劇を見てゲラゲラ笑ったのではあるまいか。が,今のぼくらは,笑うことを抑えてしまっている。たぶん,オペラだからというそれだけの理由で。
オペラを芸術として祭りあげるだけが能ではないのだ(と思う)。漫才やコントと同じレベルのエンタテインメントとして,オペラを扱うこともありなのだろう。
現在のウィーン市民はどうなんだろう。この歌劇を見て笑うんだろうか。それとも神妙に見ているんだろうか。
● 出演者がそれぞれ芸達者なので,舞台がダレることは一瞬たりともなかった。レポレッロの武田直之さんは手練れという印象。レポレッロをどんな役柄として表現するか。武田さんのレポレッロはその模範解答であるんだろうけども,模範解答が先にあって,それを具体化しただけではないと思われる。彼の創造(場合によってはアドリブ)があったはずだ。
アンナを演じた遠藤紗千さんのソプラノが異彩を放っていた。憶えておくべき名前であろうかと思われた。
● 管弦楽も堅実というか手慣れているというか,危なげのない演奏。その代わり(?),平均年齢がけっこう高め。
しかし,客席の平均年齢はさらに高い。ぼくなんか若い方かもしれない。後期高齢者が過半を占めていた感がある。このあたりがちょっと課題というか。
● といっても,この課題を解決する方策はたぶんない。縮小再生産にならざるを得ない。それを所与の前提として,さて自分はどうするか。それをそれぞれが考えていけばいい。
なぁに,そんなにバタバタしなくても,人生はすぐに終わるよ。自分がいなくなった後のことまでどうにかしたいと思うのは,それそのものが思いあがりかもしれないよ。
● 先月末に左手を骨折した。ので,拍手ができない。この拍手ができないことが自分にけっこう影響を与えるものだと感じた。
具体的には,のめり込んでいけないといいますかね。自分とステージ,自分と他の聴衆,の間に距離ができてしまう感じ。こういう何でもない動作が,わりと自分の構えに影響するものだ。
つまり,骨折なんかしない方がいい。
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