2018年7月20日金曜日

2018.07.15 栗田智水&金子鈴太郎 蔵chicコンサート-ふみの森もてぎ開館2周年記念

ふみの森もてぎ ギャラリーふくろう

● このコンサートを知ったのは13日の下野新聞に催行告知が載っていたからで,危うく聴き逃すところだった。茂木町では“美の里もてぎクラシックコンサート”なるものもシリーズで開催されているようで,もう何度も聴き逃していたことになる。
 催行告知には先着150人とあったけれども,予め用意した椅子はすべて埋まり,主催者が追加の椅子を並べていた。200人ほどは入ったろうか。茂木にこんなに人がいたのかと思うほどだ。ぼくのように町外から来ていた人も,けっこうな数いたと思うけど。

● 開演は午後2時。この2人が演奏するのに入場無料。ミニコンサート的なものかと思ったら,2時間のフルサイズ。
 このクラスの演奏家がノーギャラってことはあるまいから,茂木町は太っ腹というべきか。200人から入場料を取っても知れているということか。

● プログラムは次のとおり。
 コレッリ フォリア
 モーツァルト 歌劇「魔笛」より“恋人か女房か”
 バッハ 管弦楽組曲第2番 より“ポロネーズ” “バディネリ”
 バッハ 無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調
 バッハ フルートと通奏低音のためのソナタ ハ長調

 ドヴォルザーク ユモレスク
 ロボス ブラジル風バッハ第5番より“アリア”
 カサド 無伴奏チェロ組曲
 アーン クロリスに
 ピアソラ 「タンゴの歴史」より“ボルデル” “カフェ”
 ピアソラ リベルタンゴ

● サービス精神に溢れたステージだった。演奏家も客商売で,聴衆のご機嫌を損ねるわけにはいかないという動機も働くんだろうか。大学の先生が小学生に接するがごとし。
 というか,コンサートは奏者と聴衆の合作だから,聴衆に乗ってもらうことが必要なんだろうかなぁ。シラーッとされてるのが一番困る。
 聴衆側にも自分で自分を乗せていくという努力なり心づもりが必要なのだろう。

● 金子さんの無伴奏チェロの2曲はどちらも那須野ヶ原ハーモニーホールで聴いている(たぶん)。自分のことを棚にあげていうと,居眠ってた人がけっこういた印象。この手の曲は聴き手を選ぶからだと思っていた。
 が,今回はどうだったかというと,皆無ではなかったにせよ,少なかったような。奏者と観客の距離が近いからですかねぇ。

● だとすると,ソロはもちろん,室内楽曲を演奏したり聴いたりするには,コンサートホールの小ホールでも少し大きすぎるってことになる。
 普通は興業として成立させなければいけないから,今回のように催行主が全額を負担し,観客にコストを転嫁しない場合にのみ,理想の大きさ(小ささ)を実現できるということか。理想は実現されないから理想であり続けるのだけれど。

● その金子さん,トークが旨い。努力の結果ではなく天然だろう。彼に喋らせておけば,いくらでも間は保てる。
 1年前に那須野ヶ原ハーモニーホールで聴いたときには,楽譜をiPadに入れて,足で譜めくりをしてたんだけど,今回は普通に紙の楽譜を使っていたようだ(席が後ろで良くは見えなかったのだが)。

● 栗田さんは地元出身。真面目に努力を積み重ねるタイプのようにお見受けする。
 一部上場企業の秘書室にいると絵になるかも。そういう容貌の持ち主。でもって,そういう仕事も無難にこなしそうな気配がある。
 もっと奔放になった方が演奏にはいいのかもしれないけれども,仮にそうだとしても,持って生まれた性格を変えようとすると,ロクな結果にならない。

● とはいえ,四角四面というわけではまったくなく,演奏家は陽性の人が多い(と思っている)。彼女も例外ではない(と思えた)。ここ,かなり大事なところだと思う。
 奏者にまず求められるのは性格が陽性であること。次に運動神経と体力。この2つを欠いて,技術だけがあっても仕方がないような気がする。というより,この2つを欠いて精緻を極めた技術が存在するという状況は少々想定しにくい。
 音楽とか美術の世界で,白皙の文学青年的な人を見かけることはほぼない。いや,文学の世界でも文学青年的な人はあまりいないのじゃないかと思う。

● 金子さんは全国を飛び回っていて,かなりのお忙氏だと聞いたことがある。
 なのに茂木まで来るというのは,金子さんも栗田さんのファンなのかもしれない。

● 特に印象に残った曲は,最初のコレッリ「フォリア」と最後のピアソラ「リベルタンゴ」。
 初めて聴いた「リベルタンゴ」は古川展生さんのチェロによるものだった。もちろんCD。CDは今でもその1枚しか持っていない。ヴァイオリンもピアノもクラリネットももちろんフルートもあるわけだけども,それらはYouTubeで聴ける(ただし,YouTubeにあがっているものは,おおむね装飾過剰。ショーアップしすぎのような気がする)。あとは今回のように生で聴ける機会を拾っていく。
 この曲は,渡世って辛いねぇ,人間って悲しいねぇ,と歌っているように聞こえる(違うんだろうけど)。あまり落ちこんだときに聴くとかえって気が滅入る。ある程度元気なときに聴くのがよろしかろうと思う。

● 会場の“ギャラリーふくろう”は造り酒屋の仕込蔵だったところらしい。構造もまったく当時のままではないにしても,かなりの程度には当時のままのようだ。
 使えるところは以前の部材を使おうとしたようで,柱も途中から古いものを継いでいる。継ぐときにはこうするのかと面白い発見をしたような気分になった。耐震構造の問題もあるだろうから,そのあたりの見極めはデリケートになるのだろうが,そこをどうにかできるだけの継ぎの技術というのは,じつは昔からあったんだろうね。

● 蔵だったのだから四囲は漆喰だろうか。響きのためには悪い条件ではないような気もするのだが,アコースティックはほぼないと感じた。上にあがった音は屋根を通過して無窮の彼方に消えていく。基本的には直接音を聴くことになる。
 このくらいの広さ(狭さ)だと,それがかえっていいのかもしれない。音色の輪郭がクッキリとする。それをクリアというのかもしれない。

● ところで。タイトルの「蔵chic」はクラシックと読ませるわけだけども,クラチックと読んじゃうんだよね。chicはシックとも読むことがあるんだと思うんですけどね。
 「蔵ssic」ではダメなんだろうかなぁと,ひどくつまらないことを思ってみた(字面はchicの方がいいんだけどね)。

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