宇都宮市文化会館 大ホール
● この演奏会は第27回からほぼ1年おきに聴いてきたんだけども,34回から3年連続になった。じつのところ,今年は見送るつもりでいた。この演奏会に出かけるのはかすかに億劫なのだ。
その理由は非常に単純で,半端なく混むからだ。あまりの混雑は鬱陶しい。開演は13時30分で,会場は45分前。が,45分でも足りるかどうか,と思うくらいの長い行列ができる。
● 世の中には並ぶのを苦にしないというか,むしろ嬉々として並ぶのを楽しめる人たちがいるようで,appleの新製品の発売日前夜から行列を作る人もいる。TDRもそういう人たちのおかげで商売ができている。
appleにしてもTDRにしても,それだけのコンテンツや話題性を提供しているのだと思うが,その列に加わるのは,相当な理由があるのでなければ御免こうむりたい。
● いつだったか,ソフトバンクが吉野家牛丼の無料クーポンを配布したことがあった。380円の牛丼を無料で食べるために,とんでもない行列ができた。
ソフトバンクもソフトバンクだが,380円の牛丼をタダで食べるために,1時間以上も並べる輩がこんなにいるというのは,ぼくの理解を超えた。こういうのって,祝祭性を帯びるんだろうか。
だとしても,世の中は暇人で溢れかえっているのだと感じたことだった。時間コストを気にしなくてすむのは,暇な証拠だから。
ラーメン店や飲食店にできる行列も理解しがたいもののひとつだ。並んでまで食べるに値するものが,この世にあるわけもない。
● というと,ぼくはけっこう忙しい人間のように思われるかもしれない。そうではない。言っちゃなんだけど,ぼくはハッキリ暇である。ぼくほどの暇人がそんなにいるとは思えない。
しかし,だね。行列に加わるのはねぇ。あれって見た目が下品だしね。旧ソ連に生まれなくて良かったとつくづく思うわけでさ。
● そこを押して,この演奏会は3年連続になった。その所以は以下においおいと述べることにする。
混むのはわかりきっていたので,早めに並んだ。2階右翼席の最も左側に着座。ぼくはここが一番カンファタブル。
チケットは1,000円。当日券はあるにはある。が,前売券の売れ残りではなくて,最初から当日券分として取り分けておいたものかと思われる。緊急避難用ではないか。
ゆえに,この当日券はあてにしない方がいいだろう。前売券を買っておくのは必須。
● 3階席までギッシリ。両校の関係者が多いのかもしれないが,県内きっての名門ブランドの集客力もあるのかも。
2階席中央に来賓席がかなり確保されていた。いささか確保しすぎたようだ。開演時には立ち見客もいたのだが,確保しすぎた分を彼らに開放することはなかったっぽい。
そのあたりの臨機応変性というか機敏性を学校関係者に期待するのは,期待する方が間違っていることはわかっているけれども,少しもったいないような気がした。
いや,この演奏はOB会が主催だった。それゆえかどうかは知らないが,学校長挨拶などというマヌケなものがないのはとてもいい。
● 今回は例年と違って,宇高合唱から始まった。オナーティン,磯部俶(詞:室生犀星),youth case(詞:小山薫堂)の「ふるさと」3つ。多田武彦の“鐘鳴りぬ”と清水脩「最上川舟唄」。
宇女高合唱は「キャロルの祭典」から“入場”,“来たれ喜びよ”,“四月の朝露のごとく”,“この小さな嬰児”。この曲は3年連続となる。宇女高合唱の定番。
シュミットとプーランクの小品をいくつか。今回の合唱の山はここになった(と思う)。
● そのあと,両校の合同演奏があって,第1部は終了。15分間の休憩。といっても,これだけビッシリと満席だと,休憩中に席を立つのも面倒くさくなる。
左奥の席なのでなおさらだ。じっとしてる方がいいやとなる。
● 第2部は管弦楽。両校の管弦楽が乗るわけだから,大編隊になる。ちょっと窮屈そうだ。
まずは管弦楽だけで,サン=サーンスの交響詩「死の舞踏」。この曲って,TDLの「ホーンテッド・マンション」を思い浮かべながら聴けばいい? あそこまでコミカルじゃなくて,あれをもっとシリアスにした感じの。って,そういうものじゃないでしょうねぇ。
交響曲第3番のスケルツォ楽章を思いださせるような旋律があったりして,聴く側からすればお楽しみが多い曲だと思う。
● 最後は両校のオールキャストによるヘンデルの“ハレルヤ”と「第九」の第4楽章。
昨年は「第九」より“ハレルヤ”が記憶に残った。こういうのって,演奏側がどうのこうのじゃなくて,主にはこちら側の事情による。極端な話,「第九」じゃなくて“ハレルヤ”に感動してやろうと思って聴くと実際にそうなる,という法則(?)だってありそうだ。
今回もこの“ハレルヤ”にいたく感心した。
● この演奏会は今回が36回目。現在は宇都宮で開催される「第九」は2つある。日フィルと栃響によるもの。36年前にはどちらもなかった。
だから,この演奏会は宇都宮においては生で「第九」を聴ける唯一の機会だったかもしれない。第4楽章だけであっても。が,今はそんなわけで,他に全楽章を聴ける機会が2つもある。
だったら,「第九」はそちらにお任せして,こちらはたとえば“ハレルヤ”のみならず「メサイア」の全曲をやるとか(演奏時間が2時間半に及ぶ。まったく現実的ではないな),「第九」以外の一手を指してみるのはありかなぁと思った。
● そう思ったあとで「第九」第4楽章。宇高・宇女高といったって,構成員は毎年入れ替えがある。そうである以上,年によって波がある。
何度か聴いたこの演奏会で,これならこの演奏で全楽章を聴いてみたいと思ったこともあるし,そこまでは思わなかったこともある。
で,今回は,全楽章を聴いてみたいと切に思った。技術ではない何ものかが立ち上がっていると感じたから。
● その何ものかが立ち上がったのは,演奏開始とほぼ同時。では,その何ものとは何か。
この演奏会における「第九」は高校生が演奏するところにアピールポイントがある。高校生でもここまでやれるのだという,そこのところを知らしめるためのものというか。
であるから,主役はあくまで演奏する高校生であって,ベートーヴェンはその高校生を引き立てるための媒介に過ぎない。そういうものだと思って聴いている。
感心したとか,巧いと思ったとか言っても,それはそういう範疇での話であって,それを超えるものではない。それが暗黙の前提としてある。
● しかるに何ぞ。ステージから客席に届いてくるのは,間違いなくベートーヴェンなのだった。ベートーヴェンが立ってゆらゆらと揺れている。
演奏している高校生は背後に退く。主役が主役としての役割を全うすると,こういうことが起こるのだ。
技術ではない何ものかとは,比喩的にいうとそういうことだ。あくまで比喩でしかないが。
なぜそういうことが起こるのか。わからない。言葉にできないというのではない。そもそもわからない。
● 何ものかを立ち上げるためには,これだけの技術が必要なのだろうと思う。が,もっと巧いオーケストラはアマチュアの中にもある。あたりまえだ。
そのもっと巧いオーケストラの「第九」を聴いても,ここまでくっきりとベートーヴェンを感じたことは,さて,何回あったか。
● それから。合唱,特に女声,が素晴らしい。お見事という他はない。練習時間はそんなに取れなかったろうに。
● 宇高・宇女高合同演奏会といっても,率直に申しあげて,合唱においても管弦楽においても,4分の3は宇女高が支えている。
その分,奔放さにおいては宇高生が勝ると言えればいいんだけれども,これも意外にそうではない。型を想定してそこに自分を嵌め込もうとしているのは,むしろ男子に多かった印象がある。おそらく楽器の経験年数の違いかと思われるのだが。
男子受難の時代はしばらく(ひょっとすると,半永久的に)続きそうだ。が,彼らの年代だと,彼は昔の彼ならずとなる可能性はいくらでもある。今はあくまで途中経過に過ぎない。演奏に限らない。
● とはいえ,数年前に比べると,宇高管弦楽団の水準が切り上がっているので,溶けあわない2種の油をひとつの容器に入れた感は薄くなった。
というわけなので,第4楽章だけの第九は第九ではないとは誰でもわかる話だけれども,それでも聴いておいて損はない。混雑や長い行列に並ぶのを忍んでも,聴いておいた方がいいでしょう。
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