真岡市民会館 大ホール
● 1年ぶりの真岡市民交響楽団。開演は午後2時。チケットは500円。当日券を購入して入場。
● 曲目は次のとおり。指揮は佐藤和男さん。
シューマン 劇音楽「マンフレッド」序曲
ブラームス ハイドンの主題による変奏曲
ブラームス 交響曲第2番 ニ長調
● 昨日,百田尚樹『至高の音楽』を読んだ。いわゆる名盤探しに血道をあげる人に対して,「演奏を聴くな,曲を聴け」と戒めている箇所がある。
ぼくは同一曲について複数のCDを聴き比べることをほぼしないのだが(唯一の例外がバッハのゴルトベルク変奏曲。「第九」のCDは手元に7枚あるが,うち6枚は一度も聴いたことがない。それもどうかと思う),演奏を聴いて曲を聴かないという戒めは自身にも適用すべきだろうと思った。
● というのも,ライヴをメインに据えているからで(というより,CDをあまり聴かないわけだが),それだとどうしたって視覚に引きずられる。奏者の姿形とか,ヴァイオリンなら右腕の動きの速度とか角度とか,身体のゆれ具合とか。
視覚はコンサートホールにおいても聴覚より優位であるようで(ぼくだけか),それが曲を聴くことを妨げているかもしれない。客席にはときに瞑目して聴いている人がいるが,それではホールに来る意味がないだろうと思っていた。のだが,それもありなのかもしれない。時々は視覚を遮断した方がいいのかも。
● というわけで,「演奏を聴くな,曲を聴け」と自分に言い聞かせて客席に着いた。けれども,曲は演奏に体化されているわけで,演奏と曲を切り分けるのは難しい(っていうか,できない)。
外見と中身といわれる。が,人の外見と中身を峻別することはできない。外見は中身の表層という言い方はまったく正しい。外見に現れたところの中身を見るのだ。あるいは,外見を通して中身を推測するのだ。外見と切り離して,中身をダイレクトに把握する術はない。
というのとパラレルではないんだけれども,演奏と曲を分けることは甚だしく困難だ。
● レコードもテレビもラジオもなかった昔は,音楽を聴く手段は生演奏しかなかった。その機会を得られたのは貴族に決まっているのだけれども,当時の貴族は楽譜で曲を鑑賞できたらしい(できた人もいたらしい)。
スコアを読んで,相当な細部あるいはディテールまで脳内で再生できたのだろう。人は道によって賢し。
こちらはそんな芸当のできるはずもないから,曲を聴くには演奏に頼るしかない。演奏にしか頼れないんだから,いよいよ曲と演奏を切り分けることはできない。というわけで,演奏を聴くことにした。
● クラシック音楽を生で初めて聴いたのは,2009年の5月9日。この真岡市民交響楽団の演奏だった。それもブラームスの2番。
初心に帰らねば。というかですね,何も知らなかったあの頃が聴く楽しさを最も直截に味わえたような気がするんですよ。コンサートのたびにドキドキした。ふぅぅっとため息をついて帰途についていた。
● ところが,あの頃の真岡オケと今の真岡オケはたぶん別物になっている。指揮者は変わらないが,メンバーはその多くが入れ替わっているのではないか。むしろ,当時から賛助で参加していたメンバーの方が不動度(?)が高いような気がする。
メンバーが替わっても,変わらず残るものがあるのかもしれないが。
● 「マンフレッド」序曲から,演奏はたしかだ。小さな地方都市にこれだけのレベルの市民オケがあるのは,それ自体が驚きだ。が,その賞賛は賛助参加者に帰せられるべきものかもしれない。
それほどに弦には賛助が多い。ゲストコンサートマスターの上保さんをはじめ,トレーナーも加わっているし,栃響のメンバーが多数いる。
● 市民オケを維持して運営していくのは,傍が思うほど楽ではないようだ。人集めから始まって,オーガナイズして,演奏会まで持っていくのは,かなり骨の折れることなのだろう。
なかんずく,最初の人集め。地方の市民オケはリクルート合戦を繰り広げている印象がある。少ない人材の奪い合い。今はどの世界でもそうなんだが。
● しかし。賛助が少ない管とパーカッションも,かなりの水準にあると思えた。オーボエ,フルート,クラリネット。あとホルンもね。
最も刮目したのは,ブラームス2番のティンパニ。構えが柔らかい。360度どこから攻撃されても対応可という風情。マレットの捌きも細やか。ティンパニは客席から見ると指揮者の次に目立つから,ここが締まると演奏以上に見た目が締まる。彼,前からいたんだっけ。
● 今回は,そういうわけで,地方の市民オケが置かれた状況の厳しさをちょっと感じた演奏会。
どこもそうなんだけど。賛助なしで成りたつところなんてないんだけど。お互いに融通し合っているものだと思うんだけど。
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