2020年2月3日月曜日

2020.02.01 東京大学音楽部管弦楽団 百周年記念シリーズ 第105回定期演奏会 東京公演

横浜みなとみらいホール 大ホール

● わが家からだと横浜はけっこう遠い。これが川崎だと近く感じる。心理的なものなので,確たる根拠などあるわけもないのだが,どうもぼくは川崎は東京の一部だと思っているっぽい。
 横浜はとなると,東京に対峙する独立した文化圏という捉え方をしているのじゃないか。自分のことなのに他人事のように書いて申しわけないのだが,横浜は東京を抜けて行かなければならないところなのだ。それゆえ,遠いと感じる。

● その遠い横浜に来たのは東大オケの演奏を聴くためだ。開演は午後1時30分。チケットは“ぴあ”で買っておいた。
 何せ,この楽団には痛い目に遭わされているのだ。定演ではなくサマーコンサートだったけれども,当日券で聴こうと東京まで出かけたのにソールドアウトになっていて,空しく帰還せざるを得なかったことがあるのだ。前売券を買っておくのは,この楽団の演奏会に関してはほぼ必須と考えておかないとね。

● 指揮は三石精一さん。この人はもはや怪物だ。どこが怪物かというと,誕生日が1932年3月28日なのだ。2ケ月後には88歳になっているのだ。それでもって腕が上にあがる。指揮台はけっこう高いんだけれども,ヒョイと上り,ドカッと下りる。あらゆる補助具を要しない。
 という前に,そもそも指揮をするのだ。すべて暗譜でやっているのには驚かないけれども,精緻きわまるであろう曲を指揮するのだ。ぼくなんぞは88歳になったら耳が遠くなって,もはや聴くことを諦めているだろう。

● で,こういう怪物を目の当たりにして,ぼくは将棋の藤井七段を思いだした。41手詰の詰将棋を25秒で解くという。脳そのものは藤井七段とぼくとでそうは違わないはずだろう。
 いくつかの偶然が揃って,時期を逸せずに耕すことができれば,人の脳はここまで驚異的なことをやってのける。希望になるでしょ,これ。

● 音楽と将棋では,たぶん,使う脳の部位が違うのだと思う。88歳でプロ棋士を続けられる人は,おそらくこれからも出ないだろう。
 音楽では,というか指揮では,70歳は洟たれ小僧と言われることもあるそうだから,現役寿命が長めになる。そうだとしても,もうすぐ88歳でここまで体が動くというのは,これまた希望になるでしょ。

● さらに愚想を続けると,この東大オケを指揮していること,若い大学生との接触を保っていることが,まさに88歳のパワーを支える大きな要因のひとつになっているだろう。
 しかも,頭が良くて礼儀正しい東大生たちだ。彼らと接すること,東大オケを指導することは,三石さんにも楽しみのひとつであろうと思う。
 88歳どうしでつるんでたら救いがないよ。いかな三石さんといえども老けてしまうよ。たぶん,ね。

● 曲目は次のとおり。
 ワーグナー 「さまよえるオランダ人」序曲
 シューベルト 交響曲第7番 ロ短調「未完成」
 マーラー 交響曲第1番 ニ長調「巨人」

横浜みなとみらいホール
● この楽団の演奏でマーラー1番を聴くのは,これが二度目。東大オケが学生オーケストラ初演をした曲でもあるらしい。
 巧いんですよ。間違いなく巧い。しかし,見ていると,大学に入ってから楽器を始めた奏者もいるように思われる。かすかにたどたどしさを留めている。大学生で始めるんだから,明らかに遅い。スロースターターだ。
 しかし,3年か4年でこのオケに混じって演奏できるまでになるんだよねぇ。そのことがむしろ不思議に思える。その不思議をぼくは解くことができない(楽器も頭脳で弾くものなのか)。
 解くことができないから,次のように考えてお茶を濁す。東大オケが上達を促す場として,有効に機能しているのだろう。その場の上にいるのといないのとでは,同じことをしていても上達の度合いが違うのだろう。場が持つ力というのはあらゆる分野においてある。

● 聴衆をステージに引きつける吸引力は,本邦第一かもしれない(ただし,箱根より西,白河の関より北については,ぼくはまったく承知していない)。この点に関して東大のブランド力が影響しているか。あるとしても,僅かだろう。個々の奏者が迸らせる何ものかがそうさせているのだ。
 その何ものとは何か。たぶんだけれども,練習の質量ということになる。そこに込めてきた思いの総量。
 それをステージで一気に発散する。その発散ぶりから,今日まで費やしてきた時間とエネルギー,苦悩(こんな部活,やめてしまおうか)と喜び,そうしたものの大きさを感じることができる。
 それが聴衆をステージに引きつける吸引力になっているのだろう。つまり,たくらんでできることではない。

● だものだから,聴いているぼくらも聴き終えたあとにかなりのカタルシスを与えられることになる。自分も発散したような気になるのだ。いや,気にはならないけれども,こういうものはウツルのだ。遷移する。
 この楽団の演奏は当日券がなくなるほどに満席になる。OB・OGなり同窓会なりが客席を支えているのだろうとは思うけれども,それだけでこのホールを満席にすることはできない。部外者が来ている。それはなぜかと言えば,客席に座っているだけでカタルシスを味わえるからだろう。
 少なくとも,自分を顧みると,そのように考えないわけにはいかない。

● 終演後,コンミスは泣いていたようだ。コンミスにはコンミスにしかわからない苦労があったに違いない。OB・OGが頼みもしないのに,助言という名のプレッシャーを与えてくることもあったかもしれない。
 それらをすべて越えてきて,こみあげてくるものがあったんでしょう。今回は関西公演もあったんだからね。

● というわけなので,はるばる横浜まで来て,2,500円を払って聴く価値が充分にあると断言する。精根と蘊蓄を込めたプログラム冊子の曲目解説も読みごたえがあるが,これは無理に読まなくてもよい。
 しかし,ホールに自分を運んできて,客席に座って,黙って聴くだけの価値がある。演奏がすべてを語るのだ。こちらは自分の受け取れる範囲で受け取ればよい。そういうふうにしかできないはずだしね。

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