2020年8月16日日曜日

2020.08.15 アウローラ管弦楽団 第7回室内演奏会

杉並公会堂 大ホール

● 3月からのコロナウィルス禍で余儀なくされた引きこもり。他人との接触の遮断。これであらためてわかったのは,外を出歩くこと,人と交わること,あるいは交わらないまでも大勢の人がいるところで過ごすことは,人間のネイチャーだってことだ。
 仕事だって,わざわざ出社して大勢の人間が同じ場所にいなければ回っていかないものではないのだ。そのことはコロナ騒ぎでわかった。が,おそらく,コロナ収束後は元に戻すところが大半だろう。

● 学校だってそうだ。授業じたいは遠隔でも成立する。大学でいえば放送大学の形式でいいのだ(というと,いくつかの批判が出るだろうが,ではいったいどれほどの大学が放送大学を超える内容の授業を学生に提供しているだろうか)。
 が,学生にとっては授業は大学の一部にすぎない。その他の多くを充たすためには,キャンパスという場が必要だ。そこで自分以外の人間と直接接触することによって充たされるのだ。

● そういうことが苦手な人,自分の内にこもりたい人も少なくない。そういう人にとっては,コロナ禍は神風だったかもしれない。集団主義やしつこい同調圧力から自分を守ってくれるシェルターだったかもしれない。
 したがって,そこは配慮が必要なのだが,数からいえば出勤した方が家で仕事しているより楽だと感じる人が多数だろうから,基本は元に戻ることになる(複数の選択肢が作られるといいのだが)。人は楽に流れるという,それだけのことだ。

● コロナと共存していくなんていう器用なことは,おそらく人間にはできない。死亡率は低いのだから(少なくとも日本においては)さっさと罹ってしまえばいいのだと蛮勇を振るうくらいが関の山だろう。
 自然に反するスタイルを長く続けることもできない。コロナが収まらず,ワクチンもできていないとしても,元に戻ろうとする反発力が働く。ほとんど本能といっていいレベルで働くものかと思う。
 コロナに慣れてきたのもある。4月までは得体の知れないものに怯えるだけだったが,今はコロナだけではなく他を視野に入れて,比較衡量して,自分はどう動けばいいかを決定できる程度の余裕を取り戻せている。

● ともあれ,3月頃から自粛を余儀なくされていたクラシック音楽の演奏会も再開されている。その流れがくっきりとしてきている。無観客でやって,その模様をストリーミング配信するのではなく,観客を入れての演奏会がポツポツと出てきている。
 それも,新規感染者数が最多を更新している首都圏から。現時点で地方(大都市圏を除く)はまだ死んだままだ。

● で,3月22日以来のライヴを聴くことができた。アウローラ管弦楽団の室内演奏会。開演は午後3時。入場無料。
 主催者からの案内メールにも「お客様を伴った演奏会はプロオケ・アマオケとも既に再開しておりますが,クラシックの演奏会や映画館での映画鑑賞といった静粛なイベントに於いてクラスターが発生したという事例は無く,「ルールとマナーを守ればクラシックの演奏会は安全だ」という実績を積み上げていくことで,クラシック業界が再開していくことを願っております」とあった。正しい方向性かと思う。

● しいて申しあげれば,「ルールとマナー」は通常期のものでよく,コロナだからといって特別なことを要求されるわけではないということだ。
 開演から終演までは観客が口を開くことはないはずだから,飛沫感染が発生する余地はない。休憩時間と,会場から開演まで,終演から退場までの時間帯にマスクを付けてもらうようにするだけでいい。

● ちなみに,ぼくについて言えば,隣にノーマスクの人がいても黙っていてくれればまったく気にならないのだが,マスクを付けていてもペチャペチャ喋る人に隣にいられると,なんだかゾッとする。つい,汚いものを見るように見てしまう。マスクは飛沫を通してしまうんだよね。
 この時期に最も邪悪なものはお喋りだ。口は排泄器官でもあることを痛感させるのがコロナだ。

● 若い団員による演奏会。曲目は次のとおり。
 オネゲル 夏の牧歌
 ストラヴィンスキー(シャピロ編) バレエ音楽「プルチネルラ」(木管五重奏版)より抜粋
 バーバー 弦楽の為のアダージョ
 シベリウス アンダンテ・フェスティーヴォ
 プロコフィエフ 交響曲第1番ニ長調「古典」

● どうしてこの曲を選んだか,この順番にしたか。プログラム冊子に記載されている。それを読んで感じたのは,若いってそれだけで価値があるということだ。
 人生には “まさか” という坂があると言われる。そのとおりだ。一寸先は闇とも言われる。これまた実感を込めて申しあげるが,まったくそのとおりだ。
 板子一枚下は地獄というのは,海に漁に出る男たちに限った話ではない。誰にとってもそうなのだ。

● 安定などそもそも存在しないのだ。東大を卒業しようと,公務員になろうと,大企業の社員になろうと,どこで人生が破綻するかなどわかったものではない。
 そうならずにすんだとすれば,それはひたすら僥倖によるのであって,人為的な努力の結果ではない。

● しかし,同時にまた,一寸先は光でもあるだろう。“まさか” が下り坂とは限らない。人生は生きるに値する。
 そのことをきちんと腹でわかっている若者たちだなと,この曲目紹介を読んで思ったのだった。たぶん,思い入れが過ぎる読み方のはずだが,そうした若い人たちの演奏だ。心して聴くべし。

● 指揮は湯川紘恵さん。彼女もまたお若い。
 ホール内は弱冷房が効いているが,ステージは客席よりも何度か暑いのだろう。しかも,黒の正装なのだ。サウナの中で指揮をしているようなものだろうか。終演時には汗だくになる。

● ところで。女性の指揮者って珍しくなくなりつつある(ような気がする)のだが,女性でも必ずパンツで指揮をする。スカートで指揮しているところは見たことがない。これって,何か理由があるんだろうか。
 スカートだと動きづらい? 女性性が強調されるのはまずい? 指揮者って擬似的にでも男性じゃないとできないことになってる? 

● 休憩なしの約70分(休憩を設けなかったのは,ロビーに密を作らないため)。短い演奏会だったが,とにかく生の器楽演奏を聴けたのだ。
 ステージも客席も十全な環境には遠いけれども(列を間引くことはないが,1行おきにしか座らせない。奇数列と偶数列で行の空け方を違える。ステージにもソーシャルスペースを設ける。以上の対策はホールの方針によるもの),それでもこの演奏会はありがたかった。
 自分の円の欠けていた部分が戻ってきた感じがする。週末が週末として機能するようになってきたというかな。

● いろんな意味で,Congratulations! 君と僕にCongratulations!! 意味,わからんけどさ。

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