ミューザ川崎 シンフォニーホール
緊急事態宣言を要請する各県知事も,実際のところはその効果と妥当性には疑問を感じているのではないかと推測する。緊急事態宣言ごときで感染者が減るのなら,出さなくても減っているはずだし,緊急事態宣言によって街並みから人が消えることのマイナスの方がはるかに大きい(コロナ死亡者を上回る自殺者を作りかねない)ことは,よほどのバカでもない限りわかるはずのことだからだ。
しかし,やらなければ有権者の多くから指弾される。
● ま,そういうことはともあれ。この時期に演奏会を催行するというのだから,それではということで聴きに行くことにしたのだ。
Orchestra Failte(オーケストラ・フォルチェ)の定演を聴くのは今回が初めて。コロナがそのキッカケを作ってくれたわけだ。
開演は13時30分。事前申込制で当日券はなし,というやり方ではなかった。1,000円で当日券を買って入場した。座席は1席おきに指定されている。
● 曲目は次のとおり。指揮は村本寛太郎さん。
ヴェルディ 歌劇「ナブッコ」序曲
ウェーバー 歌劇「魔弾の射手」序曲
館山幸子 さくら
ベートーヴェン 交響曲第7番
● 館山幸子さんはこの楽団のフルート奏者とのこと。昭和音大(+大学院)で作曲を学んだ。自分の曲が演奏されて,聴衆に聴いてもらえるって,相当に嬉しいことなんだろうかなぁ。そのあたりはクリエイターではない自分には想像するしか手がないところだ。
桜はコロナなどに煩わされることなく,時期が来れば咲き,やがって散って,地味な姿で次に咲くために備えるわけだ。が,「次に咲くために備える」というのは人間の都合に沿った言い方であって,桜にしてみれば咲いている状態が特別なわけでもないのだろう。
ミューザ川崎シンフォニーホール |
ベートーヴェンの特徴は,短い旋律の執拗な繰り返しとオフビートだ(弱音にアクセントがある)と聞いたことがある。この演奏会のプログラム冊子の曲目解説にも「任意のリズムを繰り返し用いて結論を導く曲構成は,現代でいうトランスミュージックにも似ている。単純に聞こえるリズムの繰り返しは,聞き手を曲へと没入させる作用があるのだ」と書かれている。
そのとおりに違いないのだけれども,そうやって言葉でベートーヴェンにアクセスしようとすると,した分だけベートーヴェンがスルッと逃げていくようにも思われる。
● この演奏会の団長挨拶に「驀直去」という言葉が紹介されている。“まくじきこ” と読む。真っ直ぐ行きなさい,という意味だ。
その昔,中国でのこと。峠の麓にある茶店のお婆さんが,修行僧に「五台山に登るにはこの道を行けばいいのですか」と訊かれ,驀直去と答えた(とされる。もとより実話ではない)。そうです,この道でいいのです,真っ直ぐにお行きなさい,と。
諸々の思考を容れることのできる膨らみのある言葉が,禅の世界には多くあるようだ。短い言葉を素材に禅問答をしているのかと思いたくなる。
ぼく一個は,道元の只管打坐の只管と同じ意味だと考えている。あれこれ理屈を考える「分別」を否定する意思の表明ではないか。
ベートーヴェンに対しても,理屈を考えるのは後にして,ただ聴いてみるのがよろしかろう。そうしているうちに人生を終えることができれば,それ以上の幸せはないかもしれない。
● 若い奏者が多い。多くは音大を出ているか,それに準ずる人たちだろう。したがって,演奏には熱があるし,水準も高い。ベト7だって,そういう演奏で聴くからベト7たり得ている。
“若い” と “巧い” はともに価値であって,その両方を備えている場合は,「若い+巧い」ではなく「若い×巧い」が価値の総量になる。
● というと,年配者からはお叱りを受けそうだし,いつまでも若いままでいられる人はいないのだから,若い人からも叱られるかもしれない。
しかし,「若い×巧い」が価値の総量であって,それ以外に価値はない。現実は無惨なまでに冷酷だ。年輪を重ねてきた美しさなど,この世には存在しない。枯れた味わいなんていうのもない。少なくとも,管弦楽の演奏にそれはない。
老齢になっても未熟なぼくは,そのように考えている。
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