2021年2月28日日曜日

2021.02.21 アンサンブル ディマンシュ 第88回演奏会

府中の森芸術劇場 ウィーンホール

● 今日は東京大学音楽部管弦楽団のスプリング・コンサートがあるはずだった。サントリーホールでブラームスの1番リヒャルト・シュトラウスの「ドン・ファン」。
 プログラムを2種類用意していて,明後日はミューザ川崎でブラ1に代えてベートーヴェンの5番。両方聴きたいから,両方ともチケットを購入していた。
 が,つい先日,中止を決定した。コロナの緊急事態宣言が出されているわけで,中止を決定したことはやむを得なかったのだろうと理解はする。
 理解はするが,かなりの程度に残念だ。演奏する側の学生さんたちはぼくの無限倍も残念だったろうけど。

● それではというので,Kプレミアムオーケストラの定演に行くことにいていた。「慶応義塾大学公認オーケストラサークル」で,こちらは所沢市民文化センター ミューズ でサン=サーンスの「オルガン付き」。
 一度聴いたことがあるので,栃木の在から電車を乗り継いで所沢まで出かけたとて,裏切られることがないのはわかっている。
 ところが,こちらも3月18日に延期になった(→ 結局,中止になった)。

● どうやら,大学公認のサークルの場合は,開催するかしないかを独自に判断することは許されないっぽい。大学側から中止にしろと指示がある。
 大学側とすれば,公認サークルの活動から感染者が発生すれば,世間から(特にメディアから)指弾されることになる。緊急事態宣言が延長された以上,中止せよとなるのは,自然といえば非常に自然だ。大学側が独自の基準を持っているはずがないからだ。

● プロオケの場合は,ここは死活問題だから,奏者と観客の距離,奏者間の距離,楽器によって飛沫が届く距離の差異などを実験して,こうすれば感染を防げるというのを示したのか示さなかったのか。
 観客が音声を発しないクラシック音楽のコンサートなら,満席にして実施しても差し支えないというお墨付きもだいぶ前に出たのか出なかったのか。
 しかし,プロオケの苦心惨憺の結果も現場で活かされることはなさそうだ。エビデンスや理論で行動を決められる人は少ないからだ。
 過半の人は根拠のない不安を優先させてしまう。それを愚かというのは酷に過ぎるだろう。生存本能の発露と考えるよりしょうがない。人間とはそういうものだ。

府中の森芸術劇場 ウィーンホール
● さて,と。ではどうするか。次を探すしかない。こういうときに “次” が存在するのが首都圏のすごいところでもある。
 で,アンサンブル・ディマンシュを聴くことにした。という言い方は無礼に及ぶだろうか。一応,経過を申し述べたのだけど。
 もっとも,この楽団の前回の演奏会も聴いているので(ファランクという滅多に聴く機会のない作曲家の交響曲を聴くことができた),実力のほどはわかっている。

● 開演は午後2時。チケットは1,000円。なのだが,当日券は販売しないというのがむしろ普通になっていることもあり,かつ事前予約的な招待券送付というのがあったので,今回は招待券で聴いた。ので,タダ。
 曲目は次のとおり。指揮は平川範幸さん。
 モーツァルト:歌劇「魔笛」序曲
 シューベルト:交響曲第3番 ニ長調
 ベートーヴェン:交響曲第5番 ハ短調

● シューベルトの交響曲は7番と8番以外は生で聴くことは滅多にないものだと思っていたが,1月に1番を聴いており,2番は2019年の7月に聴いている(だいぶ前?)。おそらく,1番から8番までのすべてを聴いているはずだ。
 シューベルトを聴く機会は,しかし,最近増えたような気がする。誰を取りあげるかも流行り廃りがあったりするんだろうか。

● 本当に人生の窮地に陥ったときにどう対処すればいいか。ぼくには明確な答えがない。部屋の片隅で膝を抱えてジッとしている,何日もそうしているのが,ひょっとしたら最も賢い対処法なのかもしれない。
 この場合,音楽が癒やしになることは,まずもってないものだろう。音楽が助けになるのは浅い落ち込みの場合に限られる。
 だから音楽などに価値はないと言いたいのではない。逆だ。本当に窮地に落ちることは,そう何度もあることではない。多くは浅い落ち込みなのだ。それに対する処方箋を持っていることは,その人の大いなる鎧になることだろう。

● 浅い落ち込みに陥ったとき,ベートーヴェンの5番はよく服用される楽曲のひとつ,というよりその筆頭だろう。ベートーヴェン自身は死の淵から甦ったほどの体験を昇華させたのかもしれないが,それを聴くぼくらは,天才ベートーヴェンが渾身のエネルギーを注いで雑味を除き去った,その上澄みだけを味わうことになる。
 アタッカで入る第4楽章冒頭の輝かしい勝利宣言は,ぼくらの灯火だ。このように生きた人が過去にいたのだと思えるだけでも力になるだろう。
 創作と創作者の実人生をあまりリンクさせてはいけないというのは,古今の鉄則だと思うのだけれども,それでもそこにベートーヴェンの背中を見る思いがするのは,一人ぼくだけのはずがない。

● ここのところを上手に説明してくれる文章を最近読んだ。『AIの壁』(PHP新書 2020年)で養老孟司さんが次のように書いている。
 「芸術とは心地よさだ」と定義したときに,いろんな物差しで測って安定しているということが,一つの評価軸としてあると思うんですね。多次元空間の中で「安定平衡点」っていうんです。これ,要するに普通の平面で考えたら,すごく窪んでるということですよね。そこに落ちるとしばらくじっとしていられて楽だよ,という。(中略)深ければ深いほどそこに溜まって動かないわけですから,生き物って,本能的にはそういう状況って気持ちがいいでしょう?(p161)
 浅い落ち込みにあって,5番を聴いて,そこに灯火を見るのは心地いい。それは窪みに落ちてジッとしている状況に似て,気持ちがいい。そう言われれば,確かにそうだ。

● アンコールはロッシーニの歌劇「幸福な錯覚」序曲。シューベルトが3番を作曲するにあたって,影響を受けた曲だからという理由によるのだが,本当にそうなのかそうじゃないのかを判定する能力と情報がぼくにあるわけがない。
 ので,そうなのだと思うことにする。軽快で面白い曲だと思ったのだが,歌劇本体が演奏されなくなったのはもちろん,序曲が演奏されることもほとんどない。

● 当然,初めて聴いた。CDでも聴いたことがない。とりあえず,音源を確保しようと思って,Amazonなどを見ていった。
 が,手元にあったのだった。リッカルド・シャイー&ミラノ・スカラ座管弦楽団のものがあった。なんてこったい。うっかり八兵衛にも程がある。まずは聴いてみよう。

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