めぐろパーシモンホール 大ホール
● 団員たちは,自らの楽団を春オケと呼んでいるらしい。それはどうしたってそうなるだろう。
その春オケの演奏を聴くのはこれが初めてなのだが,なぜ聴きに行ったかといえば,コロナ禍にあって中止や延期にしないで開催するところを選んでつないでいった結果だ。
● 開演は午後2時。チケットは500円。お約束の事前申込制。【teket】で電子チケットを入手しておく。
このやり方はすこぶる簡便で,コロナが収束した後もぜひ継続してもらいたいものだ。元の紙チケットに戻すのではなく。
あとは受付の際の電子チケット(QRコード)の読込みをスムーズにできるようになればいいわけだが,こういうものは要は慣れだ。紙のチケットをもぎるのと同じというわけにはいかないかもしれないけれども,流れを止めずにすむ程度にはできるようになるだろう。
● 曲目は次のとおり。指揮は喜古恵理香さん。彼女の指揮には,ひと月前にも,オーケストラ・ミモザの演奏で接している。
J.シュトラウスⅡ ワルツ「美しく青きドナウ」
ドヴォルザーク 交響詩「水の精」
ブラームス 交響曲第1番
● 春オケのサイトによれば,この楽団は「千葉大学管弦楽団の卒団生有志が中心となり,首都圏近郊の学生・社会人とともに2017年に結成し」たとある。
まだ若い楽団だ。若さとはそれ自体がひとつの価値だ。その価値の所以を具体的に具体的に体感するには演奏を聴けばよい。
● ブラームスの1番がやはり印象に残る。圧巻の熱演。第3楽章が特に。木管の躍動が印象的。中でもオーボエ。
この曲がベートーヴェンの第10番と評された所以がやっと理解できた気がする。これだけの演奏をしてもらえればね,そりゃわかりますよ。
● この曲は演奏される機会も多いし,CDで聴くことも多い。何度聴いたかわからないくらいに聴いてはいるのだが,じつは聴けていなかったかもしれない。
ひょっとしたらブラームスは創り損ねたのではないか,とずっと思っていたのだ。創り損ねたというのがまずければ,まとめきれなかったという表現ではどうか。そんな思いがどこかにあった。
2番以降のスッキリとした感じに対して,この1番は各楽章が向いた方を向いていて,ブラームスの意思が分散してしまっているような,そんな感想をずっと抱いていたのだ。「聴けていなかったかもしれない」と感じたのはそういうことだ。
● プログラム冊子の曲目解説では,「暗から明へ」が強調されている。ここでもベートーヴェンに敬意を表したのか,そうするのと収まりが良くなるのか。が,ベートーヴェンの5番のような骨太の「暗から明へ」のストーリーがあるわけではないようだ。
ベートーヴェンは「暗から明へ」以外の聴き方をするのは難しいけれども,ブラームスのこの曲は必ずしも「暗から明へ」に捉われることもないのではないか。聴く側に想像(あるいは妄想)の余地を残しておいてくれるところがある。
● ドヴォルザークの「水の精」を生で聴くのは初めて。CDでは数回聴いていると思うのだが,「水の精」と聞いてまず浮かんでくるのは,ワーグナーの “指環” だ。「ラインの黄金」での3姉妹だ。
ストーリーをきちんと知ったのも,今回の曲目解説を読んでのこと。
● 交響詩とはいえ,その詩の内容を言語的に知っても仕方がないとも思っている。たとえば,スメタナ「わが祖国」の “モルダウ” を聴くときに,「この曲は,モルダウ川の流れを描写している。源流から流れだして,森林や牧草地を経て,農夫たちの結婚式の傍を流れる・・・・・・」ということを知っていないと,この曲を味わうことができないとは思われない。
むしろ,知るとそれに捕らえられる。知らないほうが想像力を遊ばせることができる。作曲家の創作動機やそこに込めた思いからも自由でいられるのが,聴き手の特権というものではないか。個人レベルで勝手な聴き方をするのが良い。そういう聴き方はした者勝ちというところがある。
しかし,この曲のストーリーは知っておいた方がいいようだ。
● アンコールはブラームスのハンガリー舞曲第1番。
バレエやオペラが典型的にそうだと思うのだが,本番で優雅に見せるものこそ,練習は泥臭くなるものだろう。練習も優雅にというのはあり得ない。
管弦楽も同じであって,ドレスをまとってステージで演奏するのだから,その様は優雅でなければならない。本番で髪振り乱すところを見せてはならない。しかし,その分,練習では泥臭くあらねばならない。というより,否が応でも泥臭くなる。
その点,客席にいる分には練習は要らない。優雅な様を見るだけでいい。
ここまで聴ければ充分だ。ホクホクしながら都立大学駅に向かって柿ノ木坂を下って行きましたとさ。
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