2021年12月9日木曜日

2021.12.05 モーツァルト合奏団 第23回定期演奏会

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは500円。当日券を買って入場。
 この合奏団の演奏は過去に5回聴いている。直近では2017年の第19回演奏会。そこから4年間,空いてしまった(昨年は開催していないだろうけど)。

● プログラム冊子の「ごあいさつ」でも,「練習会場の確保ができず,できたとしても時間制限が厳しく,なかなか練習時間が取れない」と苦心が語られている。
 コロナは人間の群生性を否定する方向に働いたのだから,引きこもり傾向の人には神風だったかもしれないものの,大方の人には不便と苦痛をもたらしたろう。
 好きな人の目を見て話す。友人と酒(お茶でもいいのだが)を飲みながら論談する。数人で共同作業をしてひとつの仕事を仕上げる。そうしたことが許されなくなった。勢い,楽しみの多くを失うことになった。仕事に喜びややり甲斐を見出そうにも,その取っ掛かりになるものが与えられない。

● しかし,一方で,少ない時間しか与えられないがために,練習の仕方に工夫をこらすなどの試みもやらざるを得ず,そこから得られたものもあったのではないか。
 否応なくムダを省く術を会得したとか,そういうことだ。制約が進歩を生むという,しばしば見られる現象があったのだと思いたい。

● 曲目は次のとおり。
 モーツァルト 弦楽四重奏曲 ニ長調 KV.155
 パーセル シャコンヌ ト短調
 ボッテジーニ コントラバス協奏曲第2番 ロ短調
 ドヴォルザーク 弦楽セレナード ホ長調

● モーツァルトのKV.155は弦楽四重奏曲第2番と言った方が通りがいいですかね。たまたま,モーツァルトの弦楽四重奏曲を順番にCDで聴いていたところだった。
 軽やかな小品というイメージで,これが弦楽四重奏というものだよなぁ,いきなりベートーヴェンの後期から聴くのは間違ってるよなぁ,と思ってたところ(いや,それが正解の人もいるんだろうけどさ)。

● そこで生演奏を聴いたからかもしれないんだけれども,ほっこりとした演奏だと感じた。
 演奏する側はほっこりとしてはいられないと思うのだが,音を合わせる楽しさは,大きなオーケストラよりこれくらいの少人数の方が濃厚に味わえるものだろう。全体を把握しやすいから。全体の中の自分が見える。何をどうすればいいかが明瞭にわかる。責任感も持ちやすい。
 大きなオーケストラだと大企業の社員になったようなものか。自分の働きが全体にどう影響しているのか実感しにくい。ゆえに,会社の経営が傾いていても社員はそれに気づかないというようなことも起こる。
 いや,オケの場合は,そんなことは起こらないですかね。

● 昔の合奏団とはメンバーはかなり入れ替わっているんだろうか。那須フィルのメンバーが主力になってるっぽいんだけども,前からそうだったっけ。
 どうも昔の記憶が不確かだ。が,別の団体になっているような気がした。いい悪いの話ではない。

那須野が原ハーモニーホール
● ボッテジーニのコントラバス協奏曲のソリストはN響の岡本潤さん。昨年10月の日比谷高校フィルハーモニー管弦楽団の定演でお見かけしている。2010年のコンセール・マロニエ21で優勝したときも,客席から見ている。たしか栃響のステージにも団員と一緒に上がっていたことがあった。
 この人の経歴はちょっと面白い。欧米に留学していないところが面白いのだ。プロを目指す人って,日本の音大や大学院を出てから,ヨーロッパやアメリカに留学するのが普通のような印象がある(そうではないのかもしれないが)。どんだけ大学で人に教えてもらうのが好きなんだよ,って。

● 留学するのが普通なのであれば,留学に価値はない。稀少性がないのだから。稀少価値以外の価値はないわけでね。
 留学くらいしなかったらスタートラインにも立てないんだよ,ということ? むしろ,留学なんかしてしまうのはわざわざ価値を捨てるようなものではないか。自分を “その他大勢の1人” にしているように思われる。
 しかも,留学って,時間のほかにお金もかかるんでしょ。時間とお金をかけて人並みを目指すって何なのよ,と思ってたんですよ。
 電車に乗ると同じ車両の乗客全員がスマホをいじっている光景に出くわすことがあるけれど,時間とお金をかけてスマホをいじる1人になることに何の意味があるんだろう,って。そこまでして幻想を追いかけてたんじゃダメなんじゃないの,って。見当はずれのことを言ってますかね。

● 岡本さんはその留学をしていない。そんなものを吹き飛ばせるだけの才能があったからなのかもしれないけれども,あるいは偶然・成行きでそうなったのかもしれないけれども,人と同じことをしないっていうのは,それだけでカッコいいというかね。
 てか,並みの留学って,そもそもが時代遅れになっていないんだろうかなぁ。

● 岡本さんのアンコール曲は,マラン・マレ「人間の声」。マラン・マレは17世紀から18世紀にかけて生きたフランスの作曲家,ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者。
 って,わかったように書いているけれども,ネットをググって知ったこと。

● 休憩後はドヴォルザークの大作(岡本さんも演奏に加わった)。合奏団のアンコールはなし。団長のあいさつで締めとなった。地元でここまでの演奏を聴けるんだから,これ以上望むことはない。
 ので,コロナが収束した暁には,地元に沈潜したいと思う。県外に聴きに行くのは例外としたい。できるかどうかわからないが,目下のところ,そのように思っている。あとはCDをちゃんと聴ければいい(今はちゃんと聴けていない)。

● これも見当はずれのことを言うのだが,コロナに過剰反応する気配は地方ほど強くなる。良くいえば,律儀に対応している。
 結果,予定されていた演奏会の中止は,首都圏より地方において顕著であるように思われる。首都圏の方が緊急事態宣言やマンボーが出される頻度が高いにもかかわらず。
 ので,何はともあれ,コロナの収束が前提だ。オミクロン株がマスコミに飯の種を提供しているが,収束はそんなに遠い話でもないように感じる。あとは,政治が決断できるかどうかだけの問題になるだろう。首尾よく行けば,ぼくも地元沈潜と参りたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿