東京文化会館 大ホール
● この壮大な,っていうか破天荒な,イベントに3年連続3回目の参加。
過去2回はヤフオクでチケットを入手していたんだけど(正規料金の5~8割増しになった),今回は発売後まもない夏場に会場のカウンターで購入した。なので,正規料金で入場。
C席で5,000円。この時点で20,000円を投じてS席にしていれば,これ以上はない特等席を確保できたかもしれない。が,惜しんでしまった。で,これまた3年連続のC席。
● この演奏会のD席,C席チケットのヤフオク出品状況を見ていると,最初からヤフオクに出すつもりでまとめ買いするプチ・ダフ屋がいるっぽい。プチ・ダフ屋から買ってでも行きたいと思わせる演奏会だってこと。
これを消滅させるには,演奏水準を落とすか,チケットを値上げするかだ。どちらも嬉しくない。
● ぼくは栃木県のアマオケを中心に聴いているけれども,ベートーヴェンが演奏される回数がダントツで多い。次いで,チャイコフスキーとブラームス。この3人がトップスリーになっている。栃木に限らないでしょうね。
CDで聴くのもやっぱりベートーヴェンが多い。「ひとり全交響曲連続演奏会」を催行することも,何度もある。といっても,歩きながら(あるいは電車に乗っているときに)イヤホンで聴いてるだけですけどね。
● ちなみに,同じ曲についていくつものCDを聴き比べるってのを,ぼくはやらない。絶対やらないと決めているわけではないけれども,結果的にあまりやったことがない。たまたま手にしたCDをずっと聴いていく。基本,そのような営業方針(?)で臨んでいる。
で,「ひとり全交響曲連続演奏会」を催行するときに用いているCDは次のとおりだ。
1~3番:スクロヴァチェフスキ,ザールブリュッケン放送交響楽団
4番,9番:カラヤン,ベルリン・フィル
5番,7番:クライバー,ウィーン・フィル
6番:ネヴィル・マリナー,アカデミー室内管弦楽団
8番:小澤征爾,サイトウ・キネン
● では,ベートーヴェンの何がそんなにいいのか。ベートーヴェンの代名詞にもなっている「苦悩を通して歓喜にいたる」のコピー効果? 起伏がクッキリしていて,ストーリーを仮託しやすい? ひょっとするとベートーヴェンっていう名前じたい?
後付けの理屈はいろいろ付けられそうなんだけども,これだよヤマちゃん,っていうのはどうも掴まえられない。
● 上野公園は普段の休日よりずっと閑散。動物園も休園だ。帰省する人たちは帰省し,海外に遊びに行く人たちは遊びにいっているだろうから,これが大晦日らしさだといえばいえる。
が,会場内に年の瀬の雰囲気はない。館内のショップは通常どおり営業しているし,レストランでは夕食の予約受付で大忙しだ。今日は大晦日で,明日は元日? どこの国の話? ってなもんだ。
● ともあれ。開演は午後1時。指揮は今回も小林研一郎さん。管弦楽も「岩城宏之メモリアル・オーケストラ」で,コンマスはN響の篠崎史紀さん。奏者の入替えはあるにしても,構成は昨年,一昨年とまったく同じ。
ベートーヴェンの交響曲を1番から9番まで順番に演奏していくという,何の衒いもない内容だ。衒いがないんだから,ごまかしも効かない。球種は直球のみ。日本を代表するプレイヤーの集団である「岩城宏之メモリアル・オーケストラ」が演奏する意味もこのへんにあるんでしょ。
● 出入り自由になっている。全部を聴かなくてもいい。何せ長丁場だ。聴きたい曲だけつまみ喰いするのもOKだ。が,お客さんの多くは全部を聴いていく。ぼくもその中のひとり。
これだけの演奏を一部でも聴きのがしてはもったいない。チケット代ももったいない。栃木から来ているんだし。
● まず,1番と2番を続けて。せっかく来たんだから一音も聴きのがすまいと思ったりもしちゃうんだけど,それってあんまり感心しない聴き方ですよね。ゆったり味わえばいい。音はむこうから飛びこんでくる。
2番がシンシンと味わい深かった。そうなんですよね,2番ってこういう曲なんですよね,っていう。
● 30分の休憩のあと,3番。第2楽章冒頭のオーボエが奏でる旋律の甘美さはたとえようがない。
全交響曲を演奏するんだから,体力も要るだろう。それもあってか,奏者は圧倒的に男性が多い。女性はヴァイオリン,ヴィオラ,オーボエ,フルート,ファゴットに一人ずつ。弦はずっと同じ奏者が演奏するけれども,管は交代制。
まぁさ,こんな酔狂なことは男に任せとけばいいよね。
● 3番のあとに,主催者代表の三枝成彰さんのトークが入った。演奏会には演奏以外のものはない方がいいと,とりあえずは思ってるんだけど,これだけ長いとサービスしたくなるんだろう。それを求める声も多いだろうし。
ホワイエにベートーヴェンの自筆の楽譜が展示してあるから,その説明も要るし,東日本大震災で被災した子どもたちへの支援活動も行っているから,そのPRも。
● 三枝さんのお話は次の3点に要約できる。
ひとつは,自筆の楽譜は読めないところがあって,それを演奏できるように写した写譜屋さんは偉いということ。
2番目は,小さな動機を積み重ねて曲を「構築」していくベートーヴェンの手法。5番にしろ6番にしろ,短い一つか二つの旋律を繰り返す。それでくどさを感じさせないのはすごいこと,というような話。
3番目は,オフビート。弱泊にアクセントがある。これがベートーヴェンの躍動感の理由だ。
2番目と3番目は前にも聞いている(ような気がする)。けれども,オフビートの話なんかは,ああそうなのかと思って,それで終わる類のものだね。なぜって,ではオフビートで作曲すれば,誰でもベートーヴェンのような曲を作れるのかといえば,そんなことはあり得ないだろうからね。
● 4番のあと,60分の休憩をいれて,5番,6番と続けて演奏。
5番は素晴らしい演奏だった(と思う)。ただ,昨年の圧倒的な緊迫感に満ちた演奏の記憶が残っている。それと比較してしまうんですね。
今年は何が違ったのか説明しろといわれても,うまくいえない。ひょっとすると,記憶じたいが変容を受けているかもしれない。自分で勝手に美化しちゃってるみたいな。
あるいは,こちら側の構えが,昨年ほどのテンションを欠いていたからかもしれない。
● むしろ6番が記憶に残る演奏だった。特に,第4楽章と第5楽章。これほどスケールが大きい「田園」は聴いたことがないよ,って感じ。
弦の厚みがすごいから,スケールの大きさに奥行きが加わる。
● ここで90分の大休憩。
なんでこんなに休憩するんだとスタッフに喰ってかかっている馬鹿がいた。オレには終電があるんだぞ,どうしてくれるんだ,的なね。還暦はすぎているんじゃないかと思われる爺さん。
どうしても出てしまうのかねぇ,どうやったらここまで馬鹿になれるんだと考えさせる手合い。
こちらはそうした馬鹿とは関わらないことができるけれども,スタッフは仕事がら,相手をしなくちゃいけない。ここまでの馬鹿の相手をさせられる分は,たぶん,彼女の給料には含まれていないと思うんだけどね。
● その大休憩のあと,7番と8番を続けて演奏。
7番も素晴らしい演奏だった(と思う)。ただ,昨年のスリリング極まる演奏の記憶が残っている。それと比較してしまうんですね。
ここでも,むしろ8番がぼく的には印象的で,この曲を聴いていると,夏目漱石の「則天去私」という言葉を連想してしまう。変な聴き方をしてるんだと思うんですけどね。
● オーケストラがここまでの水準だと,指揮者の作用領域はそんなに広くはないと思われる。奏者がそれぞれ,自分の中に指揮者も育てているだろう。
したがって,基本,オケ任せでいいんでしょうね。指揮者がオケを称揚する場面が頻繁にあった。オケも指揮者を立てている。両者の関係は良好(なんだと思う)。
● 「第九」の準備が整うまでの時間,今度は三枝さんが各パートの主席にインタビュー。どうしても弾けない音符があるとか,フレーズが長いのでブレスコントロールに気を遣う(管楽器の場合)とかの話があった。
● で,最後は「第九」。ソリストは,森麻季(ソプラノ),山下牧子(アルト),錦織健(テノール),青戸知(バリトン)の諸氏。合唱は武蔵野合唱団。ソプラノとアルトは変わっていたけれども,あとは昨年と同じ。
結局,今回はこの「第九」が際だっていましたかね。その功績の約半分は合唱団にある。この合唱団がここまで巧かったことに気づかなかった。昨年,一昨年は何を聴いていたんだか。
● ただ,この時間帯になると,目がかすんできましてね。去年まではそんなことはなかったんだけどね。
それと,ソリストが左側にいたので,ぼくの席からだと,視界から切れちゃうんですね。これが何とも残念で。
さらにいうと,前列のお客さんが身を乗りだすようにすると,彼の頭でステージの半分が隠れちゃう。森麻季さんを見たいのはわかるんだけど。
それに応じてこちらも身をかがめたりするんだけど,そうすると後列のお客さんの視界をぼくが遮ることになるんだと思うんですよ。
このあたりがね。いい席を取ればいいだけの話なんですけどね。
● 演奏会が終了したのは,2014年に入ってから。大晦日はJRが終夜運転を行うから(大休憩のときにスタッフにあたっていた爺さんは,このことを知らなかったのかも),泊まる必要はない。そのまま帰れる。過去2回はそうした。
ただね,終夜運転は宇都宮までのことでしてね,宇都宮から先は通常運転になる。なので,宇都宮で3時間ほど時間をつぶさなくちゃいけない。2時半から5時半までの3時間。めっちゃ寒いわけですよ。
● 宇都宮って駅前は真っ暗だからね。その時間帯に営業しているお店なんかぜんぜんないですから。二荒山神社まで歩くしかないわけね。ここまで来るとさすがに人影がある。初詣に来た人たちを相手に仕事を始めている露店もあるしね。
この時間に初詣に来てるのは,ほぼ若いニーチャンとネーチャンたち。束の間,彼らが場を支配している。それぞれ家庭の事情を抱えながら,がんばって生きているんだと思いますよ。それを見てるのも面白いっちゃ面白いんだけど,なにせ寒いからね。
近くの飲み屋に入り込んで,熱燗をやりながら,黒磯行きの始発を待つことになるわけです。
● でもね,寄る年なみってやつでね,これがけっこうきつい。今年は泊まることにして,上野にホテルを予約しておいた。
といっても,5,000円でお釣りがくるカプセルホテル(朝食付きのプラン)。どうも,このあたりが落としどころっていうか,財布と相談するとこうなるしかないっていうか。
● 不満はないんですよ。寝れりゃいいんだから。おっきなお風呂にも入れるし,とびきり旨いというわけではないにしても,普段は食べることのない朝食をゆっくり喰えるんだし。
何より,始発を待ちながら宇都宮で飲んでるよりは安くつくうえに,体はずっと楽なんだから。
でもなぁ,この年になってカプセルホテルかぁ,オレの人生,こんなもんだったのかぁ,という気分も,若干だけれども,ないこともない。
宇都宮市文化会館 大ホール
● オーケストラを初めて生で聴いたのは,2009年の5月だった。その頃は,栃木県限定で聴いていこうと思っていた。まさかこんなに聴くことになるとは考えもしなかった。
そうなった理由は,このブログを始めてしまったことにある。わずかながら読んでくださる人がいるのが嬉しくて,ブログを書く(更新する)ために聴きに行くという,なんだか笑えない事態が出現してしまった。
● が,もちろん,それだけのはずもなくて,結局のところ,快楽原則にしたがった結果だ。生演奏を聴くことの快感に身を任せた結果,膨れるだけ膨れてしまった。
ひょっとして,いや,ひょっとしなくても,職業人としては落第だろう。家庭人としては合格かというと,それも怪しい。要するに,個の快楽を優先しているわけだから。
でも,自分でそれを許しているわけで,そこがどうもな。
そういったことも含めて,他方で捨てているものがあるはずだけれども,その自覚は薄い。
● もともと,ゴルフもスキーもパチンコもやらないし,物欲もあまりない(と自分では思っている)。車なんて走ればいいし(だいたい,実用以外で運転することはない),洋服もユニクロかシマムラで充分。一着をすり切れるまで着続ける。食べもののことでヨメにうるさく言ったこともないはずだ。
人付き合いも最小限。休日を友人と過ごした記憶はない。っていうか,友人がいない。
唯一,オーケストラの生演奏にだけは出かけているよ,と。
● で,今回は宇都宮大学管弦楽団。開演は午後2時。チケットは800円。
指揮は末廣誠さん。曲目は次のとおり。
シューベルト 歌劇「フィエラブラス」序曲
グノー 歌劇「ファウスト」よりバレエ音楽
ドヴォルザーク 交響曲第9番 ホ短調「新世界より」
● シューベルトがオペラをいくつか作曲したことは知っている。が,CDもDVDも見たことがない。当然,持っていないし,聴いたこともない。「フィエラブラス」序曲も初めて聴く。
この曲にしても,グノーの「ファウスト」にしても,あまり(というか,めったに)演奏されない曲を持ってきた。ほかにもあるんだろうね。一般受けはしないかもしれないけれども,演奏してみたい曲っていうのが。
● メインはおなじみの「新世界より」。率直に感想を申しあげれば,荒削りな印象があった。もっと細かく研磨をかける余地が,各パートともあったように思う。
しかし,だからダメかというと,ことはそう単純ではない。荒削りには荒削りの良さが,厳然としてあるから。
第4楽章のフィナーレに向けての怒濤の勢いは,荒削りなればこそ。立派にひとつの表現たり得ている。ここに細かな磨きを加えてしまうと,それによって失われるものが必ずある。
● ただし,これは目の前で演奏している様を目にしているからでもある。録音で聴いたら,また違った印象を持つことになるだろう。
曲との相性もある。アンコールはチャイコフスキーの“花のワルツ”だった。この曲と今回の演奏はミスマッチというか,ちょっとそぐわないように思えた。
● 運営スタッフの対応はほぼ完璧。宇都宮大学に限らないんだけど,今どきの学生はうまいよねぇ。ほんとにソツがない。サービス業に転身しても,明日から仕事になるんじゃないか。
栃木県総合文化センター メインホール
● 昨年に続いてお邪魔した。じじむさい男が一人でバレエを観る。そんな爺を周りがどう見ているか。まったく気になりませんね,そういうことは。っていうか,べつに誰も見ちゃいませんよね。
ちなみに申しあげれば,ぼくは女性の下着売場にも平気で行けちゃう方でね。彼女(いないけど)に頼まれれば,買ってきますよ,彼女の下着。サイズ,教えてよ。
● ただですね。この時期の休日はコンサートの盛りでもあって,そちこちで開催されてますんでね。どれにするか絞れないまま,今日になった。
で,チケットは当日券を購入。AとBの2種なんだけど,2階のB席を。2,500円。プログラムは別売で500円。
● 今回は「くるみ割り人形」全幕。結論から申しあげれば,ここまで本格的な設えの「くるみ割り人形」を観れるとは思っていなかった。行ってみるもんです。
舞台の造作から照明,衣装に至るまで,要するにチャチくない。お金がかかってる。何より,肝心なダンスが充分以上に鑑賞に耐える水準だったしね。
ほんとに問題は,こちらの鑑賞能力だけだ。
● 第1幕の終盤,「雪の精」たちが登場するときに,弦楽器のトレモロを思わせるような,小刻みなステップで進んでたんだけど,これって簡単にできるものなんですか。それともけっこう難しかったりする?
難しいんでしょうね。
● 圧巻は第2幕の「花のワルツ」だとすることに,あまり異論はないだろう。クララがたまらず躍りだしてしまうのも当然だね。
コール・ドの美しさは息をのむほどで,このあと主役二人(金平糖の精&王子)の超絶技巧やウルトラCが続くんだけど,こういうのってそれだけが突出しててもつまらない。バックが一定の水準に達していないと,主役級の超絶技巧が活きない。バックが支えきれてると,見映えがまるで違ってくるものでしょ。
オーケストラが協奏曲を演奏するようなもので,ソリストはもちろん重要な役回りなんだけれども,最終的にはバックの管弦楽が演奏の良し悪しを決める。
● かなり地味めの練習が,こうした華やかなステージを作るわけだ。演劇だろうと,オペラだろうと,ステージとバックヤードの落差は甚だしいに決まっている。
だけど,客席にいると,バックヤードに思いが届きにくいところがあるかも。バレエはステージのファンタジー性が強烈なだけに。
● クララが夢から醒めて終わるんじゃなくて,王子と次なる旅に出かけるところで終わる。これが今回のストーリー上の特徴。
「金平糖の精」っていうのは,訳語としてすっかり定着してるんでしょうね。Sugar Plum Fairyの訳語としてなら,たんに「砂糖菓子の妖精」とでもした方がいいような気がするんですけどね。
すみだトリフォニーホール 大ホール
● 昨年6月以来のフォイヤーヴェルク。開演は午後7時。入場無料(カンパ制)。
この楽団の水準はすでに周知のところだろう。だから,事前にチケット(整理券)を申しこんでおくというシステムになっている。楽団側にとってはかなりの手間になるとしても,そうしないとお客さんが押し寄せて,捌きがつかなくなるかもしれない。
有料チケット制にするのも手だと思うけれども,そこは楽団の考え方なり哲学があってのことなのだろうと推測する。
ともあれ,満席の盛況。
● 大学オケにしては,大人の楽団という趣がある。終演後にコンマスが挨拶したんだけど,普通の大学オケより平均年齢が高いと言っていた。
それにしても落ち着いた雰囲気を感じさせる。当然,院生もいるし,トレーナーも加わっていたりするんだけど,それはけっこう普通のことだからね。
この楽団も東大の冠がありながら,約半分は東大以外の学生だ。音大の学生や卒業生がけっこうな数,賛助に入っていた。
● 指揮は原田幸一郎さん。曲目は次のとおり。
ウェーバー 歌劇「オベロン」序曲
ブルッフ クラリネットとヴィオラのための二重協奏曲
ブラームス 交響曲第4番 ホ短調
● 「オベロン」序曲の冒頭のホルンソロで,この楽団の力量はわかる。なんだよ,この巧さは,って。楽器に向き合ってきた時間が長いんでしょうね。才能なんでしょうね。
弦のピッツィカートひとつとっても,よそとは違うような気がして。
たとえば,テニスの上手な人のゲームを見ていると,ラケットが手の一部に見えたりすることがあるんだけど,どうもそういう感じね。楽器はすでに体の一部。
● しかし,なんだね。ここまで音楽に没頭してて,卒業とか就職とかは大丈夫なのか。大きなお世話だと思うんだけど。
っていうか,あれかなぁ,キチッと集中してやってますから,ご心配には及びませんよ,って言われちゃうのかなぁ。
● 女性奏者のカラフルなドレスも健在。これはもう,この楽団の演奏会を特徴づける要素のひとつになっているだろう。これが見たくて来てるお客さんも絶対いると思うぞ。
ちゃんと花になっているんだから,たいしたものだ。
● ブルッフの「クラリネットとヴィオラのための二重協奏曲」は初めて聴く。CDはあるようだけど,ぼくは持っていない。
クラリネットは亀井良信さんで,ヴィオラは須田祥子さん。お二人ともこの楽団のトレーナーを務めている。こういう人たちをトレーナーに呼べるってことじたい,楽団の水準の高さをうかがわせる。
「独奏の技巧的な側面よりは中音域の音色の魅力や旋律の美しさが前面に出されている」ということなんだけど,とはいっても,技巧を堪能させるところもある。こういうところも入れておくのが,作曲家のサービスってもんでしょうか。ソリストに対しても,聴衆に対しても。
● 協奏曲を演奏する場合,その格を決めるのはソリストではなくて管弦楽の方だ。管弦楽が締まっていないとどうにもならない。
その点でいえば,この楽団ならまったく無問題。そうであってこそ,ソリストの技量もはえるというものだ。
● ブラームスの4番は,圧巻と申しあげるほかはない。気持ちの良い起伏感。スムーズきわまる場面転換。
どう表現していくかというおおもとのところで奏者間に乱れがない。個々具体の局面で何をどうするかについては,指揮者がこうしろと指示することがあるだろう。おおもとについてもあるのかもしれないけれども,あったにしても抽象的な表現にならざるを得ない。
それをステージという現場において,乱れなく具現化してみせるってのは,とんでもない力量だと思う。共通了解になっている部分が多いのだとしても。
● というより,その共通了解事項が普通(の楽団)より多いのだろう。いちいち話さなくても通じるようになっているんでしょう。それってかなりすごくないですか。
ま,ひょっとして,まったく的外れのことを言っているのかもしれないんだけどね。
● ヨハン・シュトラウスの「ハンガリー万歳」で軽快に締め。しっとりした充実感に満たされて,はるか彼方のわが陋屋をめざして,錦糸町駅に向かったというわけでした。
所沢市民文化センター ミューズ アークホール
● 「青春18きっぷ」が使える時期がきた。イコール東京に出るのが増える時期でもある。
ただし,冬の「青春18きっぷ」は有効期間が1ヶ月しかないのが難。1ヶ月で5回使わなきゃいけないからね。
● まずは,所沢で東京大学フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会。
大宮で川越線(埼京線)に乗り換えて,川越で下車。西武線の本川越まで歩くわけだけど,今回は二度目なので迷うことはない。
「クレアモール川越新富町商店街」はあれですね,年中お祭りの趣がありますな。これだけ人通りの多い商店街って,そうそうないんじゃないですか。日中は車両進入禁止だから,安心して歩けるのもいい。飲食店が軒を連ねているんだけど,敷居が高そうな店はない。商店街だからつんとすました店はないわけで,すこぶる健全な感じがする。
● 会場にはだいぶ早めに着いた。ので,会場内のレストランで開場時刻を待つことにした。
カウンター席の隣に,年配の女性が一人でやってきて座った。ぼくよりちょっと若めかなぁ。一人でカウンターにいる女性の風情って,年齢を問わず,彼女が美人であるかどうかにかかわらず,なかなかいいものだよね。大げさにいえば,ちょっとした眼福になる。
群れない女って,それだけで得点が高い。格好いいなぁと思う。日本じゃあんまり見かけないけど,香港やシンガポールにはけっこういるよね。
● 百パーセント群れないでいたら,女商売は張っていけないと思うし,それ以前に,群れることができないってのは,女としては(男であっても)欠陥商品だろう。
でもね,群れる必要がないときまで群れてないと不安というんでは,同じようにスペックに問題あり,ってことになるよねぇ(そうでもないのか)。
● 開演は午後2時半。入場無料(カンパ制)。指揮は濱本広洋さんで,曲目は次のとおり。
ブラームス 悲劇的序曲
ドヴォルザーク アメリカ組曲
チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」
● 先月24日の駒場祭でも同じ曲(全部ではないが)を演奏している。んだけど,これは聴くことができなかった。行くつもりでいたんだけどね。
ぼくのような者でも休日を完全に自由にできるわけではない。仕方がないですね。
であるからして,今回はきっちり聴いていこう,と。
● 開演前に弦楽五重奏のサービス。トトロから始まってポニョに終わるジブリ・メドレー。各パートのエースが担当するようだ。
東大の冠をつけてはいるけれども,非東大の団員の方が多いようだ。各大学から選りすぐりが集まっているのかもしれない。藝大から参加している人もいる。
ゆえに(とつないでしまっていいのかどうか),大学オケとしてはまず文句のつけようのない水準をキープしている。これ以上にやれというのは,少々酷なように思える。
● チャイコフスキーは6番より5番の方が好きだという人が,圧倒的に多いのではないだろうか。
「悲愴」交響曲を生で聴くのはこれが4回目なんだけど,難解な曲だと思っていた。何だかよくわからない曲だなぁ,と。盛り下がって終わるから,という理由だけではないと思う。
● でも,今回の演奏でちょっとわかったぞ,っていうか。チャイコフスキーの最後を飾るに相応しい大作だというとおこがましいんだけど,これは残るでしょっていいますかね(もっとおこがましいか)。
「悲愴」に対する苦手意識を薄めてくれる演奏だった。木管が安定していたおかげかなぁと思うんだけど,よくはわからない。
● いろんな演奏スタイルがあって面白かった。スタイルまでユニフォームを着てたんじゃつまらないから。熱く演奏する弦奏者がふたりいたね。
それからですね。女性奏者のルックスの水準が高い。容姿が入団条件に入っているはずもないだろうから,たぶんこれが世間の水準なんだと思うけど,そうだとすると日本の若い女性たちってきれいになってるんだねぇ。育ちの良さも感じさせる。
ぼくの同級生のあの彼女やこの彼女(の若い頃)を思いだしてみるんだけど,とてもとても。昔と違うねぇ。これ,女だけってことはないよね。男もたぶん同じなんだろう。
● アンコールはシベリウスの「悲しきワルツ」。カンパ箱に若干の紙幣を入れて,会場を後にした。
今回の収穫は,上に書いたように「悲愴」の良さを少しわからせてもらえたこと。
駅に向かう道すがら,「悲愴」についての感想を言い合っている人たちが多かった。満足感が高かったに違いない。
栃木県総合文化センター メインホール
● 季節の変わり目とか,年中行事とか,そういうものにあまり敏感な方ではない。大晦日であれ,元日であれ,自分が生きなければならない(生きることのできる)2万日か3万日の中の1日だ。それだけのことだ。
とはいえ,年末のイルミネーションや年度が切り替わる4月の桜など,それぞれの時期の風物や風景は,その時期の象徴になる。それを愛でるのはけっこうなことだし,自分でも嫌いではない。
● ただね。たとえば,クリスマスイブに吉野家とかマックとかにひとりで行く人がいると思うんだけどさ。そんな自分を外れ者だと思っちゃいけないよね。
バカは群れたがるもんだと思ってればいいんじゃないのかなぁ。バカなんて放っておけばいいんでさ。昔からつける薬はないと決まってるんで。
で,世の中の大半はバカ,と思ってればいいんだよ。大衆は必ず間違える,常に間違える,ってさ。おまえの方がよっぽどバカだ,と言われても馬耳東風でね。
● ちなみに申しあげれば,ぼくはそういうの,まったく平気。っていうか,ぼく,友だちっていないから,たいていひとりで食べに行くことになる。
食事はみんなで食べる方が美味しいよね,っていうのも何とかのひとつ覚えだと思ってる。みんなでお喋りしながら食べるとおいしくなる? ホントかね。かえって不味くなることの方が多くない? イヤなヤツが混じってたりしてさ。
● 吉野家の牛丼もマックのハンバーガーも,それなりに旨いでしょ。クリスマスだろうが大晦日だろうが,ひとりで喰っても旨いものは旨い。何人で喰おうと不味いものは不味い。
ひとりでレストランとかに行くのは気後れするけどね。回転寿司を含めたファストフードになっちゃうんだけど,食べものなんてそれで充分だしさ。
● 栃木でも「第九」は年末の風物詩。「第九」が年末の季語?になった経緯はどうあれ,何度でも聴きたい曲には違いないから,いそいそと出かけていく。
● 大げさにいうと,「第九」を聴くことができるかできないかで,人生のクオリアが違ってくると思っている。遅ればせながらというか,人生の後半もいいところだったけれども,「第九」を聴く機会を得られたのは幸運だった。
さらにいうと,ベートーヴェンが存在してくれたことが,どれほどの恩恵を人類(の一部だけど)に与えてくれているか。何というのか,筆舌に尽くしがたいほどだ。
● 開演は午後2時。チケットは1,500円。
昨年は指揮者もソリストも外部から招聘。今回は元に戻って,内部調達。
管弦楽は,今回は栃木県楽友協会管弦楽団という看板になっていた。実質はこれまでどおりの栃木県交響楽団といっていいんだけれども,県内の他楽団から参加した人もいたようだった。指揮は栃響の荻町修さん。
● 前回の栃響の「第九」には少なからず驚かされたんだけど(もちろん,いい意味で),あれは偶然にもいくつかの要因が重なった結果だろう。
今回もまた前回と同じ演奏を聴かせてもらえるとは,正直なところ,思っていない。
● 今回の露払いは,フンパーディンクの歌劇「ヘンゼルとグレーテル」の序曲。この歌劇を通して聴いたことはもちろんないけれども,序曲はCDを持っている。YouTubeで聴いてしまうことが多いんですけどね。
続いて,「第九」。スタートにやや乱れがあったかもしれない。が,すぐに場が整って,あとはそのまま終曲まで。
「第九」は第1楽章が最も好きだ。緩徐楽章(第3楽章)がいいという人も多いと思うんだけど,ぼくとしては第1楽章に惹かれる。
● ただ,指揮者とオケの間がわずかにギクシャクしていたように思われたんですけどね。指揮者が熱くなっているのに,オケはわりと冷めてるような。
指揮者がどうしたかったのか,ぼくには最後までわからなかった。テンポからして,これでいいのかと迷いながら振っていたように感じられた。
結果はオーライっていうか,決して悪い演奏ではなかったわけだけど。
● ソリストは篠崎加奈子(ソプラノ),荻野桃子(メゾ・ソプラノ),岩瀬進(テノール),村山哲也(バリトン)の諸氏。合唱団は栃木県楽友協会合唱団。
CDで聴くたびに,第4楽章(の少なくとも後半)はなくてもいいんじゃないかと思う。けれども,生で聴くと,第4楽章がないと話にならないと思う。ここは,CDと生の落差が最も甚だしいところですね。
さくら市氏家公民館
● 中高年にとって「ルパン三世」は最もなじみのあるアニメではなかろうか。ぼくも映画になったものやテレビスペシャルは,『ルパンVS複製人間』以来,ほぼすべてを観ている。
もはや伝説になっている(なっていないか)『カリオストロの城』や『ロシアより愛をこめて』も当然観ている。DVDを借りて何度も観たものもある。
● その音楽を創作しているのが大野雄二さん。彼が率いるLupintic Fiveのライブがあった。
開演は午後6時。チケットは2,000円。約100分間のライヴ。
● メンバーは大野さんのほか,井上陽介さん(ベース),江藤良人さん(ドラムス),松島啓之さん(トランペット),鈴木央紹さん(サックス),和泉聡志さん(ギター)の5人。
錚々たるメンバーなのだと思う。
● 演奏された曲目も「ルパン三世」絡みがメイン。そうじゃなかったのは角川映画の「犬神家の一族」と「人間の証明」のテーマ曲だけ。
どの曲もアニメの中で頭から尻尾まで放送されたことはないと思うんだけど,当然,一部は聴いたことがあるものばかり。CDも何枚かあるので,中にはすべてを聴いているものもあったと思う。
● そのうえで,奏者のテクニックが炸裂するわけだから,客席もわいた。
どうしてもラッパが目立つので,松島さんと鈴木さんを見ている時間が一番長かったけれども,ドラムスもギターも大野さんのピアノも,唖然とするしかない腕前。
● なんだけれども,どうもぼくには「馬の耳に念仏」だった感が濃い。こういうものに感応する感性がないか,もしくはかなり薄いようだ。
我を忘れるってのができない。頭を空っぽにしてノリまくる的なところに行くのを抑制してしまう。理性的でしょ,っていうんではなくて,つまらない性格だと思う。
ただ,つまらなくてもこれが自分の性格だとすれば,いまさら治ることもあるまいから,この種のライヴに行くのは,奏者にも迷惑かもなぁ。自重した方がいいようだ。
東京芸術劇場 コンサートホール
● 4回にわたって開催される「音楽大学オーケストラ・フェスティバル」の最終回。先週行われた3回目(東邦音楽大学・東京藝術大学)には行けなかったけれども,あとは行くことができた。上出来。
お金のことばかり言って申しわけないけど,これで750円(通し券の場合)っていうのは破格。大学の行事という位置づけで,各大学からお金が出てるんだろう。学生の交流を図るというのが趣旨だとしても,充分に社会還元になってますなぁ。
● 東京に住んでれば,その還元を目一杯に味わえるわけだ。羨ましいですな。
こちとらは,往復で4千円の電車賃がかかる。それでも聴きに行く価値はあると思っている(だから,実際,聴きに行っている)。
● 東京音大はまずベートーヴェンの8番。指揮は卒業生でもある川瀬賢太郎さん。
ベートーヴェンの交響曲ならどれであっても,何度聴いてもいい。普段は小澤征爾指揮・サイトウキネンのCDをもっぱら聴いている。イゴール・マルケヴィチ指揮・ラムルー管弦楽団とアバド指揮・ウィーンフィルのCDも手元にあるんだけど,聴きくらべてどうのこうのという水準には達していない。それ以前に,聴きくらべができるほどのオーディオ環境を整えていない。
だったらあとの2枚は要らないじゃないかって? さよう,しかり。でも,何となくあるんですよ。
● 今の演奏水準って半世紀前とはまるで違うんでしょうね。どんどん上手くなっているんだろうな。今聴いている学生の演奏だって,昔のプロオケの上を行っているんだろう。
8番の流れるような旋律を聴きながら,そんなことを思ってみた。
● 次はハチャトゥリアンのバレエ「ガイーヌ」から「剣の舞」「バラの娘たちの踊り」「子守歌」「レズギンカ」の4曲。
3曲目のオーボエのソロが印象的。さすが音大で木管が上手。弦は言うまでもないんだけど,管が巧いと全体がピッと締まる感じ。
● 国立音大はバルトークの「管弦楽のための協奏曲」を持ってきた。指揮は山下一史さん。
バルトークが好きです,っていう人,当然いると思うんだけど,通っぽいよね。こちらが刷りこまれている予定調和をスパッスパッと切り崩してくれる。
モーツァルトに慣れたウィーンの市民がベートーヴェンの音楽に接したときもそう思ったかもしれないし,古典派に慣れたベルリン市民がベルリオーズの幻想交響曲を初めて聴いたときにも,同じ印象を持ったかもしれない。
● 先月11日に桐朋学園が演奏したストラヴィンスキーの「春の祭典」なんか典型的にそうだと思うんだけど,この曲も下手な演奏では,簡単に雑音に転化する。ベートーヴェンの5番だったら,下手でもそれなりに聴くことはできるんだけど,この曲でそれはあり得ない。
というわけだから,今回の演奏で聴けたのはありがたかった。穴がないオーケストラというのは,それだけで充分にすごいものだ。ぼくが感じたのはやはり木管陣の安定感なんだけど,ヴィオラが何気に良かったと思う。目立たないパートなんだけど,そういうところが冴えていると全体の格調が大きくあがる。
● あとは来年3月に選抜チームの演奏会がある。終演後にそのチケットを購入。要するに,来年3月までは生きてなきゃいけない。
栃木県総合文化センター 特別会議室
● 宮本哲朗さんによるレクチャー。午後2時から2時間。入場無料。
● 受講前はこんなことを考えていた。
オペラに限らず,何ものかを鑑賞する場合に,こういうふうにしなさいというガイドラインをまず求めてしまうヤツはダメなヤツ。
そういう人って,おそらく,効率信仰があるんだと思う。無駄を省きたい。効果的に鑑賞したい,っていう。効率だけで人生を埋めて,どこが楽しいのか。
● 鑑賞の仕方に正しいものと間違ったものがあると考えているのかもしれない。だから,その道の権威に正しいものを教えてらもらいたい,と。
これも何だかなぁ。間違ってたっていいじゃないかと思ってしまう。間違いだって遠回りだってかまわないから,まず自分に尋ねてみたらいいと思う。
● てなことを言いながら,そういうところが自分にもあることを認めざるを得ない。でなければ,わざわざこうした「入門講座」なんてものを聞きに行ったりしませんよね。大丈夫なのか,オレ。
● 講師の先生も,オペラの鑑賞の仕方に方程式なんかないと言いたいと思う。どんな見方をしたっていいんですよ,人それぞれですよ,ここではそのためのヒントをいくつかお話ししましょう。
というような話になるんだろうな,と思ってたんですけど。
● が,そうではありませんでした。鑑賞のしかたをガイドするというのではなく,まずはオペラが総合芸術(音楽的,文学的,演劇的,美術的,舞踏的,の5つの総合)であることの説明。声の種類によって役柄が決まること。パルランド形式についてのざっくりとした解説。
あとは,オペラに興味を持つ契機について御自身の体験を語った。ラジオから流れてきた序曲が興味を持つキッカケだったというようなこと。
● 実際にいくつかのアリアや重唱を聴かせた。ソプラノ,メゾ・ソプラノ,バリトン,バス,テノールの代表的なアリアとか,合唱が入っている華やかな場面とか。
実際に聴かせてみて,それ自体をオペラに興味を持つキッカケにしてもらいたいということのようだった。
● 高いところから,こういうふうに聴きなさい,こういうふうに観なさい,と教えを垂れるという話ではなかったわけですね。
オペラファンを増やしたいという思いが伝わってきましたね。オペラは総合芸術だから,興味を持つ「とっかかり」も様々あるはずだ。どんなところから興味を持ってもいい。そして,実際に聴いてみてほしい。そういうことでした。
● 言葉の意味などわからなくても,声で観客のハートをつかむのがオペラの醍醐味だと,宮本さんは語った。彼は演じる側の一員でもあるから,その手応えを感じると,相当以上に嬉しいものなんでしょうね。
実際,鑑賞の手引なんぞというものはあるはずもなくて,オペラは結局,歌を聴くもの。つまりはそういうことかと思われる。総合芸術とはいっても,音楽成分が圧倒的に多いわけだから。
● 受講者の中に若い人は少なかった。若い人の総体がどんどん小さくなっているのだから,音楽でも演劇でもカルチャーセンターでも,お客さんの平均年齢は高くなる一方だと思う。それが道理だ。仕方がない。
それだけに,若い人の争奪戦がシビアになっていくわけだろう。
栃木県総合文化センター メインホール
● この日は川崎で,音楽大学オーケストラ・フェスティバルの3回目の演奏会があった。行けば高揚した気分になれることはわかっている。チケットも購入済みだ。
けれど,こちらを選択。曽根麻矢子さん(チェンバロ),古川展生さん(チェロ),中嶋彰子さん(ソプラノ)が宇都宮に来るんですよ。何というか,とても豪華版。
中嶋さんのソプラノを生で聴ける機会なんて,滅多にあるものじゃない。YouTubeにアップされている「乾杯の歌」(NHKが放送したもの)に登場する彼女を見て,一発で魅せられてしまっててね。これは聴きにいくでしょ,行かなきゃダメでしょ,的な。
● このレクチャーコンサート,1回目は2年前だったか。しかも無料だった。何と太っ腹なと思ったけど,今回は有料になった(といっても1,000円)。これで良いと思う。
ともかく,これで上記3人の演奏が聴けるんですよ,と。持ち時間は,それぞれ1時間。進行役は今回も朝岡聡さん。退屈することは絶対にない。
開演は午後1時半。2階席は使わず,1階席のみを使用。それでも両翼席を中心にけっこう空席あり。
● まずは曽根麻矢子さん。お嬢さんって雰囲気を湛えている。おきゃんな人っぽい。かといって,ちょっとそこのお嬢さん,と呼びかけていいわけじゃない。
「生で聴ける機会なんて,滅多にあるものじゃない」ってところでは,彼女のチェンバロもそうだね。栃木に住んでるんだからね,こっちは。
いきおい,CDでってことになるんだけど,これまで14枚のCDをリリースしているそうだ。その中でぼくの手元にあるのは,バッハの「イタリア協奏曲,フランス風序曲」「イギリス組曲」「トッカータ」「フランス組曲」と,スカルラッティのファンダンゴやソナタを収めた「ラティーナ」の5枚。
● ただ,熱心に聴いてるかというと,そうでもなくてね。そうでもなくてっていうか,ぜんぜんそうじゃないわけで。だいたい,「ゴルトベルク変奏曲」は持ってないんだからね。
ゴルトベルクはもっぱら横山幸雄さんのピアノで聴いてるんだけど,チェンバロも聴かないとゴルトベルクを聴いたことにはならないかもね。
ただ,こうして本人の生演奏を聴く機会があると,そのあたりを修正できるきっかけになるわけでね。修正できないことも多々あるんだけどさ。
● チェンバロの音色,なんて表現すればいいんでしょうかねぇ。朝岡さんは雅びといっておられたけれど。一番近い楽器を探すとすると,ハープになるんでしょうか。いや,だいぶ違うな。むしろ邦楽器の箏か。ひっきょう,チェンバロはチェンバロですよね。
でね,チェンバロをずっと聴いていると眠くなってくる。音楽を聴きながら居眠りするってのは相当な贅沢だし,何といっても気持ちいいし,有効な音楽の使い方だと思ってるんですけどね。生演奏のときにそれをやっちゃ失礼なんだろうけど,CDを聴きながらだったらぜんぜんOKですよね。
● ステージには2台のチェンバロがあった。小さい方がジャーマンで,大きいのがフレンチ。ドイツの曲だからジャーマンでという厳密な縛りはないそうだ。
そりゃそうだ。厳密って不自由だもんね。意外性を殺してしまうだろうし。なんか,発展性がないって感じがするよね。
● 曽根さん,楽屋にピアノが置いてあっても触ることはないそうだ。まったく別の楽器だからというわけなんだけど,イチローが他人のバットは持たないと語っていたのを思いだした。感覚が狂うから,と。
数年前,NHKの「プロフェッショナル」で,イチローがそういうことを言ってたんですけどね。
● 次は,古川展生さん。ピアノ伴奏は坂野伊都子さん。
ヴァイオリンもそうだけれども,チェロも18世紀から形がまったく変わっていない。言うなら,最初から完成形。大きなコンサートホールなどなかった時代の形態が変わらず今に至っているのは,不思議というか途方もないというか。古川さんと朝岡さんがそんな話をしていて,こちらはなるほどな,と。魂柱の話も面白かったね。
弓も1千万円くらいのものがあるらしい。古川さんが使っているのもその種のもの。とすると,チェロの本体は億か。さすがに自前ってわけにはいかないから,貸与を受けることになる。
● オーケストラだったらとっかかりがいくつもある。金管はちょっとしょぼいけどクラリネットは巧いなぁとか,まぁいろいろと。指揮者を見てたっていい。演奏するのも交響曲がメインだから,曲じたいが壮大だ。
けれども,単楽器のソロとなると,そういうわけにいかない。語れる素材が少なくなる。ハッタリが効かない。聴き手の鑑賞能力が露わにされる。上級者向けだ。
ぼくにはちょっと厳しいかも。と,ずっと思っているから,聴き方に進歩がないんでしょうね。
● ベートーヴェンの「“マカベウスのユダ”の主題による12の変奏曲」が面白かった。面白かったというと上から目線的な言い方になってしまうんだけど,ベートーヴェンってこういう曲も作ってたんですねぇ,って感じで面白かった。
しめに持ってきたのは,ピアソラの「リベルタンゴ」。古川さんのチェロはもちろんのこととして,坂野さんのピアノも聴きごたえがあった。
● 「リベルタンゴ」ってクラシックジャズの風情もあるし,日本の演歌に通じるメンタリティーもあるように感じててね。リズミカルなんだけど,人生って辛いよなぁ,やんなっちゃうよ,っていう感が濃厚にあるじゃないですか。
そんなことないですか。ま,ぼくはそういうふうに聴いちゃってるんですけどね。
● 中嶋彰子さん。存在じたいに華やかさがあって,威風あたりを払うの趣。
こういうのって持って生まれたものだとは思わないんだけど,かといって,こういうふうにすれば持てますよ,っていう方程式はない。たいていの人は持てないままで一生を終わる。
なんで持てないかというと,たぶん,持つ必要に迫られないからだ。必要がないものを持っていたってしょうがない。では,必要に迫られれば持てるのかというと,持てる人もいれば持てない人もいる。このあたりが問題といえば問題。
● お姫さま気質とか王子さま気質というのがあるかもしれない。彼女のたたずまいは,そういうことを連想させるんですよ。
たとえば,ぼくには王子さまは務まらないと思うんです。みてくれとかの問題は度外視してですよ。3日ももたずに放りだしたくなるに違いない。
お姫さまや王子さまって,生活の細かいことよりも,押しだしが良くないといけないし,ストレスに強くなきゃいけないでしょう。ほとんど社交に生きているんだろうから,四六時中誰かと一緒にいることになる。
細かいことに拘泥してたんじゃ,身がもたない。こんなことを言ったら嫌われるかも,なんてことを気にしていては,お姫さまは務まらないような気がする。いろいろ考えるのはいいとして,芯は楽天家でないとね。
で,中嶋さんは苦労してそれを身につけたのかもしれないね。根拠はないんだけど,そんなふうに思ってみました。
● 中嶋さんが日本語を歌うことの難しさを語った。子音に必ず母音がくっついていることや,「ん」は10通りの発音の仕方があって,なかなか大変なんですよ,と。
実際,オペラだと日本語公演であっても字幕がほしくなる。日常文脈から切り離して音声だけを浮かびあがらせようとするわけだから,そこには日常語にはない配慮が必要になるんでしょうね。演劇なんかも同じでしょうね。
● 楽器を介さないから直接性が強烈っていうか,これは努力してどうにかなるものじゃないなと,すぐにわからせてくれる。楽器の演奏だって同じなんだけど,器機の操作だからわずかに幻想を持てる余地があるわけね。
ウサイン・ボルトが100メートルを9秒58で駆け抜けるのをテレビで見たときと同じ。自分にもあれができると思うやつは,まさかいないだろう。こちらは感嘆しつつ,それを楽しめばいい。理屈はしごく単純だ。
● ピアノ伴奏は松本和将さん。その松本さんがリストの「リゴレット・パラフレーズ」を演奏。ぜんぜん弾けない人間には,いわゆるひとつの奇跡を見るような思いですな。
アクロバティックな指の動き。そこから立ちあがってくる音の粒立ちとふくよかさ。ひたすら堪能。
● というわけで,終演は午後5時。これで1,000円だからね。
これ,しばらくシリーズものとして続けるんだろうか。そうだとすると嬉しいね。