2015年10月5日月曜日

2015.10.04 東京楽友協会交響楽団第99回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 大ホール

● 東京楽友協会交響楽団の演奏会にお邪魔するのは,今回が初めて。すでに99回目の定演になるのだから,かなり古い楽団なのだろう。っていうか,古いわけですね。長く続けてきた実績のある楽団。
 開演は午後1時半。チケットは1,000円。当日券を購入した。

● 指揮は寺本義明さん。本職(?)はフルート奏者。プログラムノートの紹介によると,東京都交響楽団の首席を務めている。
 大学は音大ではなく京大文学部。音大に在籍したことはないようだ。それでもって,日音コンクールで第2位になっている。
 都響のサイト情報によれば,小4でフルートを始めているんですね。芸大も考えたけれども,京大に進んだとあった。勉強そっちのけで音楽に没頭していたんだろうと思いたいんだけど,勉強もそこそこ以上にやっていたらしい。
 困るなぁ,こういう人にいられると。

● ところで,その都響サイトの団員紹介「私の音楽はじめて物語」は読みごたえがありますな。たとえば,田口美里さんなんか,桐朋高校時代は学校で夜10時まで練習して,帰宅は0時。朝は4時に起きて親に車で学校まで送ってもらって,1限目の授業が始まるまで練習したとある。
 そういう人たちがプロの奏者になっていくわけだ。こちらはお気楽にその演奏を聴いて,勝手な感想を持つわけだけれども,彼ら彼女らがそこまでやっていた一時期を持っていることは知っておくべきなんでしょうね。

● さて,プログラムは次のとおり。
 マーラー 交響曲第10番 嬰ヘ長調「アダージョ」
 マーラー 交響曲第5番 嬰ハ短調
 マーラーの5番は8月にも聴いているしな,どうしようかな,と少し迷った末に出かけたわけなんだけど,いや,出かけて正解でした。

● ぼくはプロオケの演奏ってあまり聴いたことがない。理由ははっきりしていてチケットが高いからだ。今のところはとにかく回数を聴きたいなと思っていて,財布と相談すれば(相談するまでもないんだけど)アマオケの演奏に足が向くことになる。
 で,しばしば思うことは,アマチュアといっても相当な水準の楽団が,特に東京には多いってこと。呆れるくらいに上手なところがある。

● 実際のところ,演奏を聴いて,そこからこちらが持ち帰れるものの質量は,必ずしも奏者側の技術には比例しないところがある。聴衆の一人として巧さが絶対だとは思っていない。
 こめた思いだとか,一回にかける真摯さとか,演奏に影響を与える要素は技術のほかにもある。だから,中学生や高校生の演奏のほうが,プロの演奏より長く記憶に残ることだってある。

● とはいえ,技術があってそこに思いや真摯さが加わった演奏をされれば,こちらとしてはグーの音も出ないわけで,それが一番いいに決まっている。
 そういう演奏って,初発の音が届いた瞬間に,こちらの雑念を吹き飛ばしてくれる。ぼくはコンサート禅と言っているんだけど,脳内が音で満たされる。無心になれる。

● 普通に人生をやっていれば,日々の8割は苦に染まる。楽しいこと,ワクワクすること,そうしたものだけで1日,1週間を過ごせる人なんて,学生の中にだっていないだろう。年齢にかかわらず,人は苦に翻弄されるものだろう。
 ホールに足を運んで現に演奏を聴きながら,でもそうした苦の断片が次から次へと去来してやまなかったことも,一度や二度ではない。

● であればこそ,コンサート禅に入れる演奏に出会えると,しみじみとありがたく思える。今回の演奏はそれだった。
 これがマーラーだったのかという感慨もあった。これがマーラーだ,なんてのは実際にはあるわけがない。もしそんなのがあるんだったら,それでマーラーは終わってしまう。
 それぞれの1回ごとの演奏がマーラーの表現であって,もちろんそれが前提なんだけれども,マーラーってこうだったのかと,客席のぼくは思った。
 個々のパートがどうのこうのという話ではなく,交響楽ってこういうものだったのか,とも。よく使われる表現だけれども,オーケストラというひとつの楽器になっているのだった。

● これまでマーラーは何度か聴いているけれども,最もこちらの芯に響いてきたといいますか。聴き終えたあとの満足感。
 視覚的にも美しい楽団だった。もちろん,演奏中の話。

● ステージ上の奏者だって,人生の8割は苦というのは同じはずだ。彼らだけが苦とは無縁なんぞということはあり得るはずがない。
 ひょっとしたら音楽それそのものが苦の種になっているかもしれない。ぼくにとっては,音楽は楽しみの対象で貫徹しているけれども,それは百パーセント聴く側にいるからだ。
 楽団を運営する責任を担っている人は,それで胃が痛くなる思いをしているかもしれない。その分,それを越えてやりとげたあとの達成感が一入なのだとしても。

● 同時に,彼ら彼女らにとっては,楽器に触れ,あるいはステージに立つことが,苦を忘れる方便なのだろう。そう考えないと,こちらは人を踏み台にして,自分の苦から逃れる時間を作っていることになってしまう。
 彼ら彼女らはボランティアで,こちらはそのボランティアで癒やされる側になってしまう。それはそれでイヤな立ち位置ではないのだけれども,可能であれば,持ちつ持たれつだと思いたい。

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