栃木県総合文化センター メインホール
● だいぶ前にチケットを買っておいた。行かなきゃもったいないというケチ根性。席はS(4,000円)とA(3,000円)の2種。安い方のA席を買っていた。
2階席でピットがよく見えた。収容人員が1,600人程度のホールだから,ぼくの席からでもそんなにステージが遠いというわけでもない(早い時期に買ったから,Aの中ではかなりいい席を取れてはいた)。
● 開演は午後2時。管弦楽は栃木県交響楽団で,指揮は荻町修さん。演出を担当したのは宮本哲朗さん。
蝶々夫人に篠崎加奈子さん。ピンカートンが田口昌範さん。シャープレスを石野健二さんが,スズキを柳田明美さんが演じた。わりと大事な役どころのゴローは岩瀬進さん。
皆さん,栃木県の出身者あるいは在住者。
● 「蝶々夫人」の生の舞台はこれまでに少なくとも二度は観ている。ただ,演奏会形式だったりハイライト形式だったりした。ので,完全版を観るのは今回が初めてだ。
劇中の蝶々さんは15歳。が,それを劇の中で自身が語るシーンは,今回初めて観るものだ。
● この劇では,蝶々さんが悲劇のヒロインで,ピンカートンが悪役というか女の敵といった役回りになるんだろうけれども,実際には蝶々さんも困った人だよね。女としてあまりに未熟っていうかさ。
どこが未熟かっていうと,3歳の息子の前で,あられもなく女に戻ってしまうところ。自分の母親が女に戻るのを見るのは,子ども心にも嫌なものだろうよ。男の子は,特に。
極めつけは,その子どもの前で自害すること。子どもにしたらさ,母親に目の前で自殺されて,あげくに別の女性(母親を死に至らしめた父親の妻)に引き取られて異国で育てられるわけでね。これでグレるなって言うのは,言う方に無理があるよ。
● 息子にそこまでの重荷を背負わせて,自分は名誉に殉ずる? サイテーじゃん(シャープレスとケイトに子どもを預けるように説得(強制)された,というわけではあるんだけどさ)。
ここを何とか緩和するのが,蝶々さんが死ぬ時点でまだ18歳だということだ。18歳なんだから,多少のことは大目に見てよね,っていうね。
● 純粋とか純愛とかっていう,純の付くものは,愚かの別名であることがほとんどだ(本当はすべてだと言いたいんだけど)。
宗教でいうと原理主義。考えるという面倒な作業をとことん省略すると,原理主義に行き着くはずだ。原理主義を信奉すれば,何も考えなくてすむ。逆にいえば,考えなくてすませたければ,原理主義を信奉すればいい。
● 純粋なんていうのもそうだろう。競馬馬のようにブリンカーをかけられて,視野が一点に限定されている状態を純粋というのだ。
一点しか見えてないんだから,それに向かって突き進めるわけだ。勢いもでる。はた迷惑な勢いだけど。
● ことほどさように,「蝶々夫人」に限ったことではないんだけれども,オペラのストーリーや人物設定は,現実離れしたものになっている。
その現実離れしたストーリーや登場人物にリアリティーを与えなければならない。リアリティーを与えて,観衆を舞台に没入させなければならない。
● リアリティーを与える技法として,オペラでは歌を使う。この技法もまた現実離れしている。そういうコミュニケーションのあり方は,ぼくらの現実世界には1ミリもないからだ。
あまりに荒唐無稽なストーリーや人物にリアリティーを与えるには,その技法もまた現実離れしたものにならざるを得ないのかもしれない。
虚構にリアリティーの息吹を与えるのに,歌という虚構をもってする。歌という表現技法が,独自の虚構世界を作りだすのに与って力あることは,間違いないように思われる。
● 技法が歌であるとすれば,歌に説得力がなければならない。歌に説得力があるとはどういうことか。ごくザックリといえば,上手いってことだよね。
上手いだけでは足りないのかもしれないけれど,上手くないんじゃリアリティーが立ちあがってこない。
● 今回の「蝶々夫人」はどうだったかといえば,揺るぎない真実性が舞台上にずっと存在していたと思う。
主役の蝶々さんを演じた篠崎さんの功績に帰して差し支えないだろう。第2幕の前半は,蝶々さんのアリアだけで,劇を支えているといってもいいくらいだ。これがこけてしまったら,劇も舞台も面目を失ってしまう。彼女は見事に支えきった。
● 「ある晴れた日に」は,この歌劇で最大の聴かせどころだろう。これを聴きにきたのだというお客さんだっていたかもしれない。
篠崎さんは,気負わず,しかし情感をこめて,このアリアを客席に差しだした。想像で申しあげるのだが,ここで泣いた人が最低でも50人はいたのじゃないか。
● さらに「かわいい坊や」で,“私のもとに天国から降りてきたおまえ”と子どもに語りかけるところ。
脚本が蝶々さんに目いっぱいの気配りをしている。それを受けて,18歳の蝶々さんが子どもへの細やかな情愛を表現する。
さらに,篠崎さんがそれを受けて,表現を具体化していく。この子を残して自分は死ぬと決めた母の覚悟,武家の娘の矜恃のようなもの,ピンカートンへの思い,捨てられた自分を持てあます自分。
それだけではないのかもしれないけれども,万感をこめた“おまえ”という呼びかけ。
● 篠崎さんにしても,スズキを演じた柳田さんにしても,歌だけではなくて所作が美しい。
着物を着ると,ひとりでにこうした所作ができるものなんだろうか。日本人なんだからあたりまえでしょ,ってものでもないよねぇ。
日本舞踊とかも習っているんだろうか。この世界ではそうするのが普通になってたりするのかね。それとも,演出者の細かい指導が入るのかねぇ。(→“とちぎテレビ”で放送している「光れ!とちぎの楽士団」をネットで見て,疑問氷解。先生に来てもらって,そちら方面の練習もするんだね)
● 4年前にこの会場で「椿姫」を聴いて以来,いくつかのオペラ視聴体験を経てきた。DVDもいくつか手元に溜まってきた(なかなか聴けないでいるんだけど)。多少はオペラの何たるかをわかってきたかなぁ。
そんなものはわかっても仕方がないのかもしれないけどね。知らない方がいいくらいなものかもしれない。が,(視聴)経験を重ねるうちに,嫌でも知ってしまうものだ。
● 問題は,ひとつひとつの作品を上手に,というか深く,聴けるようになってきているかということだ。オペラについて多く知るようになったからといって,深く聴けるようになるわけではない。
もっといえば,オペラだけを聴いていたのでは,オペラを深く聴けるようにはならないだろう。生活全般がかかわってくるのだろう。ていねいに生きること(松浦弥太郎)が必要なのかもね。
人生で遭遇することになる様々な出会いと別れ,喜びや悲しみ。それらをひとつひとつキチンと味わっていく努力と姿勢が,深く聴ける力を作っていくのだろう。
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