那須野が原ハーモニーホール 大ホール
● 今回は宇都宮市ではなく,那須野が原ハーモニーホールでの開催。
開演は午後2時。チケット(前売券)は1,200円(全席自由)。指揮は三原明人さん。
● 早めに家を出たんだけど,会場の近くにあるラーメン屋で昼食を食べるのに,ちょっと時間をかけすぎてしまって,会場に着いたのは開演15分前。
すでにかなりの数のお客さんで,空席を見つけるのに苦労した。前から3列目に座ることになった。オーケストラの演奏を聴くには,いくら何でも前過ぎるんだけど,致し方がない。致し方ないんだけど,こうまで前だと,ヴァイオリン奏者しか見えないわけで。
● このあとも続々とお客さんがつめかけて,まったく空席はなくなった。それでもまだ来るので,スタッフがオルガンの下にパイプ椅子を並べた。それでも足りずに立ち見のお客さんが出た。
どうしたんだろうか。座席の数以上にチケットを販売してしまったんだろうか。これだけ入っていると,演奏する側は気持ちいいんだろうけどね。
● 曲目は次のとおり。
ドヴォルザーク 交響曲第8番 ト長調
早川正昭 ハープ協奏曲「月児高」
サン=サーンス 交響曲第3番 ハ短調「オルガン付」
交響曲が2つという重量級のプログラム。最近はこういうのが珍しくなくなった。だから驚くことはないんだけど,演奏する方は大変だろうなぁ。
● ドヴォルザークの8番を聴くのは久しぶり。栃響は「第九」以外で対向配置を採用することはあまりない印象があるんだけど,今回はその対向配置。
しかし,配置がどうのこうのより,演奏においては活きの良さって大事だなと思う。活きを生むのは,集中と思い切りなんだろうけど,集中できる,思い切りよく踏みこめるためには,巧くなければいけない。
技術がすべてではないけれども,ある程度の技術がないと,音楽に限らず,表現行為は成立しないものなのだろう。文章表現もまた同じ。
● 地方で音楽を聴くというときに,一番大切だなと思うのは,安定供給が確保されていることだったりする。群馬には群響が,山形には山響があって,地元で数多くの演奏会を開催しているのだろう。群馬や山形ではその条件が満たされている。
基本的にぼくは栃響の演奏水準に不満はない。これだけ活きのいい演奏を聴かせてもらっている。それ以上望むことはあまりない。栃木県に住んでいて,栃響でダメなら仕方がないのだとも思っている。
● が,栃響はアマチュア・オーケストラであって,定演が2回,特別演奏会と年末の「第九」,一般向けの演奏会はこの4回のみ。他に有志の活動もあるようだから,アマオケとしてはかなりハードに活動している。
ただ,群馬や山形の住人に比べると,栃木県人は栃響への依存度を高めたくても高められないというところはある(だから,年間に数十回の演奏会を催行できるプロのオーケストラが栃木にもあった方がいい,とはまったく思わないのだが)。
● 第3楽章は3拍子の舞曲。たぶん,ここが8番の中で最も知られているところだろう。ここが聴きたいから,この会場まで自分を運んできたのだという人もいるかもしれない。
こうした部分を突破口にしてクラシックを聴く人が増えてくれればと思う。というのも,クラシックに馴染めるかどうかは10代で決まると言われるからだ。10代のうちにクラシック音楽を聴いて,何らかの痕跡を残してもらわないと,一生,クラシック音楽とは無縁に終わるだろう,という言い方。
● ほとんどの人は小学生のとき,学校の音楽室でクラシックのレコードを聴かされたはずだ。中学校でも然り。自分には居眠りタイムだったという人も多いはずで,だから自分にクラシックなんかとなったりするんだろう。
無理に聴く必要はさらさらないんだけど,10代云々という話をあまり真に受けない方がいいのじゃないかと思う。例外もけっこういるはずだからだ。ぼくもそのひとりだ。
● 演奏のプロになるなら5歳から楽器を始めていなくてはならないとしても,聴く方はそうじゃない。聴くことにおけるプロというのがもしいるとしても,そのプロになり得る有資格者は5歳から楽器を始めた人たちに限られる。ぼくはそう思う。
世上,音楽評論家というのはいるけれど,間違えるのが評論家の仕事だ。評論家の言うところを深追いするのは,あまり賢いとは思えない。
● クラシックの側に自分がすり寄るんじゃなくて,クラシックを自分に引きつけて聴けばいいんだと思う。大御所には大御所の聴き方があり,ぼくらにはぼくらの聴き方がある。聴き方に優劣を持ちこんでも仕方がない。
自分に引きつけるキッカケになる音楽の断片が,映画やドラマやテレビCMの中にあるかもしれない。ドヴォルザークの8番第3楽章の出だしのところにあるかもしれない。それらのどれかをガチッとではなく,フワッと掴んでもらえるといいのかなぁと思ったりする。
● ハープ協奏曲「月児高」が流れ始めたとたん,あ,これは日本人が作ったものだとすぐにわかるな,と思った。のだが。
プログラム冊子に作曲者自身による曲目解説がある。それによると,台湾のレコード会社から「中国琵琶の古曲(独奏曲)にオーケストラをつけて協奏曲風にしてほしいとの依頼を受けて書いたのが発端」とのこと。作曲者とすれば,ことさらに和を強調しようとは思っていないんでしょうね。
ちなみに,「月児高」とは「高い所に小さな月がかかっている,という意味」だそうだ。
● ハープ独奏は早川りさこさん。作曲者の説くところによれば,独奏ハープが月を引き受けている。つまり,月の四方山話の独白をハープが行う。その独白の内容がどんなものかは,聴き手ひとり一人によって違うのだろう。
この曲は聴き手にとっては難解な部類に属するとぼくは感じたが,それはこの曲目解説にあるとおりに聴こうとすればということかもしれない。聴き方は自由なはずだ。
● サン=サーンスの3番はこのホールならでは。電子オルガンで代替すれば,その限りではないけれども。オルガンはこのホールの専属を務めているジャン=フィリップ・メルカールトさん。
オルガンは独奏で聴くよりもこういう形の方が身体に染みてくる(ように思う)。
● サン=サーンスは「モーツァルトに匹敵する神童」であったらしい。しかも,音楽に限らず,戯曲や詩,小説から天文学や考古学,哲学に至るまで,幅広い分野の著書があるんだそうだ。本当かね。
反面,母と叔母に溺愛され,束縛され,その結果としてマザコンの権化でもあった。マザコンでも哲学はできるんだな。
と,凡愚は天才を茶化したくなるんだけど,サン=サーンスってこの交響曲第3番だけで歴史にその名を刻まれる人でしょうね。
● 壮大な曲だと思う。ライヴで何度か聴いているんだけど,たぶん,ぼくはこの曲を聴ききれていないだろう。
聴ききるためにはどうすればいいのか。CDを何度も聴くとかね。そういうことしかないんだろうな。急ぐことはない。ボチボチ行こう。
ぼくに残された時間はそんなにないと思うんだけど,だからといって急いだってしょうがないやね。
● アンコールはエルガー「威風堂々」。「威風堂々」を聴くとき,ひとつだけ困ったことがある。「キーテキテ,アタシーンチー,キテキテ,アタシンチー」というコトバが,頭の中に浮かんでしまうことだ。
今回の曲目はアンコールまで含めて,脈絡がない。どういうわけでこのような選曲になったのだろう。もっとも,脈絡が要るのかと問われれば,そんなものは必要ないね,というのが回答になるわけだけど。
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