宇都宮市文化会館 大ホール
今年だってどうなるか,当日を迎えるまで見通せない状況だったろう。1月半ばから2月初旬までは,栃木県も緊急事態宣言下に置かれていたのだ。
それかあらぬか,今回は入場無料になった。その分,(学校側では負担しないだろうから)保護者あるいは主催者であるOBOG会の負担が増えたろう。
● 聴く側としては無料なのはありがたいのだが,こうした状況はやはり好ましいものではない。
コロナが収束した後もリモートワークは定着するだろうから,都心のオフィス需要は減り,したがって地価も下落し,人の流れも変わる。個人的にはそれらは望ましい方向への変化だと思っているけれども,今回のこのような部分は速やかに元に戻したいものだ。
今年中にはワクチンも行き渡って,コロナとの共存はずっと続くとしても,コロナに狂騒するのは今年で終わるのだと思いたい。
● 開演は14時。1日の宇都宮中央女子高校の演奏会と同様に,自由席だけれども,使える座席は半分に抑えてある。
3部構成で,第1部は大人ステージ(?)。
J.ミラー Next generation Fanhare
佐藤信人 龍潭譚
プッチーニ 歌劇「ジャンニ・スキッキ」より “私の優しいお父さん”
サン=サーンス 歌劇「サムソンとデリラ」より “バッカナール”
● 「龍潭譚」はやっぱり泉鏡花の原作を読んでおいた方がいいんですかねぇ。プログラム冊子の曲目解説は読んでいなければ書けないもののように思える。ぼくは読んだことがない。
で,後日,青空文庫で読んでみたんだけども,結論は読んでいてもいなくても,同じように聴けるだろうということ。おそらく,この曲目解説を書いた生徒さんも読んでいないと推測してみる。
● プッチーニの「ジャンニ・スキッキ」が舞台にかかることはあまりないと思うのだが,“私の優しいお父さん” を聴く機会はけっこうあった。それを吹奏楽でやるとこうなるのか。
“バッカナール” は迫力充分。第1部で最も印象に残ったのはこの曲。
● 第2部は「えんとつ町のプペル」を朗読劇に翻案して,そこに生演奏のBGMを付けたもの。台本の朗読は演劇部の女子生徒2名が担当。
この年代の若者にしか出せない類のエネルギーがある。最近(といっても,かなり以前からだが)の高校生は,大ホールという舞台でこれだけの観衆を前にしても,動じるということがない。緊張のあまりアガルという言葉が以前はよく使われたものだが,今の高校生にはそのアガルがないのかもしれないと思うほどだ。思うさま,エネルギーを発散してくれる。
ここでもそのとおりの展開。ただ,惜しむらくは声が割れてしまって,語っている内容が聞き取れないことがあった。少ぉし,マイクが近すぎたか。
ゴミ人間のプペルと煙突掃除屋のルビッチの2人物語だ。テーマは,“1人になっても信じぬく”。
真っ黒な煙が空を覆っているが,そこを抜ければ無数の星がまたたいている。プペルがルビッチを誘ってその星を見に行く。鉄製の船に風船をたくさん括りつけて船を浮きあがらせるという方法で。ここが大事なところだ。
そこで感動するかシラケるかは,人によるだろう。
● 第3部は「空と海の旅」と題してのマーチング。マーチングを北高がやるのは初めて(たぶん)。今まではミュージカル的なもの(つまり,台詞や歌はなかったので)を用意するのが常だった。
どちらがいいかという議論には意味がない。聴き手の好みによる。それ以外の結論はない。
この学校の定演をずっと聴いていた人に限れば,ミュージカルを楽しみにしていたのに,と言う人の方が多いだろう。人は昔に引きずられるものだからだ。古き時代は良き時代になりがちだ。
● 現有勢力を目一杯使ってステージを作っている。第2部,第3部には工夫の跡がいくつもあり,企画を疎かにしては勝負にならないことを教えてくれる。
さはさりながら,奏者の数が足りない。かなりの数のOB・OGの賛助出演を仰いでいる。
が,1年生は19名入部したようだ。例年より多い。この1年生部員がすでにかなりの技量の持ち主であるようだから,この先が楽しみではある。
● 今回は開演前に学校長の挨拶があった。過去にはなかったのだが。OBOG会が主催とはいえ学校の行事なのだから学校長が挨拶するのは当然だ,などというのは,昭和チックな古い定跡だと思うがな。そうした古いものが残りがちなのが教育界だと言われれば,そうなのですかと言うより仕方がないが。
言いたいことがあるのなら,プログラム冊子に載せておけばいい。と思ったら,ちゃんと載ってるんだよねぇ。なら同じことを喋っても意味がない。開演前に情報量ゼロの数分間を作るべきではない。
演奏会は演奏会としての質感を高めるべきで,それを削いでしまうのが,こうした余計なものを付加することだ。
って,今回は無料で聴かせてもらっているので,あまりこうした文句を言っちゃいけないんだけどね。
● 創部時の顧問でもあった岩原篤男さんがコーチにあたるようになったらしい。部活は教師が見るのではなくて外部に委ねるのが公式的な流れでもあるようだ。それに沿った動きなのだろう。
岩原さんは石橋高校でも指導にあたっているのではなかったか。真岡市でも何かやっていたのでは? 指導力のある人は少ないから,どうしてもそうなる。
彼の薫陶を受けた生徒たちがコンクールでぶつかることもあるんだろうな。これはもう,仕方がないことでしょうねぇ。
● 今の教師は忙しすぎるのだ。余裕があるのは大学の教師くらいのものだ(彼らは彼らで,論文のノルマや学生の就職のアシストがあって,と言うに決まっているが,小中高の教師に比べれば,忙しさのレベルが数段低い)。
仄聞するに,雑務的なもので忙しいようなのだな。必要のある忙しさならまだしも,やらなくても本当は誰も困らないという業務で忙しい。最も消耗するのがこのパターンだ。
● “働き方改革” を受けての部活の外部化なのだが,本当は “働かせ方改革” をしなくちゃいけないんだよね。
教師の側に改革できる余地はあまり(というより,ほとんど)ない。与えられたものを処理しようとすれば,夜を日に継いで手当のつかない残業をしなくちゃいけない。小手先の技術でそれを解消するのは不可能だ。
それで部活まで見なくちゃいけないのでは,明らかに過重負担だ。そのしわ寄せはおそらく教師の家庭に行っている。夫婦ともに教師ならば,彼らの子供たちがそのしわ寄せを一身に引き受けているはずだ。
仕事の与え方に問題はないのか。そこに手を付けずに,教育の理念だの使命感だのという精神論を押しつけるしか能のなかった経営側をどうにかしないと。
● 学校の部活というのがこれからどうなっていくのかといえば,1校で完結することが難しくなる。数校で1つの運営体にならざるを得ない。
少子化はこれで終わりじゃない。これからさらに目に見えて減っていくのだ。部活を支えるには最低限の生徒数が必要になるが,いかに学校の合併統合を繰り返そうと,その数を維持するのは無理だ。
そうなると移動時間が発生する。部活に充てられる時間は減る。コストは増える。
● 結果,そもそも部活は必要なのかという議論が出てくる(議論自体はもう出ていると思うが)。部活でメシを喰っている業者その他がいるはずだが,彼らにとっては死活問題になる。迫真の議論が展開されるだろうが,趨勢には敵わない。
放課後にたとえばサッカーをやりたい人は,地元か近隣のチームに入ることになるだろう。最終的には部活は学校から完全に切り離されて,全き意味で外部化すると思う。
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