2018年2月28日水曜日

2018.02.25 第19回少年の自立を支える会コンサート

宇都宮市文化会館 大ホール

● 宇都宮市文化会館でダブルヘッダー。15:30から大ホールで「青少年の自立を支える会コンサート」。チケットは1,000円。
 ここ10年ほど,必ずではないけれども,聴きに行っている。児童福祉に寄与したいという崇高(?)な志からではなく,今回でいえば,「MANBO INN」のラテン・ジャズを聴けるからという,即物的な理由による。
 主催者はNPO法人の「青少年の自立を考える会」。自立援助ホーム「星の家」を運営している。

● 「MANBO INN」とはいかなるバンドか。プログラム冊子の“プロフィール”によると,結成は9年前。メンバーは次の5人。
  スティーブ・サックス サックス,フルート
  ジョナサン・カッツ ピアノ
  伊藤寛康 ベース
  佐藤英樹 パーカッション(今回はコンガ)
  鈴木喜鏤 ティンバレス,ドラム
 MC担当はスティーブ・サックス。なかなか達者な日本語を操る。

● ジャズはどうもわからない。かの山下洋輔さんが,どんな音楽でもジャズになる,バッハは最もジャズにしやすい,と言っておられたのを聞いたことがある。
 どんなものでもジャズになってしまうとすれば,そもそもジャズって何なんだ,っていう。

● 頭から入ってしまっちゃダメだとはわかっているんだけど,どうも自分はジャズに関しては縁なき衆生である可能性が高い。
 特にラテン・ジャズはジャズなのかとずっと思っていた。繰り返すけれども,この思考回路は不毛にしか通じていない。それはわかっているんだけどね。

● プログラムは次のとおり。
  Mambo Inn
  Chopin 夜想曲2番
  Bueanas Noticias
  りんご追分
  海(文部省唱歌)

  Broadway
  荒城の月
  Chopin 前奏曲
 
● ショパンの夜想曲2番を聴いて,これのどこがショパンなのだと思ってしまう。ショパンらしさなんてどこにもないじゃないか,と。
 が,「りんご追分」を聴き,「海」を聴くと,なるほどラテン・ジャズに仕上げるとはこういうことなのかと少し見えてきた気がした。
 「荒城の月」はこうなるのかと思った。その後に再びショパンを聴いたわけだけども,フゥム,ショパンをこういうふうにするのがラテン・ジャズなのか。

● というわけで,今日の「MANBO INN」の演奏を聴いて,少ぉし,ぼくの蒙昧が晴れてきた気がする。ひょっとするとジャズの世界に入りこんでいけるかもしれないと,かすかな希望が見えてきたぞ。
 いや,錯覚かな。希望には至っていないかな。

● 他に,「ワールド・ソウル・コーラス宇都宮」と「石川典子とアフリカンダンスチーム」が登場。大いに盛りあがって終了した。

● このコンサート,出演者はノーギャラでやっている。スタッフもボランティア。チケット収入はすべてNPO法人の活動資金になるのだろう。
 崇高な志は持っていないんだけれども,この種のコンサートであれば,チケットを購入するほかに,いくばくかの寄付をしてくるのは,大人の基本でしょ。

● でね,どうせ寄付するなら,きれいなお姉さんが持っている募金箱に入れようと思って(これまた,大人の基本),よしここだと決めて近寄ったところが,彼女は隣の知り合いと話に夢中で,ぜんぜんこちらを向かない。
 ぼくの純な気持ち(邪心ともいう)は,無残にも砕け散ったのでありました。寄付はしてきましたけどね。

2018.02.25 第6回本條秀慈郎 三味線リサイタル

宇都宮市文化会館 小ホール

● 開演は13時。チケットは1,000円。前売券を買っておいた。濃い固定ファンがいることが予想されたので。
 一度,2013年3月の「邦楽ゾリスデン」のコンサートで,当日券がなくて,聴くことができなかったという経験もしているし。

● 久しぶりに聴く邦楽。今回は本條さんの宇都宮エスペール賞受賞のお披露目も兼ねていたようだ。
 賛助は邦楽ゾリスデン,宇都宮ユース邦楽合奏団,それに和久文子さん。となれば,県内で望み得る最高水準。

● プログラムは次のとおり。
 挟間美帆 Distorted Wheel,Go On and On(本條)
 酒井健治 Cantus(本條 邦楽ゾリスデン)
 バッハ Partita for Flute Sarabande(本條 舞踊:妻木律子)
 権代敦彦 Triskelion 三味線のための(本條 舞踊:妻木律子)
 中能島欣一 三弦協奏曲第1番(本條 吉澤延隆 宇都宮ユース邦楽合奏団)
 沢井忠夫 銀河(本條 和久文子)
 中村典子 慈音 vox affectio(本條)

● 邦楽器についていろいろと妄想した。日本家屋は木と紙でできてるわけだから,西洋の建築物と違って,反響という物理現象は生じない。したがって,直接音の勝負になる。という前提で,今に至っているはずだ。楽器自体が反響を作りだす構造になっているんだろうか。
 しかし,そういうことはどうでもいいので,たとえば三味線のくぐもるような音色が日本民族に受け入れられてきたのは,いかなる理由によるものかということ。

● 邦楽器は旋律を奏でるよりも,刹那を表現するのに向いているのではないかとも思った。大方の賛同は得られまいが。
 つまり,そう思わせるような曲が多かったためだ。特に,最初の「Distorted Wheel,Go On and On」と最後の「慈音」。刹那をつないでいく曲のように思えた。
 クラシックの現代音楽もこんな感じなんだろうか。現代美術は好きな人とまったく受け付けないという人と,極端に分かれるのではないかと思うのだが,ぼくは遺憾ながら後者にとどまっている。
 そういう人は,こうした曲も苦手とするのかもしれない。聴き手を選ぶというか,高度な鑑賞能力を要求するというか。

● 合間にトークが2つ。ひとつは,酒井健治さんと本條さんの,もうひとつは,本條秀太郎さん,和久文子さんと本條さんの。
 本條秀太郎さんも和久文子さんも,知らない人はいない重鎮だ。けど,話しぶりを聞いている限りでは激しいところは感じさせない。偉大な常識人というか,穏やかな印象だ。
 が,穏やかなだけのはずはない。聴衆には見せない表情が当然あるはずだ。

2018年2月18日日曜日

2018.02.17 陸上自衛隊第12音楽隊演奏会

那須野が原ハーモニーホール 大ホール

● 開演は午後2時。入場無料。事前に往復はがきで申込んで,整理券をもらっておく方式。
 ぼくはこの演奏会があるのを知ったのが遅くて,応募締切日の2日前にはがきを投函したんだけど,運良く“当選”になった。
 宇都宮で催行されたときは,あえなく落選したことがある。今回もほぼ満席だったから,人気があるということなんだよね。

● 高度な水準の吹奏楽を聴こうとすれば,東京佼成やシエナなど,いくつかあるプロ吹奏楽団か,そうでなければ自衛隊音楽隊ということになる。
 そのことを皆,知っているんでしょうね。だから,言っちゃ悪いんだけど,こういう田舎でやるときが狙い目。“当選”の確率が高くなるから。
 じつは第12音楽隊の演奏を聞くのはこれが初めてではない。2010年2月に高根沢町町民ホールで聴いている。このときは,事前申込みも必要なくて,当日フラッと行けばよかったんだよね(ただし,ホールは満席になった)。

● 入場の際に荷物検査(?)があった。ディズニーランドでやっているようなやつ。それと君が代斉唱があった。
 あ,あと主催者挨拶があった。ぼく一個は,その演奏会がどのようなものであれ,演奏会に演奏以外のものがあってはならぬと思っている。まして,リーフレットに主催者挨拶が載っているのだ。それと同じことをステージで喋ることに何の意味があるのか。
 地元選出の国会議員や首長を招待している以上,そういうわけにもいかないのではあるけれども,それでもなお,演奏会のステージに演奏とは独立した“言葉”を入れるべきではないと,どうも頑なに思っているんだな,ぼくは。

● プログラムは次のとおり。
 バーンスタイン 「キャンディード」序曲
 行進曲メドレー(旧友 星条旗よ永遠なれ 軍艦行進曲)
 イルジー・パウエル ファゴットコンチェルト
 オッフェンバック 喜歌劇「天国と地獄」序曲

 R.シュトラウス ツァラトゥストラはかく語りき
 ヴァン・マッコイ アフリカン・シンフォニー
 渡邊浦人 必勝祈願太鼓
 森田一浩編 すべてをあなたに
 佐久光一郎編 Paradise Has No Border
 グレイテスト・ヒッツ・山口百恵
 日本レコード大賞 青春の70年代

 アンコール:いずみたく 永六輔(詞) 見上げてごらん夜の星を

● 「キャンディード」序曲で水準は了解。これをタダで聴けるとはラッキーだ,と下世話にも思ったよ。
 行進曲の中でも,この3つは淘汰に耐えて残っている代表的なもの。ずっと聴いていると陶然としてくる。たしかに,音楽の力というものがあると思わせる。悪くいえば神経を麻痺させる。これもいい演奏で聴けばこそなのだが。

● ファゴットコンチェルトといえばやはりモーツァルトが有名だと思うんだけど,ヴィヴァルディやヘンデルなど,曲そのものはけっこうな数がある。が,モーツァルトのものも含めて,聴く機会がほとんどない。
 まして,パウエルのこの曲は,存在自体をぼくは知らなかった。CDも持っていない(CDはちゃんと出ている)。たぶん,この曲を生で聴くのは,これが最初で最後だろう。貴重な機会をものにできた。
 「天国と地獄」序曲は,コンミスのクラリネットの清けき響きが聴きどころでしたか。微妙なさじ加減を誤らないということ。

● 自衛隊の広報が音楽隊の仕事の大きなひとつだからか,サービス精神に富む。これでもかというほど,客席サービスに努める。
 自分たちもそれを楽しんでいるようでもある。音楽を業とするほどの人は,だいたいノリはいいのであろうけどね(数の中にはそうではない人もいるかもしれない)。

● 彼らが想定する客席のレベルは,かなり低いところに設定されているようだ。多くの経験を通じて,このあたりだとわかっているのだろうね。
 R.シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」は30分程度の曲のはず。それを導入部だけで終わりにしたのも,全部聴いてもらうのは無理だと考えたからかなぁ(ま,時間の都合なんだろうけどさ)。

● 残念ながらというか,それがピタッと当たっているので,やることなすこと,ことごとく聴衆のツボにハマる。
 ぼくもまた,最も印象に残っているのが,“第12音楽隊の山口百恵”だったりするから,彼らが想定した聴衆の一人であることは,歴然としている。うぅ~む・・・・・・

● その“山口百恵”。山口百恵役を務めたのは田中知佳子さんとおっしゃる。彼女,本職(?)はホルン吹きのようなんだけど,山口百恵を掴んでいる感じなんだよね。掴みが上手い。山口百恵になりきると決めて,そこにケレン味がない。
 書道でいう臨書,手本を見ながら字を書くことだけれども,その臨書の意臨が巧みといいますか。たとえて言うなら,そんな感じ(ちょっと褒めすぎかも)。

● バラエティにしてみたり,芸人になってみたりっていうのも,演奏水準が高度だからこそ,結果において活きることになるのであって,下手クソにそれをやられると,ぼくなら腹を立てる。
 ひょっとすると,自衛隊の音楽隊というだけで拒否反応を示す人がいるかもしれないと思うんだけども,そういうことでは大きな楽しみを取り逃がすことになるかもよ。

2018年2月13日火曜日

2018.02.12 東京大学歌劇団 第48回公演 チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」

三鷹市公会堂 光のホール

● 開演は午後3時。入場無料(カンパ制)。

● 歌劇は総合芸術と言われるけれども,演劇的要素が強い分,舞台の設えや演者の衣装など,視覚に依存する部分が大きくなる。視覚の支配力が増すほど,それは大衆性を帯びやすくなる。抽象度が下がって,具体度が上がるわけだから。
 視覚とはそういうもので,音楽に関する限り,視覚は抽象度を下げる働きをする。たとえば管弦楽に比べると,観客側の参入障壁は低くなるはずだ。
 また,そうならなくては,つまり多くの観客を動員できなくては,催行に要したコストの回収が難しくなるだろう。

● オケはピットに入って,客席からは見えなくなる。舞台の演者がフロントで,オケは黒子になる。
 それを残念に思う人もいるかも。歌劇はコンサート形式がいいと思っている人。っていうか,ぼくにもその気がないわけではないんですよね。

● さて,「エフゲニー・オネーギン」。
 ストーリーはいたって単純だ。昔,手ひどくふってやった田舎娘が,艶やかな淑女に変わっていた。サナギが蝶になったように。そこで,蝶になった彼女に自分から言い寄ってみたものの,彼女から手ひどく拒絶されて終わる,という話。
 ストーリーは単純で骨太である方が,歌劇にしやすいのだろうね。単純である方がいろんな綾を付けやすいのかもしれない。

● その単純で骨太なストーリーをどこに求めるかといえば,男女の恋愛が一番だ。ワーグナーという重大な例外があるし,歌劇という歌劇がすべて恋愛譚であるわけではないのだろうけど,まぁ恋愛ものが最も多いよね,と。
 となると,劇中人物の年齢はだいぶ若く設定しないといけなくなる。「エフゲニー・オネーギン」ではだいたい二十歳前。恋愛をするにも能力が必要だ。恋愛能力がね。それは誰にも与えられているモノだけれども,使用期間は限定されている。10代,せいぜい20代の前半まで。それを過ぎると恋愛能力は大きく低下する。

● いや,そんなことはない,と言われるか。「自分は30歳になるが,この歳になると女(男)を冷静に見られるようになる。いっときの衝動で突っ走ることがなくなるから,むしろ幸せな結婚ができそうな気がする」,と。
 いっときの衝動で突っ走るのを恋愛というのだ。それができなくなったのは,恋愛能力が低下したからだ。今のように結婚年齢が30歳ということになると,文字どおりの恋愛結婚は皆無のはずだ。本人が意識するしないに関わらず,打算と計算で結婚しているはずなのだ。
 もちろん,それでいい。恋愛のみでした結婚は必ず破綻に至る。恋愛と結婚は関係ない。結婚は打算ですべきものだ(しなくてもいいものだ)。

● 恋愛能力がなくなっているのに,打算や計算ができないサンジューバカ(男性)が多すぎるのが,むしろ問題じゃないのか。
 ついでに申せば,女性は冷徹なほどにこの種の計算をしていることも知っておくがいい。これができない女性はいない。
 もっとも,あり得ないほどに自身を高く見積もってしまうのも女性性の特徴で,ときに唖然とさせられることもあるから,そのことも心得ておくように。

● しかし,ドラマになるのは恋愛だ。花火のようなものなのだから,大体において絵になるのだ。自身も経験しているだろうし,そうじゃなくても身近にその例を知っているだろうから,感情移入もしやすい。
 何より女性が計算をしないで突っ走るのは,唯一,恋愛に落ちたときだけなのだから,恋愛は物語にしやすいのかもしれない。何があってもおかしくないのだから。

● したがって,とつないでいいのかどうか,恋愛には必ず愚の臭いが伴う。純と愚は同じものの別名だ。
 この歌劇においても,たいていの歌劇がそうであるように,ストーリーの肝要なところは,登場人物の短慮かおバカが引き起こしている。そこが人間らしいところだと言えば言えるわけでしょう。

● さらに脱線。
 幸か不幸か,君が恋愛に落ちてしまったとする。あるいは,その瀬戸際にいるとする。この際,心得ておくべきことが2つばかりある。
 恋の駆け引きというが,この点において男は女の敵ではない。横綱と幕下以上の差がある。ゆえに,駆け引きで勝とうとしてはいけない。もし勝ったと思える局面があったのなら,それはそうなるように彼女が誘導した結果なのだ。
 だから,恋愛においては,自分が彼女に惚れている以上に,彼女に惚れさせなければいけない。駆け引きはそもそも成立しないものだと考えよ。

● もうひとつ。他者のために自分を殺せる度合いは,女の方が男より高い。ということは,恋愛関係においては男が優位なのかというと,まったくそうではない。
 逆だ。女に覚悟を決められたら,普通の男ではまず太刀打ちできない。必ず,女が男を搦め捕る。
 何を言いたいのかというと,この女性はピンと来ないなとわずかでも思うのであれば,初期段階で離れよ,ということ。せっかくだからちょっとイジッてみようかっていうのは,もちろん彼女に対するこの上ない無礼であるわけだけれども,それ以前に少々以上に危険すぎることなのだ。御身大切に。
 「ドン・ジョヴァンニ」になろうとしてはいけない。君にその資質はないのだ。たぶんね。

● 今度こそ,さて,「エフゲニー・オネーギン」。
 じつは,この歌劇のCDもDVDも持っている。だけど,何というのか,封を開けていないんですよ。
 当然,聴いたことも観たこともない。ので,今回の公演で初めて「エフゲニー・オネーギン」とはこういう歌劇だったのかと知ったわけなのだ。
 だから語る資格はないんですよね。舞台の設えがどうだったか。演出に工夫を加えたようなんだけども,それがどうであったのか。そういうところに口をはさむ資格は1ミリもない(と言いながら,はさんでしまうわけだが)。

● バレエについてはチャイコフスキーは燦然と輝く存在だけれど,歌劇においてはチャイコフスキーに限らず,ロシア産のものって,あまり取りあげられる機会はない(ぼくが知らないだけで,あるのかもしれない)。
 初手で観客を鷲づかみするインパクトに欠けるんだろうか。管弦楽曲ではチャイコフスキーはそれを得意としている印象があるんだけど。

● 歌劇ってやっぱり歌い手なんだよね。演出でどうにかできる部分は限られる。玄人筋には重要と捉えられることがあるにしても,ぼくレベルの,つまりほとんどの聴衆にとっては,気づくことすらできないことが多いだろう。
 演出が歌い手に影響を与え,その結果,歌い手が客席に届けるものが変わってくる,ということはあるかもしれないけれども,演出が直に客席と対峙することはあまりないんでしょうね。どうなんだろ。

● 主役級3人のソプラノ,バリトン,テノールはそれぞれ説得力があった。中でも,ソプラノの高音部の抜け方が特に印象的。天性のものでしょうね。ここを努力でどうにかできるとは思えない。
 オネーギン役のバリトンは,巧い以前にていねいだった感じ。しっかり準備を重ねてきたのだろう。
 フィリピエヴナを演じた大島麗子さん。この歌劇団の公演を初めて観たのは2013年1月だった。演物は「カルメン」で,そのカルメンを演じていたのが,当時JKだった大島さん。さすがの安定感。

● タチアーナがオネーギンに辛い言葉を浴びせられて,悲嘆に沈む。ここがおそらく,この歌劇の最大の見せ場。
 その時の表情や姿をどう作るか。演者も演出者もここが腕の見せどころなんでしょ。今回のがその解答のひとつ。正統派というか。
 テレビドラマや映画ではないのだから,抑えた演技というのは選択肢に入ってこないように思うんだけど,他に解答はなかったか。おそらく,ここはいろいろと議論したところなのだろうけど。

● 学生さんのエネルギーがギュッと濃縮されているのが見て取れて,そのエネルギーに圧倒される快感がある。
 それは終演後も続く。キャストが並んでお客さんを出口で見送るわけだ。達成感と安堵感に包まれた彼らが発するエネルギーは並じゃない。まともに受けたら跳ばされそうな気がする。彼らから離れたところを歩かなきゃいけない。

● 歌劇はもう,この歌劇団の年2回の公演を観るだけでいいのではないかという気がしている。
 いや,昨年はこの歌劇団の講演を1回観ただけで終わっているんだけどね。

2018年2月5日月曜日

2018.02.04 栃木県交響楽団 第104回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 開演は午後2時。チケットは1,200円。これは必ず前売券を買っておく演奏会のひとつ。
 曲目は次のとおり。指揮は小森康弘さん。
 モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲
 モーツァルト クラリネット協奏曲 イ長調
 ラフマニノフ 交響曲第2番 ホ短調

● 30分前に開場。で,開場時点では長蛇の列。これを見ると入りきれるのかと思うんだけど,人間の視覚というのは,客観性を欠くものだね。オッと思うと,実人数よりも多いと捉えてしまう。
 勝手に自分の定位置と決めている,2階右翼席の奥(最も中央寄り)に座ることができた。

● メインはラフマニノフの2番。が,今回に限ってはモーツァルト「クラリネット協奏曲」を聴くために来た。CDで最も多く聴いているのが,たぶん,この曲だ。
 人類の至宝だと思っている。世界遺産などというレベルではない。そんなものと比べるわけにはいかない。
 言ってしまおうか。モーツァルトのこの曲に比べれば,日光東照宮などゴミも同然だと思っている。

● モーツァルトの天才をもってしても,この曲が顕現するには,彼の最晩年(といっても,35歳)を待たねばならなかった。
 突き抜けた明るさが全編をおおう。明るさをいくら煮詰めたところで,明るさを尽き抜けることはない。突き抜けるためには,幾分かの悲しみ,諦念がなくてはならぬ。その悲しみや諦念を濾過する辛い過程を踏んでいないと,突き抜けることはできないものだろう。

● その悲しみを湛えた透明感が,真っ直ぐにこちらに迫ってくる。透きとおっていて,濁りというものがまるで見られない。その深い透明感がどうにも・・・・・・。
 その突き抜けた明るさと透明感を合わせると,高貴なる何ものかになる。第1楽章から第3楽章までのどこを切っても,その断面から高貴なるものが溢れでるように思える。

● 小林秀雄は「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」と言った。が,この曲においては,悲しみは疾走しない。静かにそこにたたずんでいる。
 あるいは,スピノザの神のごとく,この曲のあらゆるところに遍在している。

● 文は人なり,書は人なり,という言い方がある。その伝でいえば,曲は人なり,と言えるだろうか。モーツァルト本人は,エゴイスティックな俗物であったらしい。高貴なるものとモーツァルトは結びつかない。
 ○○は人なり,という言い方には,途方もない緩さ,ぬるま湯的な甘えがあるのかもしれない。人を磨けば作品もそれに相応して良くなるはずだ,というとんでもない楽観が。モーツァルトのこの曲を聴くたびに,そのことを思う。

● クラリネットのソリストを務めたのは,藝大1年生のときにコンセール・マロニエを制した近藤千花子さん。役者に不足はないと言うべきだ。
 が,この曲の出来を決めるのはバックの管弦楽だ。これはもう圧倒的にそうで,この曲の醍醐味は,管弦の音の粒の連なりが,渓流のごとく流れ下っていく様を味わえるところにある。特に第1楽章はほとんどそれに尽きるだろう。

● ゆえに,この曲に関する限り,管弦楽にわずかのミスもあってはならない。跳ねっ返りの解釈も要らない。限りなく保守的であってほしい。革新は無用だ。栃響はさすがであった。
 とはいえ,どうせ聴くなら名手のクラリネットで味わいたい。それもまた満たされたわけだ。
 しかし,わずかに,第2楽章の終わりに,やや不用意な収束を見せてしまったような・・・・・・いや,こちらの勘違いというか,無知がそう思わせるのかもしれない。あれで完璧なのかもしれないのだが。

● いや,堪能できた。大満足だ。ずっと息を詰めるような思いで聴いていた。終わったあとはボーッとしてしまった。そのボーッとした状態で,ラフマニノフの2番を聴いてしまった。
 ので,ラフマニノフの印象がほとんどないのは困ったことだ。イメージ喚起力が強い曲だとは思った。いろんなところにこの曲が使われるのには理由がある。
 反面,この曲を嫌う人もけっこういるのじゃないかと思う。ショスタコーヴィチはいいけれども,チャイコフスキーもラフマニノフもダメだと言う人,いるんじゃないかなぁ。

● というわけで,今回はクラリネット協奏曲がすべて。ぼくは極めて貧弱なオーディオ設備しか持っていないんだけど,いいやつがほしいなぁと思うことが,年に一度か二度ある。今日はそれにあたった。
 いいオーディオ設備を整えたうえで,CDでこの曲を聴きたいものだ。億のお金があればそうするんだが。いや,ほんとにね,そうしてCDを聴きながら,1億円なんて小銭だよ,なんてうそぶいてみたいものだね。