● 外山滋比古さんの『ものの見方 思考の実技』(PHP 2010)に次のような文章がある。
イギリスの中世において,本が読まれるのは,音読であり,朗読であり,ときには,職業的読書技術ををもった吟遊詩人の「演技」ですらあった。そこにはつねに聞き手が予想されている。声を出して読まれるのは,読者ひとりのためでなくて,小コミュニティのためであった。(p43)もともと,リーディングとは音読のことだった。黙読が一般的になったのは比較的最近のこと。
● というところで,この催しを知った。というと,話の流れが自然でいいんだけれども,じつは逆で,この催しを知ったのが先。
そのあと,外山さんの文章を読んで,そうか,そういうことならこの朗読会に行ってみるか,と思ったという次第。行ってみようか,やめておこうかと迷っていたところに,偶然にこの文章を読んで背中を押してもらった。
● 開演は14時30分。当日券を買った。1,800円(前売券は1,500円)。
朗読は文学座の山崎美貴さん,大場泰正さん,駒井健介さんの3人。そこに梶原圭恵さんがヴァイオリンで背景を作る。5弦ヴァイオリンを用意していた。
● 朗読したのは,次の3作品。
モンゴル民話「スーフと馬頭琴」
シェル・シルヴァスタイン「おおきな木」
太宰治「走れメロス」
● なるほど,朗読は演芸なのだった。80分の別世界体験になった。
朗読の合間の,朗読者によるトークも興味深かった。どういう作品なのか,作者はどんな人だったのか,どう解釈すればいいのか。そういった話なんだけど,さすがは文学座で,トークじたいが芸になっているよね。
小学校で見た,NHK教育テレビ(と,当時はいった)の「おとぎの国」を思いだしたよ。あまり脈絡はないと思うんだけど。
3/9の下野新聞の紹介記事 |
いや,少し違うな。でも,飼い主が少年であること(ここはやはり少年でなければいけない),その少年と動物の心の通い合いがテーマになっているところは共通している。
● その「スーフと馬頭琴」の後半は涙が止まらなくなった。これを老人性涙腺失禁だとは言わせまい。
矢をいくつも受けて,血で白い躯体を真っ赤に染めながら,それでもスーフの元に一心に駆けるツァス。その様子が目に浮かぶんだよね。
そこがつまり“演芸”ということなんだろう。この作品を黙読しても,ここまでの震えを自分の中に起こすことはできないだろうから。
● この話,モンゴルではあまり流布していなかったらしい。日本で有名になって,モンゴルに逆輸出されたようだ。これも,トークのときに3人が話していたことなんだけど。そういうことって,けっこうあるんだろうね。
● 終演後,「走れメロス」でよく喉がもったものだな,と言っていた人がいた。が,それがプロなのだろうね。
いや,違うのかもしれないんだけど,そう思っておくと,心地いい思考停止に落ちることができるからね。
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