2018年9月10日月曜日

2018.09.09 東京大学歌劇団 第49回公演 ヨハン・シュトラウスⅡ「こうもり」

三鷹市公会堂 光のホール

● 開演は午後3時。入場無料(カンパ制)。

● 面白かったね。まずは脚本と演出に拍手を送りたい。
 その演出を担当した南あかねさんが,プログラム冊子の“プログラムノート”で,どこに注目したか,どこに手をかけたか,どこはあえて放置したか,ということを述べているんだけれども,作る側はここまで自覚的なのかと思った。
 この解釈と姿勢に同感する人も,同感しない人もいるだろう。正解はない。っていうか,正解を持ってしまっているような劇は浅薄ですぐに見棄てられてしまう。

● 歌ではなく台詞でつなぐところが多いので,脚本が大事。作家(?)の腕の見せどころ。歌なしでいくわけだから,演者の演技も問われる。表情や仕草が大事になる。
 しかし,どうもそれ以上に声がものを言うようだ。となれば,台詞も歌の範疇というか,そもそもキャストの得意とするところというか,台詞について違和感を覚えた箇所はなかった。

● その脚本も,たぶん,あまり悩まないでササッとできあがったのではないだろうか。そんな感じがする。なぜそう思ったかというと,全体として台詞に勢いがあったからだ。
 あまり悩んでしまうと,つまり時間をかけてしまうと,その勢いを殺してしまうことがある。時間をかければいいものができるというわけではない。

● 際立っていたのはアデーレの造形ではないかと思う。「極端なほど子供にしてしまう」という。これ,演者が門上莉子さんだからそうしてみようと思ったのか,そうしてみることに決めたから門上さんをアデーレ役にもってきたのか。
 何か失礼なことを言ってる? そうではなくて,門上さんが演出にほぼ完璧に応えていたと思えたので。地でやっているのかと思えるほどに完璧。
 もっとも,こうした子供役の演技と蓮っ葉な女役の演技は,わりとやりやすいのだろうとは思う。これをやって絵にならない女優はまずいない。しかし,だから簡単だということではない。“やりやすい”と“簡単”は別のもの。

● オルロフスキーを演じた根岸優至さんがやはり目立ったよね。カウンターテナー。もう,わけがわからない。何,これ,っていう。わかりやすい異能。及川音楽事務所所属って,もうプロなんですか。
 アルフレードの伊藤悠貴さんも存在感を発揮。何で存在感を放っていたかといえば,やはり声だ。“乾杯の歌”を軽く歌いだしたところなど,ゾクッと来たよ。

● この歌劇団の公演は毎回楽しませてもらっているんだけれども(だから,今回も出かけたわけだ),今回,特に感じたのは,彼ら彼女らのキャパの大きさだ。
 東大生といっても,おそらく階層があるよね。彼ら彼女らは,上の方の階層に属するんじゃないかな。勉強ができる云々ではなくて,地頭がかなりいいんだろうと思う。回転が速いというか排気量が大きいというか。
 すでにOB・OGになっている人もいる。仕事をしているわけだ。その本業が楽にできるものとは思えない。並みの人だと根をあげそうだ。それをこなしながら,表現者としてもここまでできちゃうってのはねぇ。ぼくからするとルール違反じゃないのかと言いたくなる。

● 比較対象がぼくだというのが問題だけれども,こうまで性能が違うと,彼ら彼女らとぼくとでは,見えている風景がまるで違うはずだ。
 まして,類は友を呼ぶで,それぞれの水準に応じた世界ができるとすれば,そもそも住んでる世界が違うという様相を呈することになるだろう。

● ので,たとえば“プログラムノート”にしても,書き手の南さんが想定した内容でぼくに伝わっているかどうか,けっこう以上に心もとない。書き手の責任か読み手の責任かという話ではなくて,同じ日本語が同じ意味では伝わらないということが起こるのじゃないかと思う。
 ところが,そうした隔絶した違いがあるにもかかわらず,音楽や歌は両者に橋を架けることができるんだよねぇ。刺さる場所が,そうした性能差の出る部位じゃないってことでしょうねぇ。

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