曲目は次のとおり。指揮は神永秀明さん。
モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」序曲
モーツァルト クラリネット協奏曲 イ長調
シベリウス 交響曲第2番 ニ長調
アンコール:シベリウス 交響詩「フィンランディア」
● じつは,この演奏会を知ったのは昨日のことだ。見落としていた理由ははっきりしてて,今月は地元開催の演奏会に一度も行っていないからだ。
つまり,入場時にもらうチラシがぜんぜん入って来なかったということ。ぼくの場合はだが,演奏会を知る契機になるのは,このチラシなのだ。チラシを見て,もっと知りたいことがあれば,その楽団のサイトを見てみる。
まずネットをググってみるってことを,演奏会情報に関しては,ぼくはあまりしていないことがわかる。
世に名曲と呼ばれるものはいくつもあるが,星の数ほどもあるクラシック楽曲の中で,今日より以後は1曲しか聴くことができないとなった場合に,さてどれを選ぶか。
ぼくはわりと迷わなくて,モーツァルトのこの曲にする。
● この曲のどこに惹かれるかといえば,えもいわれぬ透明感だ。第1楽章から第3楽章までのどこで切っても,その断面からたぎってくる高貴さを湛えた何ものかだ。
そして,突き抜けた明るさだ。明るさをいくら煮詰めたところで,突き抜けた明るさに至ることはない。突き抜けるためには,深い諦念か悲しみを加える必要がある。加えただけで突き抜けられるかどうかはわからないが,加えなければ突き抜けられない。
● モーツァルトは突き抜けている。突き抜けて,どこにたどり着いたかといえば,この三次元世界ではないどこかだ。天上界と呼ばれるところかもしれない。
生身の人間がこの境地に至ることができるのか。この曲を聴くたびに“モーツァルトの奇跡”を思う。
ここにおいて,「かなしさは疾走」しない。明るさの中に溶けこんで,そこに,ただ存在する。涙もない。
しかし,明るさに溶けこんだ深い悲しみが,ただ悲しみだけが,余剰をすべて削ぎ落として,透徹した姿で,たしかにそこに存在する。
もっといえば,ベートーヴェンのあの第9交響曲でさえ,モーツァルトのこの曲の前では,やや色を失うかもしれない。
ので,この曲だけは,演奏する側も心して臨んでもらいたいと,まぁ,勝手に思っている。
● さて,磯部周平さん。名手というのはリラックスを基礎にして,その基礎の上にほどよい緊張を組み立てることができるものだな。その緊張が過剰でもなく過小でもない。しかし,基本はリラックス。
思いを込めすぎず,しかしテクニックだけではなく。そのあたりの按配は,言語が入り込めるところではないような気がする。
特に第2楽章の冒頭に,名手の名手たる所以を感じた。
鹿沼市民文化センター |
音が平べったくなって寝てしまってはダメだし,滞ってもダメだ。アンサンブルが合わなくて音が濁るなどもってのほかだ。演奏の難易度だけでいえば,マーラーや第九に比べれば平坦であろうけれど,ただの一度でもミスがあってはならぬ。いや,ミスがないという水準にとどまってもらっては困る。
求めるものは多い。求められる方の身にもなってみろ,ってことだな。そこはよくわかるので,ここまでできてれば充分と思う,と言っておく。
● プロのオーケストラの録音を聴くより,アマチュアであっても生で聴いた方がずっといい。いいというか,身になる。そのようにぼくは確信する者だが,この曲だけはウィーン・フィルなりベルリン・フィルのようなプロ中のプロの演奏で聴いてみたいと思うことがある。
ので,CDはいくつか聴いてみたんだけど,この曲に関してはCDの決定版はないっぽい。っていうか,録音はダメだ(ぼくはWALKMAN以外の再生装置を持っていないので,CDはダメと言ってしまってはいささか以上に身の程知らずになるのだが,ハイレゾ相当で聴いてもどうもダメなのだ)。生演奏を追っていくのが一番だ。
小林秀雄はレコードを蓄音機で聴いて「モオツァルト」を書いた,と聞いた記憶があるのだが,昔の人は偉かったな。
● モーツァルトの前半が終わったところで,帰ろうかと思った。が,せっかく鹿沼に来たんだからね。しっかり聴いて帰ろう。しかしながら,聴くための集中力は前半で使い切ってしまった感じがする。
シベリウスの2番はオーボエの健闘に尽きる。以上。
あ,あと,1stVn.のセカンドがどこかに初々しさを湛えていて(ヘタだという意味ではない),好感度高い。
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