● やっと「神々の黄昏」。1カ月で“指環”4部作をすべて鑑賞することができた。新国立劇場のこの企画,本当にありがたかった。
この公演は2015年10月,2016年10月,2017年6月,2017年10月の興行。雑誌『音楽の友』にも記事や広告が載った。その記事はぼくも見ているが,自分には縁がないものと思っていた。
● “オペラパレス”で生を観れていれば,得られた情報量はもっと多かったかもしれない。が,そこは考えようだ。ぼく程度の鑑賞能力では録画映像でも変わらないかもしれないし,85インチの画面で40人の人たちと一緒に観れただけで,何かとても得がたい経験ができたような気がする。
逆にいうと,これで気がすんじゃった感じがしていてね。“指環”ってこういうものか,わかったよ,と。
● これは愚者の物語だ。っていうか,物語を紡ぐのは常に愚者なのだ。キリストの受難物語なんか典型的にそうだ。目端の利く賢人ばかりじゃ物語は始まらないのだ。
ヴォータンは最初からそうだし,今回の「神々の黄昏」においてはジークフリートもじつに愚かだ。まんまとハーゲンの術策にはまってしまう。あっけなく。
あのブリュンヒルデまでが,自分を裏切ったジークフリートに対して,怒りを爆発させる。殺人幇助の振る舞いに及ぶ。頑迷にして固陋な視野狭窄女に変貌してしまう。ジークフリートとの今まで過ごした時間はいったいどこに行ってしまったのかと,彼女に問いたいほどだ。薬を飲まされているのかもしれないと気づけ。
● そうした愚者たちが物語を作っていく。いや,ワーグナーが作っているわけだが,ワーグナーはこの“指環”において何を語りたかったのか,何を訴えたかったのか。
と考えてしまうのは,それじたいがダメなんでしょうね。そうした態度は“指環”の鑑賞法としては愚劣なのだろう。
にしても,だ。「神々の黄昏」まで観終えて,印象が完結しないんだよね。まとまらない。まとめる必要もない,そのまま受けとめておけばいい,と思うのだが,どうも落ち着きが悪い。
新国立劇場 |
ヴォータンを始め,神々たちはあまりに人間くさくて,そして弱い。
ヴォータンをも操ったのは「ラインの黄金」で作った“指環”なのだが,その“指環”ができた発端も何とも情けない理由による。ラインの水の精の3人がお喋りに興じたあまりの油断に発するのだから。盗んだアルベリヒもチンケなヤツだ。
そこから壮大といえば壮大な物語が紡ぎだされていくわけだ。
● 演出はゲッツ・フリードリヒ。指揮は飯守泰次郎。管弦楽は「ラインの黄金」と「ワルキューレ」が東京フィルハーモニー交響楽団,「ジークフリート」が東京交響楽団,「神々の黄昏」が読売日本交響楽団。
物語の展開に気持ちを奪われて,音楽(管弦楽)からしばしば離れてしまうのだけれども,この長大な楽劇にこの音楽を付けるっていうのもなぁ。途方もないというか。破天荒というか。
● 新国立劇場の公演記録映像上映会はこれだけではない。バレエとオペラと演劇が月に一度,上映されている。インターネットにあげてもらえばと思わぬでもないのだが,ネットでいつでも観れるとなると,観ないで終わりそうな気もする。
特に“指環”のような長大で(楽劇とはいえ)重い作品は,何らかの強制装置がないと,最後まで観れるかどうかわからない。
● ので,こうした機会を上手くとらえて,視聴体験を広げていければいい。
ぼくの場合だと,電車賃をかけて初台まで行くよりは,AmazonでDVDを買ってしまった方が安くつく。お金のことだけをいえばそういうことなのだが,それ以上の見返りはありそうな気がする。
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