2020年1月17日金曜日

2020.01.12 オーケストラ ハモン 第42回定期演奏会

東京芸術劇場 コンサートホール

● この楽団の演奏を聴くのは,2018年9月の第39回定演に続いて二度目。開演は13時30分。座席は全席指定でS,A,Bの3種。それぞれ,2,000円,1,500円,1,000円。B席が空いているんだったらB席でいいやと思っている。
 当日券を買おうと思って売場に行ったら,係の人が年齢を訊いてきた。正直に答えたところ,60歳以上の人は無料になりますと言う。いや,年齢を証明できるものを持ってないんですよと申しあげたら,大丈夫ですよ,と。
 結局,お言葉に甘えてそっち用のカウンターに行った。さっとチケットをくれた。そのチケット,S席のものだった。

● そのうえでこういうことを言うと,恩を仇で返すようなものだけれども,こうした高齢者優待はキッパリやめるべきだと思う。
 早い話が,今の60歳は間に合った世代なのだ。何に間に合ったのかというと,ひとつには年金に間に合っている。日本人全体の金融資産のかなりの部分を高齢者が持っているというではないか。
 高齢者は金持ちなのだ。個々の高齢者で自分は金持ちだと思っている人はほとんどいないと思うが,若い人,これから高齢者になる人に比べれば,相対的に金持ちであることは間違いない。

● その高齢者を優遇する必要はない。優遇すべきは若者の方だ。学生料金を設定するのは当然として,25歳未満の若者たちには優待料金を提示すべきだ。その分,高齢者から取るのが合理的だ。
 古稀というのが文字どおり古来稀なりだった時代ではとっくにない。昭和の残滓をいつまでも引きずっているべきではない。高齢者を甘やかしておく理由は寸毫もないと思う。

● そういうなら,おまえも優待を断ればよかったではないかと言いたいだろうね。ところが,これ,断るの難しいよ。スタッフが60歳以上は無料ですよとそれこそ無邪気に教えてくれているのに,いや,ぼくはお金を払いますよ,なんて言えるか。
 仕組みを消してもらうしかないね。あるいは,前売券を買っておくか。“ぴあ”でも扱っているようだから。

● なんでぼくを60歳以上だと見抜いたんだろうってのもあるね。若いつもりなのにさ。見抜かれたのが悔しいっていうかね。ほんと,なんでわかったんだろ。
 髪はとっくに総白髪なんだけどさ。皮膚の弛みとか,顔の肉が下を向いているとか,老いのシンボルが容赦なくぼくを襲っているということでしょうなぁ。

● もうひとつ。誰に客席に来て欲しいのかという問題だ。年寄りに来て欲しいのか,若者に来て欲しいのか。
 年寄りはもういいんじゃないか。難しいだろうけれども,若い層に来てもらわないと。そうじゃないと聴衆の数は細る一方になる。
 これから年寄りになる人(今はまだ年寄りじゃない人)に来てもらいたい。だったら,そういう人を優遇すべきだと思う。

● とまれ。そういう次第で1階のいい席で聴くことができた。曲目は次のとおり。指揮は冨平恭平さん。
 シューマン 序曲,スケルツォとフィナーレ
 ハンス・ロット 交響曲第1番 ホ長調

● シューマンの「序曲,スケルツォとフィナーレ」を聴くのは初めて。CDでも聴いたことがなかった。たぶん,CDを持っていないと思う。
 聴き終えた後に思ったのは,どうしてこれを交響曲にしなかったのだろうということ。これが最終型で,これ以上何かを足してはいけないんだろうかねぇ。Wikipediaによれば「シューマン自身はこの曲を「交響曲の形式と違っている。各楽章単独で演奏しても構わない」と述べている」らしいのだけど。

● こんなに明るい響きの管弦楽曲がシューマンにあったのかと思った。どうもね,ぼくのようなトーシローはシューマンっていうと精神を病んでっていう方に引っぱられちゃってさ。重心の低さはシューマンに似合わないと思ってしまう。
 ダメだね,簡単にひと色で染められてるようではね。人ひとり,しかも音楽史に残る作曲家を単色で理解しようなんてとんでもないよ。こういうイロハのイを忘れてしまうことが,時々ある。

● ロットの交響曲第1番は聴いてみたかった。これあるゆえに,今日は池袋に出たといってもいいくらいだ。先月の新日本交響楽団の定演で「"ジュリアス・シーザー"への前奏曲」を聴いて,初めてロットを知った。併せて,ロットの生涯についても概略の知識を得た。
 彼の26年の生涯は壮絶な悲劇といっていいと思うが,その壮絶さを作った理由のひとつに,ブラームスから才能がないというかなり厳しい評価を下されたことがあったらしい。

● ブラームスが才能がないと評したのが,まさにこの交響曲第1番。さて,ブラームスの評価は正しかったのか,それともブラームスですら見抜けなかった才能をロットは有していたのか。自分をブラームスと対等の位置に置くのは論外だけどね。
 一度聴いたくらいではわからない。わからないなりに言うと,あまりピンと来なかった。いろんなものを取り込んでいるためなのか,とりとめがないという印象を受けた。

● ブラームスが才能がないという言い方をしたのは,知が勝ちすぎていると言いたかったのかなぁ。ここには君が存在していない,って。上手なパッチワークだけれども,君はどこにいるの。
 しかし,だ。第4楽章からは,釈迦が臨終の際に言ったとされる,「この世は美しい。人生は甘美である」を思いださせる。この曲の作曲を終えた時点では彼の悲劇の最終章はまだ始まっていないはずなのだが,どこかに晩年が潜りこんでいるように思える。いや,そう思って聴くとそう聴こえるのか。たぶん,そうなのだろうな。

● 重い荷物を背負わされて生きる人たちがいる。心身の障碍者,過酷な家庭環境で産み落とされる人,きらびやかな才能を持って生まれてしまった人の中の何割か。選ばれし者の栄光と悲惨,恍惚と不安。
 そういう人たちがいるのが自然というものなのだろうが,当人にすればたまったものではない。前世とか来世というのを信じたくなる。というか,そういう概念を借りて説明しないと,彼らの立ち位置の不都合を除くことができなくなる。それほどに理不尽な目に遇わされているように思える。
 ロットもまた。

● 以上,勝手な聴き方をした。聴き方は勝手でいい。が,それも勝手な聴き方をさせてくれる演奏があってのことだ。
 いつも思うことだが,その点で東京はすごい。これだけの奏者の分厚い層がある。新幹線を使わないで東京に出れる距離に住んでいることを,本当にラッキーだと思う。

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