2020年1月27日月曜日

2020.01.13 アズール弦楽合奏団 第10回定期演奏会

すみだトリフォニーホール 小ホール

● アズール弦楽合奏団の定演。2017年9月の第8回につづいて,2回めの拝聴。今回はイタリア・バロック。
 大人になってから楽器を始めた人たちの集団。それでもここまで来れるというのもさることながら,歳を重ねても青春するってこういうことかなぁと思ってね。何だかカッコいいんだよね。

● 開演は午後2時。入場無料。曲目は次のとおり。
 コレッリ 「パストラール」 合奏協奏曲集「クリスマス協奏曲」より
 コレッリ ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ より第1楽章
 マルチェロ オーボエ協奏曲 ニ短調
 ヴィヴァルディ ヴァイオリン協奏曲 イ短調
 ヴィヴァルディ Concert ト短調

 アルビノーニ 弦楽のためのソナタ
 ヴィヴァルディ オーボエとヴァイオリンのための協奏曲 変ロ長調
 タルティーニ ヴァイオリンソナタ「悪魔のトリル」より第1楽章
 ジェミニアーニ 合奏協奏曲 ニ短調 コレッリの「フォリア」より

● 合間に柏木真樹さんのトークというかレクチャーが入るのも前回と同じ。その中身はプログラム冊子に掲載されている。いくつか転載しておく。
 ドイツの文化はある部分では圧倒的なのですが,どちらかというと「創造」よりも「洗練」にその本質があるのではないかと思います。(中略)これに対して,イタリアの文化はまさに「創造」そのものです。一方で,イタリア人,特にトスカーナ以南の人々はある意味で「怠惰」で,作り上げたもので満足してそれをさらに進歩させるのはあまり得意ではありません。(p10)
 イタリアは徹底的な地産地消の国です(p11)
 音楽様式としてのバロック音楽はイタリア独特のものであるとする考え方もあります。(中略)バロック文化自体がカトリック教会の庇護のもとに発展したのですから,プロテスタントが広がったドイツでバロック文化の捉え方がイタリアと違うのはある意味で当然です。(p14)
 しかしながらバロック音楽の発達は音楽が教会から自由になる端緒でもあったのです。(p18)
 ハイドンは「弦楽四重奏の父」「交響曲の父」と呼ばれていることはご存じかもしれませんが,弦楽四重奏はあらゆるアンサンブルの中でも飛び抜けて完成度が高い形式だと思います。(中略)すでにバロック時代からヴァイオリン:ヴィオラ:低音=2:1:1という比率は普通に使われていたわけで,ハイドンはそれを実際に4人で演奏する曲として弦楽四重奏の各パートの役割とともに整理したにすぎないのです。(p22)
 というわけで,勉強になります。ぼくにはちょっと以上に難しすぎるか。わかったつもりでわかっていないってやつだと思う。

● マルチェロ「オーボエ協奏曲」とヴィヴァルディ「オーボエとヴァイオリンのための協奏曲」でのオーボエ独奏は小林彩子さん。第8回でも登場していた。
 このようにしてファミリーができていくのか。要の位置にいるのは,当然,柏木さん。ステージ上の彼を見ていると,要の位置にいるための条件として大切なものがあるように思える。
 技術や蘊蓄は当然として,それ以外にこれは欠かせないと思えるもの。それは,豊かな感情だ。涙もろいのはいいことだというより,リーダーに欠かせない資質ではないか。どんな分野でもひと角の人物になるのにどうしてもなくてはならないものが,この涙もろさに代表される豊かな感情だ。

● 柏木さんの文章をもうひとつだけ転載しておく。
 バッハ,ベートーヴェンやブラームスの音楽をよく「絶対音楽(ないし純粋音楽)」と定義することがありますが,この「絶対音楽」を簡単に言えば,「音楽がそれ自体で美学的に成立し風景や人間の描写や感情の表出ではない」というものです。(中略)この時代の作曲家が,自然から受けるイメージや人間の営み,さらに宗教的なインスピレーションなどを大切にして,それを音楽として表現することが当たり前だったのではないか,と感じるのです。(p30)
● 言葉の厳密な意味における「絶対音楽」は存在し得るものだろうか。人間が作り,人間が演奏し,人間が聴く。そういうなかで「音楽がそれ自体で美学的に成立」することがあり得るだろうか。
 少なくとも,ぼくらがベートーヴェンやブラームスを聴くときに,「風景や人間の描写や感情の表出」に紐づけないで聴くことができるだろうか。自分の乏しい視聴体験を振り返ってみると,そうやって聴けた例はないように思う。

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