ウェスタ川越 大ホール
● 学習院輔仁会音楽部とはどういうものか。同部のサイトに説明がある。
「管弦楽団,混声合唱団,大学男声合唱団,大学女声合唱団,女子大女声合唱団の5つの団体から成り立っています。現在,学習院大学・学習院女子大学の学生総勢200名程の部員が,各団の定期演奏会や合同での音楽部定期演奏会を中心に幅広い活動を精力的に行っています」ということ。
インカレ団体ではなく,学習院の純正であるらしい。首都圏では純正の方が珍しいんでしょ。
● この楽団の演奏を聴くのは,これが二度目。2018年5月の管弦楽団第57回定期演奏会を聴いている。いたく感嘆し,この大学オケは追っかけるに値すると確信した。にも関わらず,3年半の空白ができてしまった。
第一にはコロナの影響だ。中止あるいは無観客での開催を余儀なされた。特に今年5月の管弦楽団第60回定期演奏会は,チケット代を払い込んだ翌日に無観客で開催するとの決定がなされ,何と間の悪いことかと臍を噛んだことであったよ。
● と,まぁ,そういうことなんだけども,今回の定演はすごいよ。何がすごいかといえば「第九」をやるのだ。
コロナに襲われた昨年はベートーヴェンの生誕250年。そちこちでベートーヴェンの楽曲が演奏されるはずだったろうし,ベートーヴェンにちなむ特別演奏会を企画していた楽団も少なくない数あったはずだろう。
が,コロナによって一網打尽,木っ端微塵にされてしまった。第九は特にそうだった。
ウェスタ川越 |
コロナと共存していくことになるのだとすると,第九の演奏時期もバラけていくんだろうか。
● その第九を聴くことができる。楽しみに出かけて行った。
開演は17時30分。今回は入場無料。曲目は次のとおり。指揮は和田一樹さん。
メンデルスゾーン 6つの歌
オッフェンバック 喜歌劇「天国と地獄」より “序曲”
ビゼー 歌劇「カルメン」組曲より “闘牛士” “前奏曲” “アラゴネーズ” “間奏曲” “ハバネラ” “ボヘミアの踊り”
ベートーヴェン 交響曲第9番 ニ短調
● 第九なんだから,そりゃぁね,小さな事故は起きますよ。細かいエラーというか。観客には気づかれないほどの微細なズレまで含めれば,けっこうあるでしょう。それは不可避というものだ。
だから,そんなものは気にならない。それよりも全体のトーンを決定するうねりの有り様,暴れるところでどれだけ暴れているか,個々の奏者が(ミスりそうで)怖いという気持ちをどこまで克服できているか,そうしたことが客席に届く音楽の外枠の大きさを決める。
枠だけあっても中身がないんじゃ仕方がないじゃないか,と言われるか。そうではない。枠があれば中身も必ずある。枠が大きければ中身もその分,密になる。そういうものだろう。
それでもここまで大きな枠を作れるのかと感じ入ることができるのが,若い大学生の演奏を聴く醍醐味だ(高校生ならなお一層)。
● 合唱団は約60人。ソリストは和田美菜子(ソプラノ),野田千恵子(メゾソプラノ),宮里直樹(テノール),奥秋大樹(バス)の各氏。合唱団は第2楽章が終わったところで入場し,ソリストは第4楽章を演奏中に入ってきた。
第九を聴くたびに思うのは,この曲の肝は第1楽章にある,第4楽章は管弦楽が歓喜のテーマを歌い上げたところで終わってもいいよなぁ,ということ。合唱は付かなくてもいいんじゃないかって。その方が余韻が残る。
しかし,そういうものではないんだねぇ。何を今さらって話だけれども。
● 昨年は第九の生演奏を聴けなかった分,CDはかなりの頻度で聴いた。昔はカラヤンの1979年の普門館でのライヴ録音を聴いてたんだけれども,今は同じカラヤンの1962年版を聴いている。
ピアノソナタや弦楽四重奏曲ならCDでほぼほぼ満足できる。生で聴くことへのこだわりはさほどにない。
けれども,管弦楽曲は生じゃないとっていうところが大きい。CDと生の落差がこちらの想像力では埋めがたいほどにある。毎年,年末に第九を聴くというコロナ以前の習慣は,それに染まっていたからかもしれないけれども,なかなかに合理的だったのかもしれないな。
● 満ち足りた。これだけの規模の第九を聴けると,もうコロナは過去のものになったという気分になる。
コロナに対する勝利宣言を出すには時期尚早かもしれないけれども,勝利宣言として最もふさわしいのはベートーヴェンのこの第九交響曲でありましょうねぇ。
うん,満ち足りた。今日はいい日だった。
● メンデルスゾーン「6つの歌」は合唱のみ。全員がマスクを付けていたのに驚いた。マスクを付けて歌うのか,と。1ヶ月後はどうなっているかわからないが,現時点では事実上のゼロコロナだよ,なのにマスクで歌うなんてほとんど漫画の世界だよ,とか思った。
ところが,実際に歌い始めると,声がくぐもることはないようだ。まったくないというわけではないのだとしても,声がちゃんと空気を切り裂いて客席まで届く。歌えるマスクというのが,そう言えばあったんだっけ。
● というようなことをチラチラ考えながら聴いてしまった。時間が過ぎていくことの儚さを歌っているのだろうか。が,詩の意味はわからなくても鑑賞の妨げにはならない。
美しい旋律と人間の声の響きの精妙さを味わえば,もうそれで充分以上と言っていいのだろうから。
● 終演後,すぐに席を立って会場を後にした。終演後のセレモニーに加わらなかったのは幾重にも申しわけないのだけれども,そうしないと今日中に家に帰れなくなる可能性があったのだ。この時間帯の川越線は1時間に3本。20:45発に乗らないと,最終の黒磯行きに間に合わない。
逆に言うと,それに乗れれば帰れるわけだ。もし都内で開催されていたとすると,新幹線で帰るか泊まるかしなければならなくなっていた可能性が高い(その場合は,泊まるの一択)。田舎から聴きに行くとはそういうことなのだよね。
0 件のコメント:
コメントを投稿