約2時間のコンサートが終了した直後の満足感は,他のものでは代替できません。この世に音楽というものが存在すること。演奏の才に恵まれた人たちが,時間と費用を惜しまずに技を磨いていること。その鍛錬の成果をぼくたちの前で惜しみなく披露してくれること。そうしたことが重なって,ぼくの2時間が存在します。ありがたい世の中に生きていると痛感します。 主には,ぼくの地元である栃木県で開催される,クラシック音楽コンサートの記録になります。
2010年5月31日月曜日
2010.05.25 間奏13:オーディオマニアにはなれない
● 世にオーディオマニアと呼ばれる人たちがいる。この世界は凝りだすとコストは青天井。家の2軒分や3軒分は覚悟しなければならない。そのことは知ってはいたけれども,先日,田中伊佐資『ぼくのオーディオ ジコマン開陳』(ブルース・インターアクションズ)を読んで,その凄まじさにたまげてしまった。
なるほどここまですれば,自宅でホールの音を再現することができるのだろう。しかし,常人にはできない相談だ。そんなことをするより,毎日でもライブに通った方がずっと安あがりというものだ(毎日となると,東京に住んでないといけないけど)。
● また,オーディオマニアはCDよりもレコードにこだわるものでもあるらしい。ぼくは(ぼくに限らずほとんどの人が同じだと思うが)完全にデジタル派だ。CDが出てからはレコードは眼中になくなったし,レコードの再生装置も処分してしまった(はるかな昔のことだ)。
今ではCDをパソコンに取りこんでいる。音楽はパソコンで聴くものになった。あるいはパソコンからケータイに転送して聴くものになった。すでに何度も書いているけれども,この利便性は抗いがたいほどに大きい。音楽を聴くためだけにパソコンを買う価値があると思っている。
● しかし,音をデジタル化してCDに保存することは,音の幾分かを捨てることでもある。正確なところはぼくの理解を超えるけれども,デジタル化ってのは音を時間軸で細かく区切って,その断面の音を0か1かに振り分けることなのだろう。時間は連続しているものだから,いかに細かく区切ろうとも,必ず漏れる部分がある道理だ。
それをパソコンに取りこむと,ここでまたデータが圧縮される。データ圧縮とは(またまた正確なところはわからないのだが)重要なデータとそうでないデータを区分して,重要でないデータを捨てることによってデータ量を小さくすることだ。当然,捨てられる部分が出ることになる。利便性と引換えに音を捨てている。
● そうしたものをいかに完璧なオーディオ設備で再生しようとも,そもそも捨てられた音があるわけだからね,ライブと同じ音になるのかどうか。
であれば,普段はCDプレーヤーなりパソコンで聴いている人は,いっそライブで丸ごとの音を聴く機会を作った方がいいのではないか。
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