2014年2月27日木曜日

2014.02.27 間奏39:なぜブログを書くのか?

● そもそもこんなブログをなぜ書いているのか。つまるところ,自己顕示欲を満足させたいということだろうな。
 ステージで演奏する人たちを応援したいっていう気持ちもあって,それに嘘はないと自分でも思いたいんだけれど,それが百パーセントだと言ってしまうと,きれい事になりすぎる。

● コンサートに行くことは,自分の数少ない趣味のひとつだから,そのログを残したい。しかし,それだけなら,ブログにして公開する必要はない。ノートにでも書いておくか,パソコンのハードディスクに溜めておけば,それでいい。

● 書くことには効果がある。書くのは文字に限らない。図でもイラストでもいいんだけれども,書くことを伴わないで考えることができるかどうか。
 したがって,書いた方がいい。でも,それだけならやはりブログに仕立てる必要はない。

● ブログは書きたい人が勝手に書いて,読みたい人が勝手に読む。それでいいのであって,コメントやトラックバックは余計な機能である。森博嗣さんの意見だ。そのとおりだと思う。
 内容がダメなら無視する。いちいち反論するほどの価値もないし,そんなことをしていられる暇人はそうそういない。
 炎上などというのは,ある程度の知名度があって,相当に読まれているブログで起こることであって,大半のブログには無縁のことがらだ。ぼくのこのブログもまた同じ。

● コメントは共感できた場合に書かれることが多いと思う。このブログにも時々,そうしたコメントをいただく。それはそれで嬉しいものだが,ややもすると仲良しクラブ的なところに行きがちだ。
 悪いわけではないが,なくてもいいものだ。なくてもいいものはない方がいい,かもしれない。どうもぼくは,ブログに個対個のコミュニケーションを求めてはいないようだ。

● しかし,そうであっても,自分の中で完結しているより,外にさらした方がいい。外にさらすこと自体に自分を緊張させる効果がある。その緊張が何ものかをもたらしてくれると思いたい(ここを徹底するなら,本名でやれってことになる)。
 大げさなもの言いになってしまうんだけど,自分も成長できるブログでありたい。公開の意味はここにある。たんに書いているだけだと自己満足に終わる。
 公開じたいがもたらす効果。が,今まではこの部分に無自覚であったかもしれない。

● なぜこんなことをわざわざ書いたかといえば,自分のブログを読み返してウンザリしたからだ。ノイズだらけのネットに,なんで自分もノイズを出すのか。
 ブログを書くのをやめるか。でなければ自分を納得させる理由をでっちあげるか。とりあえず,後者の方向を採りましたよ,ということ。

2014年2月14日金曜日

2014.02.14 間奏38:バレンタインデーに反省した。なんでオレにはチョコが来ないんだろう,ってことではなく。

● このブログの文章に力が入らなくっている。ちょっとダレてきているような気がしている。テクニック(というほどのものでもないか)だけでまとめるようになっている。感動とか楽しさとかがこもらなくなっている。
 稚拙でもいいから感動を盛りこめていないと,そもそもが読むに値しないものになる。たんに稚拙なだけでは困る。というようなことを,最近,自分で自分に感じている。

● どうしてかっていうと,コンサートじたいに狎れてしまって,演奏に感動できなくなっているからかもしれない。耳が肥えてきて並みの演奏じゃ満足できなくなった,っていうのとはちょっと違う。全然そういうことではない。
 普通にいうと中だるみってことなんだと思う。演奏会に行きすぎている。少なくとも,自分のキャパを超えている。なので,今月はコンサートから離れてみることにしようと思う(あと半月しか残ってないけど)。

● 音楽を聴きたいっていう渇望のようなものを,もう少し溜めないといけない。惰性(あるいは慣性の法則)で聴きに行っちゃってるところがある。
 もともと地元限定でって思ってたのに,ちょっとエリアを広げすぎたようでもある。

● 洗練を極めた演奏を生で聴きたいとは思っていない。たぶん,洗練を洗練と感じとれる耳をぼくは持っていない。
 いや,機会があればそういうものも聴きたいけれども,ライヴに求めるのは一生懸命さってやつで,できたらそれにインスパイアされたい,って思ってるんでしょうね。ライヴに足を運ぶ第一の理由はそれだ。演奏が巧いかどうかじゃない。プロかアマかなんて,それ自体はどうでもいいと思っている。

● インスパイアされたままなんてことはあり得ない。すぐ元に戻る。つまりは一時的なことなんだけど,その一時的なるものが生きていく道標になるっていうかね。
 メシ喰ったって,どうせまた腹減るだろ,だったら喰わなくていいじゃん,ってことには(当然だけど)なるはずがない。
 ただ,こちらがインスパイアされ得る状態でなければならない。自分はその状態にないことを感じる。ここを建て直さないといけないなぁ,と。

2014年2月11日火曜日

2014.02.11 D@E管弦楽団第5回演奏会

品川区立総合区民会館きゅりあん 大ホール

● 8日の雪のあとは,何だか急に春になったような暖かさ。20年ぶりの大雪も翌日,あらかた溶けた。
 けど,今日は寒さが戻った感じ。一気に春とはいきませんね。

● 今日も出立に手間取り,乗ろうとしていた電車に寸でのところで間に合わず。次の電車は信号機の故障で立ち往生したらしく,だいぶ遅れてきた。
 開演までに到着できるかどうか。が,今回は強行。結果,開演10分前に着席。会場が大井町駅の目の前だったのが幸いした。っていうか,それがわかっていたのが強行できた理由のひとつですな。
 どうも8日以来,チグハグが続いていたような気がしてたんだけど,これでスッキリ。

● D@E管弦楽団の演奏会は昨年9月の第4回に続いて二度目。裏を返すのは最低限の礼儀だと思う。でも,それがなかなかできなかったりする。
 やっぱり,ひとりで東京まで出て行くのはね,諸々の調整(?)が必要になる。ぼくなんかは,要調整事項はだいぶ少ない方だとは思うんだけど。

● チケットは1,000円なんだけど,電車賃が4,000円。なもんだから,5,000円分のもとを取んなきゃなとか思っちゃうわけですよ。セコいったらありゃしない。
 でもさ,演奏会に行くときって,ついでの用事とかないですからね。百パーセント,そのためだけに行くんですから。帰りに銀座によって伊東屋を覗いてみようとか,恵比寿でビールを飲んでいこうとか,秋葉原のヨドバシで最新型のスマホをチェックしようとか,そういうことしませんから。

● ウダウダと見苦しいですな。
 ときどき,東京には出たくなる。そういうことはある。何をしたいわけじゃない。何が起こるわけでもない。何か知んないけど,東京の魅力ってあるんですねぇ。
 大井町駅にはりんかい線で着いたんだけど,エスカレーターを三度乗り継いで地上に出て,次はビルの8階にあるホールまでエレベーターであがる。都市に住むってのは,上下に移動することと見つけたり。って,あたりまえですか。

● ともあれ。開演は午後2時。当日券を購入。
 まずは,アルヴェーンのスウェーデン狂詩曲第1番「夏至の徹夜祭」。プログラムの曲目解説によると,夏至祭の活気を描いた作品。CDでも聴いたことがない。今回が初めて。
 華やいだ感じはそうなんだけど,ぼくがイメージしたのは,大衆のお祭りというよりは,貴族的な格調の高さとでもいうもの。
 ホルンが重要なパートになっているようで,そのホルンが安定していましたね。

● 次はシベリウスの第7番。これも生では初めて聴くものだ。
 何だか雑念が次から次へとわいてきてね。わざわざ東京まで来たのに何でこうなるのかと,われながら思うんですけどね。
 結局,曲についていけなかったのかと思う。CDはあるので,ともかく聴く回数を増やさないといけないでしょう。

● メインはブラームスの2番。
 以前は,ブラームスがわからなかった。唯一聴けるのはハンガリー舞曲だけ,っていう時期がけっこう長かった。吃水線のうえに頭が出たかなと思えるようになったのは,最近のこと。
 ブラームスって重厚なイメージがあるんだけど,この2番はノリノリな感じ。軽やか。幸せのお裾分け。

● 佐々木新平さんの指揮が小気味よかった。身体能力というか反射神経というか,そうしたものが重要なのでしょうね。スポーツで求められるものとは違うのかもしれないけど。
 楽団は堅実という印象。地道に真面目に着実にっていう。奇をてらったり派手さを演出したりはしなさそう。水準は立派なものだと思える。
 次回は8月23日。ちょっと楽しみなプログラム。都合をつけたいものだ。

2014年2月9日日曜日

2014.02.09 間奏37:雪やら家の用事やら

● 8日は予報どおりに雪。だいぶ積もった。大人にとってはまったく嬉しくないけれど,子供の頃はけっこうワクワクした。
 今の子供たちは,この雪とどう戯れているんだろうか。戯れることのできる場所も,一緒に戯れる相手も,ひょっとしたらいないのかなぁ。

● ともあれ。8日は東京に出るつもりでいた。聴きたい演奏会があったので。奥さまから仰せつかった用事をすませて,出かけましたよ。
 雪といったって,駅まで行けば,あとはJRがよきに計らってくれる。車内は暖房が効いているんだし,たぶん普段より空いているだろうから,座って好きな本を読むか,イヤホンで音楽を聴いているうちに,上野に着く。運行の遅延くらい,たいしたことはない。

● で,宇都宮までは行ったんですけど,そこから先がね。遅延の累計が読みづらいというか,1時間ほどの余裕は見ていたんだけど,さて,開演に間に合うか。
 ちょっと不安になって,結局,名誉ある撤退(?)を選択。うぅーん,どうだったか。

● 1日あけて今日。さらに積もっていた。でも快晴。
 今日は地元の演奏会に行くつもりでいた。昨年も那須野が原ハーモニーホールのニューイヤーコンサートに行こうとしたところが,やはり雪で,途中駅で電車が立ち往生。引き返すことになった。
 ともあれ,早めにと思って,開演3時間前には家を出ようかななんぞと考えてました。普段なら車で40分もあれば着くと思うんだけど。

● したらば。17歳のムスコがちょっとご同行願いたいところがあると言いだした。
 おい,今日のその時間帯じゃなきゃダメなのかよ。ずらせないのかよ。
 しかし,ま,彼をさしおいて自分の趣味を優先させてしまっては,父親としてどうなのよとも思うし,ここは彼のリクエストを優先することにしましたよ。

● でもねぇ,どこに同行すればいいのかっていうと,美容外科なんですよ。まぶたを二重にしたいとか,鼻を高くしたいとか。
 自分に与えられたもので勝負しろよ,その覚悟もできてないんじゃ,男としてスタートラインにも立てていねーじゃねーかよ,って言いたいんですけどねぇ。
 どうも女の子にもてたい,ちやほやされたいってことらしいんだけど,整形にうつつを抜かしているようなヤツは,洟も引っかけてもらえませんよねぇ。相手にされないでしょ。女をなめてんのか,おまえ,って話でしょ。

● どうもこの辺がわかっていない。極端な近視眼。言っても通じる気配がない。何かいい方法はありませんかねぇ。
 それとも,ぼくの感覚が古いんでしょうか。

2014年2月6日木曜日

2014.02.06 間奏36:佐村河内守さん

● こういうことがあって,まず思うことは,人の感動欲望の強さだ。
 人は感動したい生きもので,感動したい,感動したい,と感動のネタを始終探して生きているのだと思う。意識的にか無意識的にか。それらしきものを見つけると,簡単に転んでしまうものなのだろう。

● 彼の経歴を見れば,ここまでのスーパーマンなどいるはずがない,と普通は思う。けれども,いるかもしれない,いてほしい,と思いたくなるのが,ぼくらにビルトインされた性癖なのだろう。
 この性癖は相当以上に強固なもので,仮にそれを抑制する仕組みを作ったとしても,できた瞬間から形骸化を余儀なくされるに違いない。

● こうした経緯と,できあがった音楽そのものは別。音楽はそれそのものによって評価されるべきだ。それはそのとおりだけれども,それが言うほど簡単ではない。
 学者,評論家,指揮者,演奏家で「HIROSHIMA」を絶賛した人がいた。評論家は間違うのが商売だから,彼らの言はそういうものとして聞いておくべきだし,彼らの書いたものはそういうものとして読んでおくべきだけれども,作られた物語に影響されずに,音楽そのものを評価した結果か。

● 酷評した人もいる。只今現在は,酷評した人が正しかったということになりがちだ(たいてい,酷評しておけば,非難は避けられるものだ)。
 でも,こういうのって食べものの好みと同じで,好きな人にも嫌いな人にも,それぞれ正義がある。好みが直接ぶつかりあえば,神々の争いになる。つまり,収拾がつかない。

● それ以前に,今回の事件を総括することすら,おそらくできないだろう。
 熱さはあっという間に喉元を過ぎていく。誰にとっても,自分の子供を殺されたという話ではない。話題としての賞味期限はすぐそこだ。これで何が変わるかといえば,たぶん,何も変わらない。
 学ばないのが(もちろん,ぼくを含めて)人間というものだ。斜に構えすぎかもしれないけれども,学ぶのがいいとも限らないし,学びようがないこともある。

● ちなみに,おまえはどうなのだと言われれば,「HIROSHIMA」はCDで一度聴いたけれども,最後まで聴き通すのに少々の忍耐を要した。あまりピンと来なかった。
 たぶん,多数派のひとりだと思う。安直な言い方になってしまうけれども。
 ただし,ショスタコーヴィチの第7番も最後まで聴くには,やはり忍耐を要したので,つまりはその程度の聴き手だってこと。

● NHKの放送がなければここまで売れることもなく,彼もゴーストライター氏も静かにひっそりと生きることができたかもしれない(できなかったか)。自らの経歴を飾ることもしなくてすんだかもしれない。
 テレビの影響力ってすごいね。ネットじゃとてもここまでの撹拌力はないでしょ。テレビは人を踊らせる。右にも左にも。
 ぼくも踊らされたことがけっこうあるな。すごいねって言ってるだけじゃしょうがないんだけどね。

2014年2月3日月曜日

2014.02.02 ライナー・ホーネック ヴァイオリンリサイタル

栃木県総合文化センター サブホール

● こういう演奏を自分に聴かせることと,馬に念仏を聞かせることとは,何がどう違うのだろう。聴くたびに思うことだ。
 演奏の高みを自分がそれと認識できているかどうか,われながら疑問だ。

● ここまで来ると,微差が大差の世界なんだと思うんだけども,その微差がわからない。わからないものはわからないのだから仕方がない。
 では,その微差を作るものは何なのか。才能だと言ってしまえばそれまでなんだけれども,才能っていうのは分子のようなもので,それを原子,さらにその先の素粒子レベルまで分解できそうな気がするんだけどね。

● 開演は午後3時。チケットは3,000円。プログラムは次のとおり。
 モーツァルト ヴァイオリン・ソナタ第34番 変ロ長調
 ドビュッシー ヴァイオリン・ソナタ ト短調
 ウェーベルン ヴァイオリンとピアノのための4つの小品
 R.シュトラウス ヴァイオリン・ソナタ 変ホ長調
 (アンコール)
 クライスラー スラブ幻想曲,ロンディーノ,美しきロスマリン

● モーツァルトと戯れているような感じ。曲の世界を体化しているっていうか。跳んだり,スキップしたり,あるいはちょっとおすまししたり,っていう。それを活き活きと表現して,しかも表現しすぎていない。企みを感じさせない。自然。
 第1楽章が終わったところで,場内に拍手がわいた。これ,ルール違反ですよってことになるんだろうけど,拍手したくなるような終わり方だもんね。許してほしいよなぁ。

● ドビュッシーを聴いているときは,海の底にいるような気がした。ちょっとシリアス。深い青を感じさせた。
 ウェーベルンのこの作品は,ヴァイオリンのかそけき,客席に届くかどうかギリギリの(しかし,きちんと届いている),空気の振るわせ方が特徴ですか。ぼくは超絶技巧と呼びたいけれども,弾いてる方は,ま,この程度はね,ってことかもしれないね。
 かすかな音は,いやおうなく観客をステージに集中させる。客席のテンションを高めますね。

● R.シュトラウスは,むしろ村田千佳さんのピアノを聴くための曲だった。力強い動作で,しかもセクシー。力強さとセクシーさって,女性においても両立するんだね。

● アンコールの3曲を聴き,ゆっくりと会場をあとにした。ほかのお客さんが出てから,ゆらゆらと立ちあがって。
 こういうときはすこぶる満足したということを体が表している。皆さん,そうなんじゃないかと思うんですけどね。ちょっと立ち去りがたい気分っていうか。

● こうした演奏を聴くと,ヴァイオリン曲を集中的に聴いてみようかなと思うんだけどね。ピアノのリサイタルを聴くと,ピアノ曲も聴かなきゃと思い,弦楽四重奏を聴くと,これも聴かないとって思うのが常。
 なんだけど,なかなかねぇ。小規模の演奏は鑑賞のハードルが高いような気がしてて,敷居が高いなと思ってしまってる。自分に残された時間はそんなに長くはないと思うので,いつまでもたたずんでいるわけにはいかないんだけど。