ミューザ川崎 シンフォニーホール
● 上野東京ラインができて,川崎はかなり近くなった。宇都宮から乗り換えなしで行けるようになった。横浜は湘南新宿ラインで昔から乗り換えなしで行けたんだけど,川崎からは外れてしまいますからね。
昨日は小金井に行ったんだけど,小金井より川崎のほうがずっと近い。時間的にもそうだし,心理的にはもっとそうだ。乗り換えなしっていうのは大きい。
● この楽団のサイトには「京浜地区の日立製作所および関連会社の社員,家族,知人を中心にして作られたオーケストラ」だとある。
いわゆる企業オケってことになるんだろうけど,企業オケってそんなに多くないんでしょ。栃木県にはひとつもないね。
今まで聴いたことがあるのは,JR東日本交響楽団,NSシンフォニー・オーケストラ,マイクロソフト管弦楽団(今はマイクロソフトから離れて,楽団名も変わっている)の3つにとどまる。
● 日々の仕事は大変だろうに(そうでもないのか),仕事の合間に練習して本番もこなすっていうのは,相当なものだろうと思う。
多くのものを犠牲にしているのだろう。ここのところは敬意を表されて然るべきだ。
● 仕事を離れたときに,自分の時間とお金を何に費やすか。彼らのように演奏活動に費やす人もいれば,旅行に使う人もいるだろう。ディズニーランドに入れあげている人もいれば,時代小説を読むことに充てる人もいるだろう。何かのスポーツをやっている人もいれば,盆栽や蕎麦打ちに打ち込んでいる人もいるだろう。
ぼくは演奏を聴くことにうつつを抜かしているわけだ。
● これらはすべて同列にあるものだと思う。音楽や美術やスポーツにはそれを講じる音大や美大や体育大学があるが,ディズニーランドでの遊び方や蕎麦打ちのやり方を教えている大学はない。
だから,音楽や美術が格が上なんてことにはならない。そんなことがあってたまるかとぼくは思っている。
人生はしょせんムダの積み重ねに過ぎない。ムダという点では,ひとしなみにみな同じだ。
● 問題は,どれだけうつつを抜かせるか,その一点にある。仕事にうつつを抜かすのでもよい。どこまでうつつを抜かせるかが,その人のキャパだといってもいい。
で,ごく一般的にいうと,こうした演奏活動にはまっている(?)人たちのほうが,ディズニーランドで遊んでいる人たちより,うつつを抜かしている度合が徹底しているように思われる。
そこが敬意を表されて然るべきだと考える所以だ。
● ぼく一個を顧みれば,うつつを抜かす度合がまだまだ浅い。といって,演奏を聴きに行く回数を増やせばいいというものでもない。
2013年にそれを試みたことがあったけれども,今以上に増やしてしまうと,聴き方がどうしても雑になるのだった。
つまり,それが現在の自分のキャパなのだろう。
● さて。開演は午後2時。チケットは2,000円(前売券は1,500円)。当日券で入場した。
曲目は次のとおり。指揮は新田ユリさん。
ニールセン ヘリオス序曲
シベリウス ヴァイオリン協奏曲 ニ短調
バルトーク 管弦楽のための協奏曲
● 「ヘリオス序曲」はCDを含めても初めて聴く曲だ。このあたりにもうつつを抜かす度合の浅さが現れていますな。
チェロとコントラバスで静かに始まって,最後もチェロが静かに終わりを告げる。途中,二度の盛りあがりはあるんだけど,総体として静かな曲という印象。
● シベリウスのヴァイオリン協奏曲。ソリストは毛利文香さん。もう日本を代表するヴァイオリン奏者になっているんですか。
ミューザのシンフォニーホールを埋めたお客さんの視線が自分に集中するなか,泰然自若。弾きっぷりも王者の貫禄というか。
ぼくは協奏曲はソリストよりもバックの管弦楽で決まると思っているんだけど,シベリウスのこの曲はソリスト依存度が高いようだ。ソリストの独奏が長く続く。
そうなると,壇上にいるのは毛利文香ただ一人といった観を呈することになる。見事な存在感。
● じつは,2012年の7月に一度,彼女の演奏を聴いている。当時の彼女は高校生。
それがこの3年の間に,すっかり凛々しい淑女になってしまうんだからな。この時期の若者の変化というのは,まさに刮目して待つべしだと思う。外見にとどまらないのだろう。中身も,たぶん。
● そのときは,中学生で日本音楽コンクールで第1位になった山根一仁さんも出ていて,彼の演奏に圧倒されてしまって,他に目が届かなかった記憶がある。
とはいえ,そのときも彼女の演奏は光っていて,「技術においても,表現においても,ここまでの水準に到達していると,この先どうやって伸びていけばいいのか,ぼくには見当もつかない」と思った。到達点に達した状態じゃないかって。今思えば,当時の彼女は伸び盛りだったのか。
● ところで,彼女,高校は普通科だったし,現在は慶応文学部の学生だ。あえて音楽科は避けたんだろうか。高校生のときは,桐朋のソリストディプロマコースにも属していて,いわゆるダブルスクールだったようなのだが。
考えがあったんでしょうね。
● 休憩で場内の興奮が冷めてから,バルトーク「管弦楽のための協奏曲」。こういう曲に形をつけて客席に差しだせるっていうのは,やはりたいした実力なのだろう。
ミューザは日本を代表するホールのひとつだと思うんだけど,ホールに負けてる感はまったくなかったし。
● この曲,すでに何度か聴く機会を得ているんだけども,最初は何がなんだかわからなかった。
が,その都度,プログラムノートの曲目解説を読み,何度か聴くうちに,どうにかこうにか自分なりのイメージを持てるところまで来たかもしれないっていう手応えのようなものを感じることができた。
次に聴くときには,その手応えは雲散霧消しているかもしれないけれど。
小金井 宮地楽器ホール 大ホール
● 最寄駅は武蔵小金井になる。ちょうど,宇都宮から湘南新宿ラインが出るところだったので,それに乗れば新宿で中央線に乗り換えればいい。
のだけど。あえてこれを見送って,次の上野東京ラインの電車に乗った。東京で乗り換え。なぜ,そんなことをしたのかといえば,新宿で乗り換えるのがイヤだったから。
まったく,新宿駅というのは田舎者には鬼門であって,あそこで乗り換えなきゃいけないというのは,けっこう心理的負担になる。わかりづらいもんね。ぼく,新宿駅構内で迷子になったこともある。
● ともかく無事に到着。武蔵小金井には20年前に何度かまとめて来たことがあった。久しぶりだ。が,天気のせいか駅前はけっこう閑散とした印象。こんな感じでしたっけ。
会場は小金井市民交流センターといった。宮地楽器が“命名権”を取得して,現在の名前になったらしい。音響的にはかなり考えて作られているホールだ。いいホールだと思った。
開演は午後1時半。チケットは1,000円。
● ところで。この楽団の演奏を聴くのは初めてだ。「Freude」にも告知されていないから,ぼくはその存在も知らないでいた。
先週,「マーラー祝祭オーケストラ」の演奏会で今回のチラシをもらった。それが今日聴きに来た理由を作った。
● 曲目は次のとおり。指揮は楽団創設者の浅野亮介さん。
山本和智 Roaming liquid (2014) for shakuhachi and orchestra
マーラー 交響曲第5番
● 山本さんの曲はEnsemble Freeの委嘱作品。当然にして世界初演。こういう曲って,初演だけで二度目はないというのが珍しくないんだろうけど,この作品は二度目までは必ずある。Ensemble Freeは関西にまずできて,しばらくあとに東京にEastを創設したようだ。このあと,関西でも演奏される。
尺八は黒田鈴尊さん。
● 作曲者の山本さんがプログラムノートに次のように書いている。つまり,襟を正して聴かなくてはならない。
今回のお話を頂き,私は嬉しさのあまり夢中で作曲をしたため,1ヶ月経たぬうちにこの作品を書き上げてしまいました。例えば「寝ても覚めても」という言葉が比喩ではなく,本当に夢の中で曲を書いてしまい,目が覚めて慌ててメモを執るとか,日常生活の中でも次々に沸き上がるイメージがこぼれそうになるため,自分の腕やレシートのような,たまたま持ち合わせた紙切れにびっしり書きつけるとか。
● マーラーの5番。マーラーに関しては,5番は比較的わかりやすいというか,マーラー的破天荒さが少ないから,比較的受け取りやすいのだろうと思っている。
といっても,起伏は大きく,しかも突然に変転する。気を抜けない。演奏する側は尚更だろう。こういう曲を破綻なくという範疇を超えて,終曲まで持っていくのはまぁ大したものだと思うほかはない。
● このあと,バーンスタイン+ウィーン・フィルの演奏をCDで聴いてみたんだけど,当然ながら,届いてくる情報量が圧倒的に違う。
音楽を「聴く」のに視覚は大きく寄与している。そのことを実感させられる。もっとも,聴き手も達人になれば,聴覚で視覚を補うことができるのかもしれないけどね。
● 東京でこういうアマオケの演奏を聴く度に思うことを,今回も思った。東京ってどれだけ層が厚いんだ。このレベルで演奏できる楽団がいったいどれくらいあるんだろう。
ぼくが知っているだけでも・・・・・・やめよう,呆れてしまうほどだ。
● 栃木から東京に2時間の演奏会を聴きに行くって,やっぱり一日仕事になってしまう。新幹線を使えば違うんだろうけど,在来線だとね(ま,ぼくは電車に乗っているのが嫌いじゃないからいいんだけども)。
が,たとえそうだとしても,東京を無視することはやっぱりできないでしょうねぇ。
杉並公会堂 大ホール
● 合奏団ZEROの演奏を初めて聴いたのは3年前のこの時期。以来,年に2回ある定演の1回は聴いている。今回が4回目。
開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入。
● 腕のほどはすでに知っている。この演奏を1,000円で聴けるというのは,日本に生まれた恩恵のひとつだ。っていうか,この分野でも東京集中がくっきりしているわけだから,東京に日帰りできる距離に住居があることの恩恵か。
あと,“青春18きっぷ”が使えることもね。
● 指揮者はいつもの松岡究さん。プログラムは次のとおり。
ワーグナー 歌劇「ローエングリン」より第一幕への前奏曲
ブルックナー 交響曲第8番(ノヴァーク版第2稿)
● 「ローエングリン」第一幕への前奏曲,ヴァイオリンの高くかそけき響きから始まって,チェロ,コントラバス,木管が加わり,管弦楽全体に広がっていく。その都度,音が厚くなって,こちらを陶酔に誘う。オーケストレーションの妙。
短い曲だけれども(短いからこそ),音楽を聴く楽しさというものをわかりやすく味わえる。
● ブルックナーの8番。ブルックナーの聴き方のコツってあるんですかね。物語に寄りかかれないわけですよね。
ベートーヴェンの5番や9番だったら,苦悩を経て歓喜に到れ,っていうストーリーに寄りかかれる。6番だったらヨーロッパの田舎の風景が彷彿としてくるから,そのイメージに遊んでいればいい。
が,ブルックナーはそうはいかないようで。
● この楽団にしても,終演後は達成感に包まれたように思われた。80分に及ぶ大曲に加えて,相当に難易度が高い(ように思われる)。
ひょっとすると,演奏する側だって,拠りどころが楽譜しかないっていうのは不安なんじゃなかろうか。解釈のよすがが欲しいのではないか。指揮者が指示してくるであろうアレやコレがどうしてそうであるべきなのか,そこのところがモヤッとしててじれったくなることはないんだろうか。
● 最初の弦のトレモロ。原始の霧と呼ばれたりするらしんだけど,ぼくのレベルだと,混沌から何かが生まれてくるんだなというイメージはあるものの,その先に行けない。
そもそも,ブルックナーって,イメージを絡ませて聴いてはいけないんだろうか。要するに,聴く側にとっても難解だ。
● しかしながら。この曲が燦然としているということだけはわかる。わかるっていうか,そう感じる。それを芸術性と言ってしまってはいけないように思う。どうにでも掻き回せる安直な言葉ではない,別の言葉で表現する努力をしないといけない。
が,当然,ぼくの脳内にはその言葉がない。
● とにかく,相手がブルックナーだ。圧倒的に馴染みがない。これで何をどうやって書くというのだ?
知識が欲しくなる。ブルックナーを扱った書籍を読んで,ササッと納得したくなる。が,安直に知識を持ち,それに頼って聴くのもつまらない。格好悪くても,しばらくジタバタしたほうがいいんだろうな。
● こうして東京に出てきて,音楽を聴いて帰る。栃木から東京に出て,ピンポイントで音楽だけ聴いて,終わったらまっすぐ帰宅する。
それ以外に東京でお金を使うことがない。せいぜい「富士そば」やコンビニに寄るくらいだなぁ。あ,ときどき,本を買って帰ることはあるか。
東京にしてみれば,しみったれたヤツだな,おまえは,ってことだ。
● でも,ライヴを聴きにくると,それ以外のことはする気にならないものでね。それ以外のことをするんだったら,ライヴなしで,そのことのために上京しないとダメなんだよねぇ。
ミューザ川崎 シンフォニーホール
● 開演は午後3時半。チケットはAとBの2種。つまり,座席は指定される。当日券を購入。A席で2,500円。
● この楽団,2001年からマーラーの全交響曲の連続演奏を行ってきたらしい。次回で完結。ぼくが聴くのは今回が初めて。
曲目は次のとおり。
ハチャトゥリアン ピアノ協奏曲変ニ長調
マーラー 交響曲「大地の歌」
● 指揮は井上喜惟さん。この人がこの楽団を立ちあげたようだ。音楽監督を務める。こういう情熱家というか活動家がいて,ぼくのようにわざわざ栃木から聴きに行く人がいて。
って,彼とぼくを同列に並べてはいけないのだが,コンサートが成立するには3つの条件が整わないといけないと何かで読んだのを思いだしたもので。
ひとつには聴衆の存在。あとの二つは,大ホールと印刷術(楽譜の印刷)。ぼくのような者でも,サハラ砂漠の一粒の砂程度には,音楽に寄与しているのかなと思った。
● まず,ハチャトゥリアンのピアノ協奏曲。CDを含めても初めて聴いた。ピアノはカレン・ハコビヤン。アルメニア生まれのアメリカ人とのこと。
生命力にあふれた感じ。生物としての強さが礼儀正しさに包まれているっていうか。ぼくなんかがうっかり近づくとはじき飛ばされそうだ。
● オーケストラはアマチュアということになっているけれども,普通にアマチュアという言葉から想像するところのものと同一視してはいけない。アマチュアといってもいろいろあるんだなということ。
というかねぇ,これほどの人たちがこうして演奏しているのと見てると,自分が生まれ育ったこの日本という国の底知れなさというか,層の厚さというか,そういったものをゾゾッとするほど感じる。
● 「大地の歌」はCDでは何度か聴いている。とりとめがないという印象をもってしまっていた。
● そう思ってしまう理由のひとつは,この曲が交響曲という枠組みには収まらないからだろう。交響曲とは4楽章で構成されている器楽曲という,こちらのプリミティブな思いこみからはみ出る部分があまりに大きいからだ。
6楽章で構成されているってことになるんだろうけど,この曲においては楽章という概念を維持することに意味があるのかとも思われる。この塊は楽章と呼んでいいものなのか,っていう。
● 蔵野蘭子さん(アルト)と今尾滋(テノール)の独唱は,どう考えればいいんだろう。独唱とオケは競うこともあれば,オケが退くこともある。これはカンタータなのか。
というわけで,いろんな要素の集合体で,そういうものに慣れていない自分には,とりとめがないなぁと思えてしまうのだろう。
● Wikipediaには「この曲から聴き取れる東洋的な無常観,厭世観,別離の気分は,つづく交響曲第9番とともに,マーラーの生涯や人間像を,決定的に印象づけるものとなっている」とあるんだけども,ぼくはこの曲から「東洋的な無常観,厭世観,別離の気分」を感じることがないんですよ。
● 独唱の歌詞(李白の詩)の和訳はプログラムノートに載っている。そこにはそういう意味のことが書かれている。中国風のメロディーが奏されるところもたしかにある。
けれども,この曲から無常観や厭世観を感知することが,ぼくにはできない。
● その印象は生で聴いても変わらなかった。この曲がしっくりと馴染むようにするには,ぼくは何をすればいいのだろうなぁと思いながら聴いていた。
ハコビヤン氏も客席で聴いていた。聴いている彼の姿もなんだか良くてね。ときどき,ステージから視線を彼のほうに移したりしてたんですけどね。
● 中学生と思われる(小学生の高学年だったかもしれない)男の子がふたりで聴きに来ていた。最後まで行儀良く聴いていた。マーラーはこういう男の子まで呼ぶのか。
たぶん,彼らのほうが素直にマーラーに溶けこめるのだろうな。にしてもですよ,中学生がこういうコンサートに来れる国って,日本以外にどれだけあるのかね。
● 音楽は主にCDをリッピングしたものをスマホで聴いている。それ以外の方法で聴くことはまずない。だから,歩きながら,電車に乗っているとき,というのがぼくが音楽を聴く場ということになる。
環境としてはきわめて悪い。でも,メインはホールで生を聴くことだと思っているので,生を補う聴き方としてはまぁ仕方がないかと思ってもいる。
● 音楽が好きなら,それなりのオーディオ設備を整えて,部屋で静かに聴く時間くらい作れよ,それをしないってのは,おまえ,本当に音楽が好きなのか,と言われそうだけれども,そう言われてしまうと返す言葉とてない。
たしかにそうかもなぁと自分でも思いますからね。
● でも普通に仕事を持って配偶者と同居しているとなると,そういう時間って持てるものなのかなぁ。許してくれますか,配偶者が。許してくれるとしてもビクビク・オドオドしてしまうのが正常な人間というものではないですか。
結果的に,オーディオなんてめったに使わないことになる。となれば,いよいよ配偶者から要らないでしょと言われる。
という図式が浮かんできてしまう。
● でも,ここでの問題はそういうことではない。ぼくはたとえ許されても,音楽を聴くのはスマホで充分だと思っているので。そのための環境はわりと気を入れて作ってきたつもりだ。
問題は,スマホで聴くということが絶えてなくなってしまったことだ。
前にも同じことがあったんだけど,どうにか持ち直した。今回は,ライヴ以外はまったく聴いていないという状態が2ヶ月は続いているだろうか。
音楽に飽いているんだろうか。前のときは何とかしなきゃと思っていたんだけど,今回はその何とかしなきゃっていう気持ちも薄いようだ。
● ひとつの理由は,音楽よりも気が行っちゃう対象ができたことだ。つまり,自転車なんだけど,今までは自転車に入れこむ度合が音楽を聴くことを阻害するレベルに達することはなかった。
が,目下のところ,自転車にけっこう関心が奪われている。人間の興味の総量は一定で,どれかが膨らめばどれかがへこむということか。
● キャパを増やすことはできないものか。音楽も自転車も思うさま楽しめるようにはなれないか。
一気に鮮やかに変える方法論があるとは思えない。「小さなことからコツコツと」ってことでしょうね。
短い時間でも意識して聴くように努める。そこから始めるしかないでしょうね。
● 普段,CDを聴いていないと,生を聴いても反応が鈍るというか,ライブから引きだせる楽しみの質量が減るような気がしている。
聴くという構えに隙ができるのだろう。いつもはまったく構えていないわけだから,ライヴを聴くときに急に構えを作れと言われても,スッとは構えられなくなっている。そんな気がする。
● ライヴを聴くのでなければ聴いたことにならないとまでは思っていないが,やっぱり中心はライヴだ。
で,そのライヴを実りあるものにするためにバックグラウンドを整えなければならない。音楽本や雑誌を読むのもそのひとつかもしれないけれども,ともかく聴くことだ。
その点においては,CDもあふれていて,ネットに音源がいくらでも転がっているようになった今は,整えやすい環境にある。
と,自分に言い聞かせて,事態を改善していこうと思うんですけどねぇ。
栃木県総合文化センター サブホール
● ピアノ三重奏曲の演奏会。Auras trioのメンバーは,桑生美千佳さん(ピアノ),佐久間聡一さん(ヴァイオリン),玉川克さん(チェロ)。
開演は午後2時。チケットは3,000円。当日券を購入。
● 曲目は次のとおり。
モーツァルト ピアノ三重奏曲 K.564
ショスタコーヴィチ ピアノ三重奏曲第2番
メンデルスゾーン ピアノ三重奏曲第1番
● このメンバーの演奏でこの曲を聴いて,何もこちらに響いてこなかったら,非は全面的にこちらにあることになるだろう。
ステージから届く音の連続を聴きながら,こちらは勝手に遊べばよい。
● で,ショスタコーヴィチを聴きながら,ぼくの頭に浮かんできたのは次のようなイメージだった。
第1楽章では月世界でウサギたちが運動会のようなお祭りに興じている。なにやら楽しそうにやっている。第2楽章で別の大型獣が登場する。が,ウサギたちに悪さをしかけるわけではない。ただ,不穏な空気は漂っている。
第3楽章はウサギたちの運命を予告するような葬送曲になる。第4楽章でその予告が現実になってしまった。
● というね。われながらお粗末な一席だと思うけれども,こういうのは聴き手の力量がそのまま出るからね。仕方がないんでしょうな(でも,もう少し何とかならんかね)。
● メンデルスゾーンの曲は,質量がぎゅっと圧縮されて詰まっている感じ。これを演奏という形にして聴衆に届ける作業は,手練れの彼らにしてもけっこう消耗するのではないか。
下手がやると曲の圧に吹っ飛ばされそうだ。
● アンコールはエルガーの「愛の挨拶」。最後は穏やかに。
● この日のメインホールではAKB48のコンサートがあった。何だこの人出はと思った。60歳を過ぎていると思われる(70歳に近いかもしれない)オッサンがひとりで来てたりする。これならぼくがひとりで行っても,まったく違和感がないな。
でも,彼も立ちあがって両手を上にあげて身体を揺らすんだろうか。自分にそれができるか。できなそうな気がする。そういう自分をつまらないヤツだと思うけれどもねぇ。
宇都宮市文化会館 大ホール
● 東大オケのサマーコンサートを聴くのは,今回が5回目になる。つくばで2回,大宮で1回,東京で1回。
毎年,全国5つの都市で開催するようなのだが,今回は4都市。その中のひとつが宇都宮。宇都宮でやるのは15年ぶりになるらしい。
● この楽団の演奏を地元で聴けるのなら,行かない手はない。早くにチケット(1,000円)は買っておいた。
開演は午後6時半。長蛇の列ができるだろうから,早めに並んでおこうと思って,そのようにした。
● が,意外にそうでもなかったのだった。けっこう空席があった。東大オケのサマーコンサートでこれほどの空きがあるのは,5回目にして初めて遭遇した。
といっても,この日は平日の夕方。しかもお盆中だ。帰省している息子や弟と家で飲んでいる人も多いだろう。ぼくにしたって,2,3の不義理をして,ここに来ているわけだが。
● ということは,演奏している学生さんたちも帰省せずに活動しているわけだ。16日は札幌で演奏するのだから15日は移動日だろう。まさに,彼らにお盆はない。
● 指揮は三石清一さん。曲目は次のとおり。
モーツァルト 「魔笛」序曲
R.シュトラウス 交響詩「ドン・ファン」
ブラームス 交響曲第2番
● この楽団の実力は承知しているつもり。
同時に,自分は洗脳されているのかと思ってみたりもする。他の演奏を聴くときにも,この楽団の演奏を規矩にしてしまっているのじゃないか,っていう。
● 「魔笛」序曲を聴きながら思ったことは,彼らは自分たちが大学生であることを潔しとしていないのではないかってこと。手練れの演奏をしたい,大人の円熟をめざしたいと思っているのかなぁ,と。
若い人たちが円熟をめざすのは,年寄りが若作りをしようとするのとは真逆のベクトル?
ではないのかもしれないけれども,これはわりと好意的に受けとめられるものだろう。
● ただ,彼らにそんなつもりがあるとは思われない。上手くなりたいと思って一所懸命に練習し,曲の背景を解説した文献を読んで,解釈を深めたいと思っているだけだろう。
結果,こういう演奏になる。それができるのを実力があるというのかもしれない。
● 「ドン・ファン」もブラームスの2番も大きな曲だけれども,自家薬籠という言葉を思いださせる。自家薬籠中のものにするっていう言い方。
破綻は最小限だし,曲に負けて縮こまっている部分は皆無だ。積極果敢に攻める。神経をとがらせて攻めている。
● ある曲を演奏することは,その演奏自体が曲に対する批評であると言ったのは,吉本隆明さんだったか。シュトラウスに対する,あるいはブラームスに対する,彼らの批評。それをぼくらは聴いているのか。
が,批評は誰にでもできるというものではないだろう。批評が批評たり得るためには,批評する側に懐の深さのようなものがなければならない。それを備えている学生オケの希有な例がこの楽団だという言い方をしてもいい(他にもあることは知っているけど)。
● アンコールはハンガリー舞曲の6番だった。当然,アンコール曲に至るまで,彼らに手抜きはない。
さらに,恒例の「歌声ひびく野に山に」の“少々長めの前奏”にこめるサービス精神にも。
● ちなみに申しあげれば,この恒例の曲は開催地出身の団員が指揮をする慣わしだ。で,その地元出身の学生が紹介されたときの,客席の盛りあがりは過去5回で最大級のものだった。
何だろうね,彼の友人や知り合いがたくさん来てたんですかねぇ。あるいは東大崇拝度が他の地域より高いってことか。それは少々考えにくい気もするんだけどね。
鹿沼市民文化センター 大ホール
● 一昨年に続いて,二度目の拝聴となる。西中の生徒さんからこのブログに,8月2日にやるから見に来てくれとコメントをいただいた。
それに対して,必ず行きます,と返していた。約束は守られなければならない。小さな約束ほど履行厳守でなければならぬ。
中学生に来てと言われ,はいと答えたのに,結果,行きませんでした,というのでは,たぶん,生きている資格がない。
● というわけで,聴きにきましたよ,と。
しっかし。この猛暑は何事であるか。鹿沼駅から会場まで歩く途中,太陽のギラギラ光線を受けて,頭のてっぺんに穴が空くんじゃないかと思った。これだけ暑いと,太陽光に圧を感じる。
● 開演は午後2時。入場無料。
まず,1年生による合奏で「聖夜の行進」。楽器に触るようになって間もない生徒たちによる演奏だとのアナウンスがあった。
次は木管五重奏で「世界の車窓から」。クラリネットのみ女子で,あとの4人は男子。
続いて,弦楽合奏でブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」。全員(4人)が男子。各パートひとりでこの曲を演奏するのは,しかし,音の絶対量を満たすのが難しいかもしれない。音があふれるくらいじゃないと,舞曲的,聴いてるだけで踊りたくなるような感じ,にならないものだろうし。
● ここまで男子優位。かなり以上に珍しいのじゃないかと思う。次は,金管五重奏で「情熱大陸」。これまた3人が男子で,ここまで男子優位が続いている。
この曲を直立不動で演奏。楽譜を正確に再現することに意を注いでいたのだろうと思うけれども。
● メンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲」(第4楽章のみ)。当然,弦楽合奏ということになる。ここで一転して,全員が女子になった。
リーダー格のヴァイオリン奏者が圧巻の巧さ。彼女だけじゃなくて,全体が達者の集合という印象。これなら第4楽章だけじゃなくて,全楽章の演奏もやってのけるだろう。
学校の部活だけでここまでになれるんだろうか。あるいは個人レッスンもやっているんだろうか。やっているんだろうなと思いたいっていうか,そう考えたほうが腑に落ちる。
● 管楽合奏の「秋の童謡メドレー」のあと,モーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の第1楽章。弦奏者の揃い踏みだったんだろうか。かなりの人数だった。
それが普通だろうけど,指揮者はいない。コンミスの無言の合図で乱れなく始まった。始まってしまえばあとは,流れに乗るのには長けた生徒たちなのだろう。
合奏の場が生まれるのかもしれない。場の誘因力に引っぱられて,ひとりで弾くときよりも力がでるってことがあるのかも。
● 休憩後に第2部。ここからはオーケストラの演奏。
ディズニーメドレーから始まって,グリーグの「ペールギュント」第1組曲から,“朝”,“アニトラの踊り”,“山の魔王の宮殿にて”。
先月20日の「オーケストラ・フェスティバル」でも,鹿沼ジュニアオケが同じ曲を演奏した。そのときは,フルートが印象に残った。この学校の生徒だったんだろうか。
今回はオーボエの男子生徒に注目。それと,“アニトラの踊り”でのヴァイオリン。かなり聴かせる水準。
● ウェーバーの「オベロン」序曲,ベートーヴェンの「エグモント」序曲と続いた。
「エグモント」序曲はやはり先月20日にも聴いている。あのときは,後半やや失速したような印象を持ってしまった。
が,今回はそんなことはなく,最後まで重厚なベートーヴェンが立ち続けていた。ほどの良い緊張感と集中が切れなかった。そういうものは自ずと客席に伝わってくるわけで,お見事な演奏だったと言っていいのではあるまいか。
● アンコールはラデツキー行進曲。ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートの映像がYouTubeにいくつもあがっている。ぼくもこの映像を時々楽しんでいる。
生でも何度か聴いているけれども,この曲はノリの良さが身上で,中学生もいい感じで乗っていたように思えた。客席にいるおまえも乗れよってことだね。
● 終演後,雷が鳴りだした。これは降ってくるかと思ったけれども,何とか駅に着くまではもってくれた。
早足で歩いたので,16:30発の宇都宮行きに間に合った。ラッキーと思ったんだけれども,その宇都宮行きが待てど暮らせど来ない。
日光はまたも大雨と雹に見舞われているらしかった。
川口総合文化センター・リリア メインホール
● 開演は午後3時。入場無料。プログラム冊子は別料金ということもなく,完全無料。
● プログラムは次のとおり。
エルガー 行進曲「威風堂々」第1・3・4番
L・ミンクス バレエ「ドン・キホーテ」
● Studio Les bijouxのバレエも,荒川区民交響楽団の演奏も,初めて観るし,初めて聴く(荒川区民オペラは一度拝見したことがある。このときの管弦楽はこの楽団だったかもしれない)。
● 管弦楽の指揮は新井義輝さん。「威風堂々」はオーケストラがステージで演奏するのだろうと思っていたが,最初からピットに入った。
つまり,舞台ではダンサーたちが曲に合わせて踊るという図式。となれば,目線はステージに釘付けにされる。ピットは見えないわけだしね。
● ここのところは,若干以上に不消化感が残った。管弦楽の演奏って,演奏している様から受けとる情報が大きいわけでね。
いや,それは攪乱要因だよという意見もあるのかもしれないけれど。
● ステージのダンサーはみな,美しい。衣装効果,化粧効果,舞台効果のなせる技だと言ってしまうとそれまでなんだけど,ダンス効果っていうのもはっきりあるんでしょうね。
ウエストなんて呆れるほど細かったりするもんなぁ。
● 「ドン・キホーテ」は音楽も含めて,初めて接するもの。今回は全幕ではなく,ハイライト形式だったようだ。
それでも,充分に見応えがあって,会場を出るときにはかなりの満足感に包まれた。
● ぼくにはあのポワントというのが驚異で,なんであんなことができるのか全然わからない。立つだけならまだしも,歩いたり,跳ねたりするんだからね。
前提として体重を絞らなければいけないというのは,当然のこととしてあるんだろうなと思う程度でね。
● 人体を使った女性美(男性美も)の表現としては,バレエは究極のものだと思うんだけど,ステージを観ていて思うのは,自然にしてたんじゃ美は生まれないのだなってこと。人体の自然は弛みしか感じさせない。
徹底的に自然にあらがうんですね。となると,練習は厳しいものになるんだろうな。骨格が完全にできあがってから始めたのでは遅いのかもなぁ。
● 数少ない男性ダンサーが健闘していた印象。動きが速い。速いから切れがある。
ゲストはキム セジョンさん。これはもう身体能力の高さに舌をまくしかない。
カンウォン大学舞踊学部バレエ学科卒業とあるけれども,韓国にはそういう大学があるんですねぇ。ぼくが知らないだけで,日本にもあるのかもしれないけど。