栃木県総合文化センター サブホール
● 先週の24日にコンセール・マロニエ21のピアノ部門の演奏を聴いたばかり。ぼくにはそれで充分すぎる,というのもおこがましいほどだ。
ぼくのような耳しか持っていない者に,小菅さんのピアノを聴かせるのはいかがなものか。聴かせる甲斐があるのか。
と思いながらも,3千円を投じて,総合文化センターのサブホールに出向いた。開演は午後6時30分。
● 平日の午後6時半といえば,多くの人たちは仕事に追われているはずだ。こういうときに悠々と出向ける人というのは,第一線を退いて年金で暮らしている人,時間が自由になるビジネスエリート,逆に出世を見切ってドロップアウトに甘んじているかそれを良しとしている人,のいずれかではないかと思う。
ぼくがそのいずれに属するか,言わずもがなのことである。
とはいえ,時間のやりくりをしての結果だろう,直前にあるいは遅れて駆けつけてくる人もけっこうな数いた。
● ともあれ。音楽雑誌で見知っているとおりの小菅さんが登場。ペコリと一礼して,ピアノの前に。
曲目は次のとおり。
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第5番
ブラームス 4つのバラード
ショパン 12の練習曲
● 茂木健一郎さんがよくお使いになる言葉,ホームとアウェイ。今回は小菅さんにとってはホームの最たるものになるのだろう。
自分のリサイタルだと知って,それを聴きにくるお客さん。自分を指名してくれたお客さんばかりだ。そのお客さんを相手に弾けばいい。
幸せな時間なのではないかと想像する。
● 観客にとっても同様だ。聴きたいと思ってチケットを買ったのだ。その聴きたい人の演奏が聴けるのだ。観客にとってもまた,この場はホームである。
というか,ホームしか選ばない自由がお客には保証されているわけだ。いやなら,チケットを買わないだけだもんな。
● さて,小菅さんの演奏を聴いての感想。ターボエンジンを3基ほど積んだスポーツカーだ。加速がすごい。いや,加速以前の問題か。スッと集中モードに入る。その集中度が並みじゃない感じがした。
演奏するときに集中しない人なんていないだろう。だれもが集中しているはずだ。が,その度合にはたぶん人によって浅深があるはずで,たくまずして深い集中に入れるかどうか。それがつまり才能ってことなのかもしれないと思った。
● 息を詰めて演奏する場面ももちろんある。その詰めた様子が客席にも当然伝わってくる。聴くほうも息を詰めて彼女の演奏を見守ることになる。
が,当然ながら聴く側は彼女の集中にはついていけない。それがもどかしくもあり,癪の種でもある。
● ベートーベン,ブラームス,ショパンと弾きわけるわけだけれども,そのどれもが小菅優なのだった。これをもっと煮詰めていくと,バッハのゴルドベルク変奏曲におけるグレン・グールドに行きつくのかもしれない。そこに行くのがいいのかどうかは別として。
って,そういう単純な話じゃないんでしょうね。単純化は観客の特権だけれども,奏者からすればだいぶピンぼけた話になるんだろうな。
● アンコールは次の2曲。
シューマン 献呈
ショパン エオリアン・ハープ
小菅さんはホームを満喫したように思われた。
● このレベルになってしまうと,ぼくに書けることなんてほとんどない。にもかかわらず,こんなブログなんかを書いていると,書かなきゃと思って聴いてしまう。それが聴く楽しみを相当減殺しているのじゃないかと思う。
こちらも聴く楽しさを満喫したい。ステージの演奏にすべてを委ねてウットリしたい。書かなきゃっていうのがあると,そこに賢しらな知を入れてしまうんだな。われながら愚かなことだと思う。このあたりは本当に考えどころだなぁ。
約2時間のコンサートが終了した直後の満足感は,他のものでは代替できません。この世に音楽というものが存在すること。演奏の才に恵まれた人たちが,時間と費用を惜しまずに技を磨いていること。その鍛錬の成果をぼくたちの前で惜しみなく披露してくれること。そうしたことが重なって,ぼくの2時間が存在します。ありがたい世の中に生きていると痛感します。 主には,ぼくの地元である栃木県で開催される,クラシック音楽コンサートの記録になります。
2015年10月31日土曜日
2015年10月26日月曜日
2015.10.24 第20回コンセール・マロニエ21 本選
栃木県総合文化センター メインホール
● 客席にいると,ステージに対して,批評家や評論家,審査員になりがちだ。ちゃんとした評論家や審査員なら,それに相応しい技能や資質を備えているはずだが,観客の多くは,ぼくをはじめとしてだけれども,そうではない(ように思える)。
ビールを呑みながらテレビでプロ野球を観戦して,監督の采配にあれこれ言っているお父さんと同じ水準かと思われる。その水準での評論モドキや審査モドキだ。
● プロ野球でも球団がファンサービスに努めるように,プロ・アマ問わず演奏する側は客席にいろんなサービスをする。ぼくはあまり好きじゃないんだけど,演奏前に行う指揮者トークとかね。
何といっても需要が伸び悩んでいる。霞を食べて生きていくわけにはいかないんだから,需要喚起・集客に努めなければならない(一方で,フライング拍手に対する啓発とかもしなきゃいけないんだから大変ですな)。要するに,観客を甘やかせてあげないといけない。
● 客席にいればお客さんだ。お客は強いものだ。何を言っても,相手方が強く反論してくることはない。安全地帯に身を置いていられる。安心してなんでも言える。
だからこそ,客席側としても,評論家モドキや審査員モドキに墜ちることを回避する努力をすべきなのだと思う。
プロ野球の監督なんかとても務まらないのに,現役監督の采配の結果が出たあとに,だから言わんこっちゃないっていうような,後出しジャンケン的なみっともない所業は慎まなければならない。
● 評論家や審査員の立場に自らを置くことには快感がある。上から目線で語る快感を味わえる。地面すれすれの実力しかないのに,他者を批判すると,その他者の高みまで昇ったような錯覚に浸ることができる。
簡単にその錯覚に行かないようにしたいと思う。大人だろ,おれたち。
● というようなことを時々考える。
今回はコンクールだ。れっきとした審査員がいるわけだ。彼らはぼくら観客とは違って,それぞれ専門家だ。
その専門家と観客では鑑賞眼はもちろん違うとして,それ以外に見方そのものが違うはずだ。審査と楽しみでは,自ずと聴き方が変わる。
だから,公表された審査結果に対してオヤッと思うこともあるんだけれども,これはそのような理由によるもの。
● 問題は,こうしたコンクールだと,ぼくらまでいっそう審査員の目線になりがちなこと。こういうときにこそ,審査員の目線から離れて,若き演奏者が紡ぎだす音楽を楽しみたい。
どこまでそれに徹することができるか。大げさにいえば,それが自分との勝負だと思っている。ま,勝負っていうと,その時点で固くなりすぎていると思うけど。
● 開演は正午。今回はピアノと金管。このコンクールはピアノ,声楽,弦,管を2つずつ開催している。管は木管と金管を相互にやっているので,木管と金管は4年に一度ということになる。
このコンクールを聴くのはこれが6回目になるんだけど,前回の金管は聴き逃している。
会場はメインホール。審査する側ではメインホールでの響きを確認したいんだろうから,会場をサブホールに変えることは考慮の外であるはずだ。
● 終演は午後5時。無料でタップリ聴ける。しかも,普段は聴く機会がない曲を聴ける。考えようによってはかなり美味しいわけで,そのせいかどうかは知らないけれども,年々,観客が増えているように思う。
以前はほんとにチラホラとしかいなかった。ここ2年ほどはガラガラではあるんだけどチラホラではない。
● まず,ピアノ部門。出場者は5人。
トップバッターは久保亮太さん。シューマン「ピアノ・ソナタ第1番」の第1楽章と,ラヴェルの「クープランの墓」より“1.プレリュード”“5.メヌエット”“6.トッカータ”。シューマンからラヴェルに移ったときの印象が鮮烈。当然,これは曲調によるもの。ラヴェルの絵画的なっていうか,ラヴェルだとすぐにわかるポンポンと弾むようなっていうか,シューマンとの対比がくっきりしてて,それも選曲の理由かと思った。が,これは穿ちすぎというものでしょうね。
まだ18歳。曲と対話しているというか戯れているというか,誤解を恐れずにいうと楽しそうに弾いていたのが印象的。
● 次は木邨清華さん。藝大の4年生。曲はプーランクの「ナゼルの夜会」。こういう曲を聴けるんだから,このコンクールは観客的にも美味しいわけだ。
ピアノだから,奏者を側面から見ることになる。そのラインが美しい人だった。見栄えがする人だと思った。
● 中島英寿さん。桐朋の2年生。ベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」の主題による15の変奏曲とフーガ。それとバルトークの「戸外にて」から“4.夜の音楽”“5.狩”。
ベートーヴェンさん,こんなんでいかがでしょう,よろしいでしょうか,と言っているかのような演奏。
これまでの3人もそうだったし,これから登場する人たちもすべてそうだったんだけど,コンクールで緊張しているといった様子はうかがえない。普段どおりというか落ち着いているというか。むしろリラックス。
たいしたものだと思うが,いまさら平常心を失うのは困難なほどに,こうした場数は踏んできているんでしょうね。評価される場に慣れているようだった。
● 中村淑美さん。東京音大の4年生。曲はラフマニノフのピアノ・ソナタ第2番。この曲をそっくり聴けるというわけだ。
スッとやってきて,サラッと弾いて,いかがでしたかという風情でサッと去って行く。ファインプレーをファインプレーに見せない技術の持ち主。
● 最後が井村理子さん。出場者の中では最年長。シューベルトのピアノ・ソナタ第19番の1,2,4楽章を演奏した。
技術はもちろん,表現力というんだろうか,演技力といってもいいのかもしれない,客席への差しだし方まで一点の隙もないほどに考えているという感じ。群を抜いていたように思う。
が,このコンクールは彼女にはそぐわないようにも思えた。ここの1位を狙いに来るような人ではないのじゃないか。
● 次は金管部門。ファイナルに残ったのは8人。ホルン2,トランペット3,チューバ3。
まず,ホルンで森井明希さん。東京音楽大学3年。演奏したのはF.シュトラウスの「ファンタジー」。
この曲もそうだけれども,以後に出てくる曲はすべて今回初めて聴くものだった。そりゃそうだ。金管がメインの曲を普通のコンサートで聴くことはまずもってないわけだから。それぞれの楽器分野では超有名な曲なんだろうけど,ぼくにはまったく不知の世界。
森井さん,ドレスではなく練習着(?)で登場した。ぜんぜんOKだと思う。ただ,ドレス効果というのはあるんだね。愛くるしいお嬢さんという印象だったけど,これがドレスだったらきちっとレディに見えたはずでね。
● トランペットの椎原正樹さん。桐朋の2年生。ピアノ伴奏は岩瀬成美さん。ひょっとして桐朋の同級生だったりするんだろうか。
トランペットって金管における百獣の王,ライオンのようなものなんですか。まっすぐに音が届いてくる。
● 続いてトランペット。刑部望さん。男性。今年,早稲田の文学部を卒業したらしい。一方で,桐朋のカレッジディプロマコースにも在籍中。
演奏したのは,J.ギイ・ロパルツ「アンダンテとアレグロ」,V.ブラント「コンサートピース」。はぁ,こういう曲もあったんですかって思う程度の聴き手なんだな,こちらは。
ピアノ伴奏は刑部佳子さん。ひょっとして彼のお母さんなのかもしれない。
● チューバの西部圭亮さん。東京学芸大音楽科の2年生。ヤン・クーツィール「チューバとピアノ小協奏曲」。ピアノは渡辺悠莉子さん。
チューバという楽器。ドがつくほどの迫力があるということはわかった。が,それしかわからなかった。
西部さんは,とにかくイケメンで,それが際立っていたものだから,そっちのほうに気が行っちゃってましたね。羨ましいなぁ,と。これをあと10年20年と保てたら,すごいことになるんじゃないか。
● ホルンの江村考広さん。クロール「ラウダーツィオ」,グリエール「ロマンス」,フランセ「ディヴェルティメント」。
ホルンは難しい楽器だと推測はつく。名手はその難しい楽器を使って安定した音を出すのだ。そのあたりまではわかるんだけど。
● トランペットの鶴田麻記さん。藝大の3年生。テレマン「トランペット協奏曲」とジョリヴェ「トランペットとピアノのためのコンチェルティーノ」。ピアノ伴奏は下田望さん。
彼女,子供の頃はヒダリマキッと呼ばれてからかわれたんじゃないかと,まったく関係のないことを思った。マキって名前の子がいて,ぼく自身,そう呼んでからかっていたからな。ある程度の年齢になってからならいいけれど,あんまり小さい頃からそう言われたんじゃ傷つくよなぁ。
素直な演奏だと思った。トランペットと仲がいいといいますか。
● チューバの田村優弥さん。今回の出場者の中で唯一の地元出身者。現在は藝大の院に在籍しているけれど,作新学院吹奏楽部の出身で,今月12日の作新学院吹奏楽部の定演にゲスト出演していた。
そのときに彼が語ったところによると,陽西中でチューバを始め,高校は作新に行くと決めていたらしい。作新で吹奏楽をやりたい,と。
藝大は入るのも大変だけれども,入ったあとも大変で,藝大といえどもプロとして立っていけるのはごく一部だから,という話をされていた。そうなのだろうなと納得。
演奏したのは,ペンデレツキ「無伴奏チューバのためのカプリッチョ」とウジェーヌ・ボザ「チューバのためのコンチェルティーノ」。
後者のピアノ伴奏は大川香織さん。
● 最後は,小沼悠貴さん。国立音大を卒業して,自衛隊の音楽隊の隊員になっている。演奏した曲は田村さんと同じ,ボザの「チューバのためのコンチェルティーノ」。
ピアノは松岡亜希子さん。
● すでに審査結果は出ていて,主催者のホームページに公表されているはずだ。ぼくも予想を述べたくなるが,やめておく。こんな聴き手が審査の真似事をするのは厳禁だ。
出場者はよくわかるのだろう。あ,こいつは自分より巧いや,とか,自分のほうが少しいいかな,とか。
● が,ぼく的に最も印象に残った奏者は,ピアノでは中島英寿さん,金管では鶴田麻記さんだった。
この程度は申しあげても許されるのではないかと思う。
● 客席にいると,ステージに対して,批評家や評論家,審査員になりがちだ。ちゃんとした評論家や審査員なら,それに相応しい技能や資質を備えているはずだが,観客の多くは,ぼくをはじめとしてだけれども,そうではない(ように思える)。
ビールを呑みながらテレビでプロ野球を観戦して,監督の采配にあれこれ言っているお父さんと同じ水準かと思われる。その水準での評論モドキや審査モドキだ。
● プロ野球でも球団がファンサービスに努めるように,プロ・アマ問わず演奏する側は客席にいろんなサービスをする。ぼくはあまり好きじゃないんだけど,演奏前に行う指揮者トークとかね。
何といっても需要が伸び悩んでいる。霞を食べて生きていくわけにはいかないんだから,需要喚起・集客に努めなければならない(一方で,フライング拍手に対する啓発とかもしなきゃいけないんだから大変ですな)。要するに,観客を甘やかせてあげないといけない。
● 客席にいればお客さんだ。お客は強いものだ。何を言っても,相手方が強く反論してくることはない。安全地帯に身を置いていられる。安心してなんでも言える。
だからこそ,客席側としても,評論家モドキや審査員モドキに墜ちることを回避する努力をすべきなのだと思う。
プロ野球の監督なんかとても務まらないのに,現役監督の采配の結果が出たあとに,だから言わんこっちゃないっていうような,後出しジャンケン的なみっともない所業は慎まなければならない。
● 評論家や審査員の立場に自らを置くことには快感がある。上から目線で語る快感を味わえる。地面すれすれの実力しかないのに,他者を批判すると,その他者の高みまで昇ったような錯覚に浸ることができる。
簡単にその錯覚に行かないようにしたいと思う。大人だろ,おれたち。
● というようなことを時々考える。
今回はコンクールだ。れっきとした審査員がいるわけだ。彼らはぼくら観客とは違って,それぞれ専門家だ。
その専門家と観客では鑑賞眼はもちろん違うとして,それ以外に見方そのものが違うはずだ。審査と楽しみでは,自ずと聴き方が変わる。
だから,公表された審査結果に対してオヤッと思うこともあるんだけれども,これはそのような理由によるもの。
● 問題は,こうしたコンクールだと,ぼくらまでいっそう審査員の目線になりがちなこと。こういうときにこそ,審査員の目線から離れて,若き演奏者が紡ぎだす音楽を楽しみたい。
どこまでそれに徹することができるか。大げさにいえば,それが自分との勝負だと思っている。ま,勝負っていうと,その時点で固くなりすぎていると思うけど。
● 開演は正午。今回はピアノと金管。このコンクールはピアノ,声楽,弦,管を2つずつ開催している。管は木管と金管を相互にやっているので,木管と金管は4年に一度ということになる。
このコンクールを聴くのはこれが6回目になるんだけど,前回の金管は聴き逃している。
会場はメインホール。審査する側ではメインホールでの響きを確認したいんだろうから,会場をサブホールに変えることは考慮の外であるはずだ。
● 終演は午後5時。無料でタップリ聴ける。しかも,普段は聴く機会がない曲を聴ける。考えようによってはかなり美味しいわけで,そのせいかどうかは知らないけれども,年々,観客が増えているように思う。
以前はほんとにチラホラとしかいなかった。ここ2年ほどはガラガラではあるんだけどチラホラではない。
● まず,ピアノ部門。出場者は5人。
トップバッターは久保亮太さん。シューマン「ピアノ・ソナタ第1番」の第1楽章と,ラヴェルの「クープランの墓」より“1.プレリュード”“5.メヌエット”“6.トッカータ”。シューマンからラヴェルに移ったときの印象が鮮烈。当然,これは曲調によるもの。ラヴェルの絵画的なっていうか,ラヴェルだとすぐにわかるポンポンと弾むようなっていうか,シューマンとの対比がくっきりしてて,それも選曲の理由かと思った。が,これは穿ちすぎというものでしょうね。
まだ18歳。曲と対話しているというか戯れているというか,誤解を恐れずにいうと楽しそうに弾いていたのが印象的。
● 次は木邨清華さん。藝大の4年生。曲はプーランクの「ナゼルの夜会」。こういう曲を聴けるんだから,このコンクールは観客的にも美味しいわけだ。
ピアノだから,奏者を側面から見ることになる。そのラインが美しい人だった。見栄えがする人だと思った。
● 中島英寿さん。桐朋の2年生。ベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」の主題による15の変奏曲とフーガ。それとバルトークの「戸外にて」から“4.夜の音楽”“5.狩”。
ベートーヴェンさん,こんなんでいかがでしょう,よろしいでしょうか,と言っているかのような演奏。
これまでの3人もそうだったし,これから登場する人たちもすべてそうだったんだけど,コンクールで緊張しているといった様子はうかがえない。普段どおりというか落ち着いているというか。むしろリラックス。
たいしたものだと思うが,いまさら平常心を失うのは困難なほどに,こうした場数は踏んできているんでしょうね。評価される場に慣れているようだった。
● 中村淑美さん。東京音大の4年生。曲はラフマニノフのピアノ・ソナタ第2番。この曲をそっくり聴けるというわけだ。
スッとやってきて,サラッと弾いて,いかがでしたかという風情でサッと去って行く。ファインプレーをファインプレーに見せない技術の持ち主。
● 最後が井村理子さん。出場者の中では最年長。シューベルトのピアノ・ソナタ第19番の1,2,4楽章を演奏した。
技術はもちろん,表現力というんだろうか,演技力といってもいいのかもしれない,客席への差しだし方まで一点の隙もないほどに考えているという感じ。群を抜いていたように思う。
が,このコンクールは彼女にはそぐわないようにも思えた。ここの1位を狙いに来るような人ではないのじゃないか。
● 次は金管部門。ファイナルに残ったのは8人。ホルン2,トランペット3,チューバ3。
まず,ホルンで森井明希さん。東京音楽大学3年。演奏したのはF.シュトラウスの「ファンタジー」。
この曲もそうだけれども,以後に出てくる曲はすべて今回初めて聴くものだった。そりゃそうだ。金管がメインの曲を普通のコンサートで聴くことはまずもってないわけだから。それぞれの楽器分野では超有名な曲なんだろうけど,ぼくにはまったく不知の世界。
森井さん,ドレスではなく練習着(?)で登場した。ぜんぜんOKだと思う。ただ,ドレス効果というのはあるんだね。愛くるしいお嬢さんという印象だったけど,これがドレスだったらきちっとレディに見えたはずでね。
● トランペットの椎原正樹さん。桐朋の2年生。ピアノ伴奏は岩瀬成美さん。ひょっとして桐朋の同級生だったりするんだろうか。
トランペットって金管における百獣の王,ライオンのようなものなんですか。まっすぐに音が届いてくる。
● 続いてトランペット。刑部望さん。男性。今年,早稲田の文学部を卒業したらしい。一方で,桐朋のカレッジディプロマコースにも在籍中。
演奏したのは,J.ギイ・ロパルツ「アンダンテとアレグロ」,V.ブラント「コンサートピース」。はぁ,こういう曲もあったんですかって思う程度の聴き手なんだな,こちらは。
ピアノ伴奏は刑部佳子さん。ひょっとして彼のお母さんなのかもしれない。
● チューバの西部圭亮さん。東京学芸大音楽科の2年生。ヤン・クーツィール「チューバとピアノ小協奏曲」。ピアノは渡辺悠莉子さん。
チューバという楽器。ドがつくほどの迫力があるということはわかった。が,それしかわからなかった。
西部さんは,とにかくイケメンで,それが際立っていたものだから,そっちのほうに気が行っちゃってましたね。羨ましいなぁ,と。これをあと10年20年と保てたら,すごいことになるんじゃないか。
● ホルンの江村考広さん。クロール「ラウダーツィオ」,グリエール「ロマンス」,フランセ「ディヴェルティメント」。
ホルンは難しい楽器だと推測はつく。名手はその難しい楽器を使って安定した音を出すのだ。そのあたりまではわかるんだけど。
● トランペットの鶴田麻記さん。藝大の3年生。テレマン「トランペット協奏曲」とジョリヴェ「トランペットとピアノのためのコンチェルティーノ」。ピアノ伴奏は下田望さん。
彼女,子供の頃はヒダリマキッと呼ばれてからかわれたんじゃないかと,まったく関係のないことを思った。マキって名前の子がいて,ぼく自身,そう呼んでからかっていたからな。ある程度の年齢になってからならいいけれど,あんまり小さい頃からそう言われたんじゃ傷つくよなぁ。
素直な演奏だと思った。トランペットと仲がいいといいますか。
● チューバの田村優弥さん。今回の出場者の中で唯一の地元出身者。現在は藝大の院に在籍しているけれど,作新学院吹奏楽部の出身で,今月12日の作新学院吹奏楽部の定演にゲスト出演していた。
そのときに彼が語ったところによると,陽西中でチューバを始め,高校は作新に行くと決めていたらしい。作新で吹奏楽をやりたい,と。
藝大は入るのも大変だけれども,入ったあとも大変で,藝大といえどもプロとして立っていけるのはごく一部だから,という話をされていた。そうなのだろうなと納得。
演奏したのは,ペンデレツキ「無伴奏チューバのためのカプリッチョ」とウジェーヌ・ボザ「チューバのためのコンチェルティーノ」。
後者のピアノ伴奏は大川香織さん。
● 最後は,小沼悠貴さん。国立音大を卒業して,自衛隊の音楽隊の隊員になっている。演奏した曲は田村さんと同じ,ボザの「チューバのためのコンチェルティーノ」。
ピアノは松岡亜希子さん。
● すでに審査結果は出ていて,主催者のホームページに公表されているはずだ。ぼくも予想を述べたくなるが,やめておく。こんな聴き手が審査の真似事をするのは厳禁だ。
出場者はよくわかるのだろう。あ,こいつは自分より巧いや,とか,自分のほうが少しいいかな,とか。
● が,ぼく的に最も印象に残った奏者は,ピアノでは中島英寿さん,金管では鶴田麻記さんだった。
この程度は申しあげても許されるのではないかと思う。
2015年10月19日月曜日
2015.10.17 グローリア アンサンブル&クワイアー第23回演奏会
栃木県総合文化センター メインホール
● 今回はハイドンの『オラトリオ天地創造』。このCDはたしか2枚持っている。アーノンクールとカラヤンだったか。
だったかというのは,どちらも聴いたことがないからで,なぜ聴いたことがないかといえば,歌詞の意味がわからないからだ。
オペラのCDもあるけれども,はやりまず聴くことがない。理由は同じ。
● 部屋に座ってゆったりと聴くということをぼくはしない。だいたいスマホにイヤホンをつないで聴いている。つまり戸外で聴く。そういうのを聴くというのかという意見もあるだろうけれども,そういった聴き方しかしていない。
となると,歌詞カード(?)を見ながら聴くことはありえないし,オラトリオやオペラのような長い曲は,結果的に敬遠することになりがちだ。
● であればこそ,グローリアが年に1回,声楽が入った大曲をやってくれるのがありがたい。しかも,宇都宮で。
開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券を購入。
● で,『天地創造』である。当然,「旧約聖書」の「創世記」から取っている(第3部はミルトンの「失楽園」)。
客席にいたほとんどの人がそうだと思うんだけど(ステージで演奏していた人たちも同じだろう),ぼくも聖書は読んだことがない。ので,「創世記」ってこういう話だったのかと,今回,初めて知ったというわけだ。
率直にいって,このストーリー,じつに深みがない。幼稚なつじつま合わせにすぎない。
重箱の隅を突く言い方になってしまうけれども,神が光りあれと言われてから,太陽を創造するまで間があるのだ。その間,光はどんなあり方をしてたんだろうと思ってしまう。
● 日本の古事記に出てくる神話も同じだし,ギリシャ神話もしかりだ。それに深みを見つけるのが,神話学なり宗教学の仕事なのだろう。
逆に,こういう話に小学校の理科程度の知識でもってチャチャを入れるほうが,人間性を疑われるべきなのだろう。
● 神が自らの似姿をもって人間を創造してからは,一夫一婦制の賛歌になる。人間が地に満ちなければならないんだから,それが当然だ。男と女が夫婦になって子を産まなければならない。
ここでは,神はまず男を創って,男の一部から女を創る。常識的に考えると,女が産む性なんだから,まず女を創って,女の一部から男を創るのが理にかなうように思われるんだけど,ユダヤの神はそういう創り方をされなかったのだ。
● 曲調は軽い感じ。おどろおどろしくない。ハイドンは過度に神々しくはしなかったようだ。
神の御業を称えるための曲だ。何をもって称えるかといえば,まずは声楽の言葉をもってするわけだが,器楽もまたそれに寄り添う。器楽が言葉を霞ませてしまうような事態を避けたのだろうか,と埒のないことを思ったりした。
● 第3部はグングンと上にあがっていく。神が自分たちを創造してくれたことを,アダムとエヴァが全身全霊で言祝いでいるようだ。
現代的(?)な視点で見れば,やったぜ,創ってもらっちゃえばあとはこっちのもんだぜ,と大喜びしているふうでもある。
が,ここに焦点を当てすぎて一夫一婦制が原理主義的な色彩を帯びるようになると,かえって不幸な人を増やすことになる。ほどほどにしておかないとな。すべての男女が結婚するなんて,あり得ないわけだから。
結婚は人生において必須のものではなく,あくまでオプションのひとつにすぎない。男が男を,女が女を,好きになってはいけないということもない。このあたりは徹底的に自由たるべし。
劇中と実人生は区別しておかないと。
● と,勝手な聴き方をしたわけだけれども,ともかくハイドンの大きな曲をひとつ,生で聴くことができた。得がたい体験だ。
指揮は片岡真理さん。ソプラノが藤崎美苗さん,テノールが中嶋克彦さん,バリトンが原田 圭さん。この布陣でグローリアの合唱と管弦楽。管弦楽は栃響有志のように思われる。
原田さんのバリトンが最も印象に残っている。合唱は各パートに途方もなく巧い人がいる。特にソプラノ。
● 字幕がありがたかったのは言うまでもない。これでCDを聴く準備も整った。あとはこちらの心がけ次第。
しかし,だ。『天地創造』を初めて生で聴いて,この程度のことしか書けないのか。何だかなぁ。
● 今回はハイドンの『オラトリオ天地創造』。このCDはたしか2枚持っている。アーノンクールとカラヤンだったか。
だったかというのは,どちらも聴いたことがないからで,なぜ聴いたことがないかといえば,歌詞の意味がわからないからだ。
オペラのCDもあるけれども,はやりまず聴くことがない。理由は同じ。
● 部屋に座ってゆったりと聴くということをぼくはしない。だいたいスマホにイヤホンをつないで聴いている。つまり戸外で聴く。そういうのを聴くというのかという意見もあるだろうけれども,そういった聴き方しかしていない。
となると,歌詞カード(?)を見ながら聴くことはありえないし,オラトリオやオペラのような長い曲は,結果的に敬遠することになりがちだ。
● であればこそ,グローリアが年に1回,声楽が入った大曲をやってくれるのがありがたい。しかも,宇都宮で。
開演は午後2時。チケットは2,000円。当日券を購入。
● で,『天地創造』である。当然,「旧約聖書」の「創世記」から取っている(第3部はミルトンの「失楽園」)。
客席にいたほとんどの人がそうだと思うんだけど(ステージで演奏していた人たちも同じだろう),ぼくも聖書は読んだことがない。ので,「創世記」ってこういう話だったのかと,今回,初めて知ったというわけだ。
率直にいって,このストーリー,じつに深みがない。幼稚なつじつま合わせにすぎない。
重箱の隅を突く言い方になってしまうけれども,神が光りあれと言われてから,太陽を創造するまで間があるのだ。その間,光はどんなあり方をしてたんだろうと思ってしまう。
● 日本の古事記に出てくる神話も同じだし,ギリシャ神話もしかりだ。それに深みを見つけるのが,神話学なり宗教学の仕事なのだろう。
逆に,こういう話に小学校の理科程度の知識でもってチャチャを入れるほうが,人間性を疑われるべきなのだろう。
● 神が自らの似姿をもって人間を創造してからは,一夫一婦制の賛歌になる。人間が地に満ちなければならないんだから,それが当然だ。男と女が夫婦になって子を産まなければならない。
ここでは,神はまず男を創って,男の一部から女を創る。常識的に考えると,女が産む性なんだから,まず女を創って,女の一部から男を創るのが理にかなうように思われるんだけど,ユダヤの神はそういう創り方をされなかったのだ。
● 曲調は軽い感じ。おどろおどろしくない。ハイドンは過度に神々しくはしなかったようだ。
神の御業を称えるための曲だ。何をもって称えるかといえば,まずは声楽の言葉をもってするわけだが,器楽もまたそれに寄り添う。器楽が言葉を霞ませてしまうような事態を避けたのだろうか,と埒のないことを思ったりした。
● 第3部はグングンと上にあがっていく。神が自分たちを創造してくれたことを,アダムとエヴァが全身全霊で言祝いでいるようだ。
現代的(?)な視点で見れば,やったぜ,創ってもらっちゃえばあとはこっちのもんだぜ,と大喜びしているふうでもある。
が,ここに焦点を当てすぎて一夫一婦制が原理主義的な色彩を帯びるようになると,かえって不幸な人を増やすことになる。ほどほどにしておかないとな。すべての男女が結婚するなんて,あり得ないわけだから。
結婚は人生において必須のものではなく,あくまでオプションのひとつにすぎない。男が男を,女が女を,好きになってはいけないということもない。このあたりは徹底的に自由たるべし。
劇中と実人生は区別しておかないと。
● と,勝手な聴き方をしたわけだけれども,ともかくハイドンの大きな曲をひとつ,生で聴くことができた。得がたい体験だ。
指揮は片岡真理さん。ソプラノが藤崎美苗さん,テノールが中嶋克彦さん,バリトンが原田 圭さん。この布陣でグローリアの合唱と管弦楽。管弦楽は栃響有志のように思われる。
原田さんのバリトンが最も印象に残っている。合唱は各パートに途方もなく巧い人がいる。特にソプラノ。
● 字幕がありがたかったのは言うまでもない。これでCDを聴く準備も整った。あとはこちらの心がけ次第。
しかし,だ。『天地創造』を初めて生で聴いて,この程度のことしか書けないのか。何だかなぁ。
2015年10月13日火曜日
2015.10.12 作新学院高等学校吹奏楽部第50回記念演奏会
宇都宮市文化会館 大ホール
● 第47回から聴いている。今回が4回目になる。開演は午後3時。チケットは800円(前売券)。
● 開場前から長蛇の列で,結果,立ち見客まで出た。大変な盛況だけれども,チケットの売り方に問題はなかったか。
が,この高校の吹奏楽部の,しかも記念演奏会ともなれば,これだけの観客が入るのは頷ける。学校の関係者が多かったんだろうけど,ぼくのように何のゆかりもない人間もいたはずだし,吹奏楽をやっているのかと思われる中学生も聴きに来ていたようだった。
● 例年のとおり3部構成。演奏された曲目を羅列するのはやめるけれども,第1部のスタートは舞踏劇『ラ・ペリ』より“ファンファーレ”。
この曲を聴いただけで,あぁと思った。巧いなぁっていう「あぁ」ですね。現時点で県内随一。それもぶっちぎりだろう。そう断言してしまおう。
● 個々の奏者の技量が高い。指導の問題ではなく(いや,それもあるんだろうけど),素質のある生徒を集めている結果だ。
そうした生徒が作新の門をたたこうとする。これまでの実績が彼ら彼女らを誘う。それがまた新たな実績につながる。伝統の力だ。
● 音楽科でもない高校の部活でやっている生徒たちがここまでの演奏をするのを聴くと,大げさにいえば,いわゆるひとつの奇跡を見るようだ。
佐藤邦弘「チューバとウィンドアンサンブルのための協奏曲」ではOBの田村優弥さんが登場。その田村さんと絡んで,フルート,オーボエ,サックスに気後れがないのは,あっぱれというしかないではないか。
● 第2部はポップス・ステージ。第1部に比べると,気を抜けるというか,観客サービスのための一格下のステージと受けとめがちだったけれども,違っていた。
何度も独奏を見せた女子生徒のフルート。レガートってこういうものだよという見本のようなもの。男子生徒のトランペットも客席をうならせた。しかも,それらは一例にすぎない。
客席を楽しませるのは大変なのだ。
● 春の「フレッシュグリーンコンサート」でも演奏した曲が多かったんだけれども,そのひとつが真島俊夫「カリビアン・サンダンス」。
スティールパンをまた聴くことができたのは,眼福ならぬ耳福だった。
● 2部で何度か登場したダンスも何気に巧い。少なくとも手を抜いていない。
清楚なお色気って,この年齢の女の子が踊ると,自然に出るものなんですかねぇ。これ,こちらに対抗する術がないんだよねぇ。やられるしかない。
● 第3部はドリル。これも「フレッシュグリーンコンサート」でやっており,今回のはその完成形といってよいものなのだろう。
ラインの動きの滑らかさ,速さ。ラインの交わりもスムーズ。
● というわけで,ひととおり見せてもらったわけだけれども,これでも東関東を突破して全国に行くのは叶わなかったとなると,全国に行ける吹奏楽というのは,どんなものなのか。
聴きに行けばいい話なんだけど,一般人でも入れるんですかね。
● 終演後の部長挨拶もこの演奏会の名物に数えていいかもしれない。立派な挨拶をするものだ。文言は事前に作っておくんだろうけれども,気持ちが入っている。
大人ではまずできないであろう挨拶をする。今回もしかり。
● さらにその後に余興(?)がある。1,2年生だけの演奏があった。「学生時代」だったか。もう充分に巧いわけで,あと1年間は県下の覇者は作新で,それが揺らぐことはあるまいと思われた。
● 第47回から聴いている。今回が4回目になる。開演は午後3時。チケットは800円(前売券)。
● 開場前から長蛇の列で,結果,立ち見客まで出た。大変な盛況だけれども,チケットの売り方に問題はなかったか。
が,この高校の吹奏楽部の,しかも記念演奏会ともなれば,これだけの観客が入るのは頷ける。学校の関係者が多かったんだろうけど,ぼくのように何のゆかりもない人間もいたはずだし,吹奏楽をやっているのかと思われる中学生も聴きに来ていたようだった。
● 例年のとおり3部構成。演奏された曲目を羅列するのはやめるけれども,第1部のスタートは舞踏劇『ラ・ペリ』より“ファンファーレ”。
この曲を聴いただけで,あぁと思った。巧いなぁっていう「あぁ」ですね。現時点で県内随一。それもぶっちぎりだろう。そう断言してしまおう。
● 個々の奏者の技量が高い。指導の問題ではなく(いや,それもあるんだろうけど),素質のある生徒を集めている結果だ。
そうした生徒が作新の門をたたこうとする。これまでの実績が彼ら彼女らを誘う。それがまた新たな実績につながる。伝統の力だ。
● 音楽科でもない高校の部活でやっている生徒たちがここまでの演奏をするのを聴くと,大げさにいえば,いわゆるひとつの奇跡を見るようだ。
佐藤邦弘「チューバとウィンドアンサンブルのための協奏曲」ではOBの田村優弥さんが登場。その田村さんと絡んで,フルート,オーボエ,サックスに気後れがないのは,あっぱれというしかないではないか。
● 第2部はポップス・ステージ。第1部に比べると,気を抜けるというか,観客サービスのための一格下のステージと受けとめがちだったけれども,違っていた。
何度も独奏を見せた女子生徒のフルート。レガートってこういうものだよという見本のようなもの。男子生徒のトランペットも客席をうならせた。しかも,それらは一例にすぎない。
客席を楽しませるのは大変なのだ。
● 春の「フレッシュグリーンコンサート」でも演奏した曲が多かったんだけれども,そのひとつが真島俊夫「カリビアン・サンダンス」。
スティールパンをまた聴くことができたのは,眼福ならぬ耳福だった。
● 2部で何度か登場したダンスも何気に巧い。少なくとも手を抜いていない。
清楚なお色気って,この年齢の女の子が踊ると,自然に出るものなんですかねぇ。これ,こちらに対抗する術がないんだよねぇ。やられるしかない。
● 第3部はドリル。これも「フレッシュグリーンコンサート」でやっており,今回のはその完成形といってよいものなのだろう。
ラインの動きの滑らかさ,速さ。ラインの交わりもスムーズ。
● というわけで,ひととおり見せてもらったわけだけれども,これでも東関東を突破して全国に行くのは叶わなかったとなると,全国に行ける吹奏楽というのは,どんなものなのか。
聴きに行けばいい話なんだけど,一般人でも入れるんですかね。
● 終演後の部長挨拶もこの演奏会の名物に数えていいかもしれない。立派な挨拶をするものだ。文言は事前に作っておくんだろうけれども,気持ちが入っている。
大人ではまずできないであろう挨拶をする。今回もしかり。
● さらにその後に余興(?)がある。1,2年生だけの演奏があった。「学生時代」だったか。もう充分に巧いわけで,あと1年間は県下の覇者は作新で,それが揺らぐことはあるまいと思われた。
2015.10.11 マロニエ交響楽団第3回定期演奏会
栃木県総合文化センター メインホール
● 2年に一度の定期演奏会。4年前の一度目の演奏会で感じた鮮烈な清新さは,今でも印象に強い。
演奏される曲目が何であっても聴きに行くつもりでいるけれど,今回はショスタコーヴィチの5番。
有名な曲のわりに生で聴く機会はさほどない。さほどっていうか,ぼくはこれまで一度も聴いたことがない。
● というわけで,出かけていった。開演は午後1時半。チケットは1,000円。曲目は次のとおり。
ベートーヴェン 序曲「レオノーレ」第3番
ドヴォルザーク チェロ協奏曲 ロ短調
ショスタコーヴィチ 交響曲第5番 ニ短調
● 指揮は曽我大介さん。曽我さんの指揮ぶりも鑑賞の対象であることは言うまでもない。
大きく躍動的な指揮。身体が柔らかい。指揮台が小さくて落ちないかと思うほどだったんだけど,そこは足裏がすべて憶えているんだろう。
それぞれのパートに入るタイミングを明確に指示する。奏者にはわかりやすくていいね(と思う)。これじゃどこで入ったらいのか,オケはわからないだろうな,と思わせる指揮者もいないわけじゃないもんな。
● この楽団の一番の特徴は何だろうかと考える。一途さ? 真面目さ? ストイックなところ? 狎れから免れているところ?
その前提としてやはり技術の問題がある。指揮者のいじりに応えられる技術。指揮者にいろんなオプションを提供できる技術。
この楽団のメンバーの多くは宇都宮大学管弦楽団のOB・OGで,音大卒ではない(と聞いている)。でもここまでやれますよ,という範例でしょ。
子どものころから楽器を始めた人もいるだろうし,音大に行こうと思えば行けた人も多いんだろうし,宇都宮大学管弦楽団の優秀な卒業生ではあっても,宇都宮大学を卒業したと言うには若干憚りがあるという人もけっこういるんだろうけど。
● ベートーヴェンのレオノーレ3番。偉そうな言い方を許していただければ,ベートーヴェンの非凡さ,傑出ぶりは,5番や9番を聴かなければわからないというものではない。この短めの曲を聴けば充分だ。
このあたりは,しかし,生で聴けばこそというところもある。CDだと(ベートーヴェンの序曲は2枚しか持っていないんだけど)ピンと来ないところもある。来る人のほうが多いんだろうとは思うんだけどね。
さらに言い募れば,ある程度以上の水準の演奏を生で聴けばこそ,というところがある。
● ドヴォルザークのチェロ協奏曲。ソリストは伊藤文嗣さん。言わずと知れた東京交響楽団の首席。
協奏曲は,でも,いくつかの例外を除いて,ソリストではなく管弦楽で決まると思っている。この曲もそうで,ソリストの聴かせどころは多々あるにしても,底の水準を決めるのは管弦楽だ。で,底の水準こそ重要だ。底が全体を作る。
● とはいえ,伊藤さんのチェロを聴けることなんか滅多にない(ぼくはプロオケの演奏をあまり聴かないので)。お得感がかなりある。
コンサートの費用をチケット収入だけで賄えるはずもないので,要は,団員の負担でこちらが得をしているということになる。申しわけないような気がする。
● さて,ショスタコーヴィチの5番。ショスタコーヴィチを聴くのに厄介なのは,彼がソヴィエト・ロシア(しかも,スターリンの時代)に生きた作曲家だということだ。
作曲家の自由な芸術創作vs社会主義の圧迫,という図式。ショスタコーヴィチの場合は,生命の危機と隣り合わせだったと言われる。
これを自分の中でどう折り合いをつけたらいいのかという脳内作業が発生する。この作業,落とし所がない。
● プログラムノートにも,「当時のスターリン独裁政権への批判を込めて作曲」しているとか,「スターリンの政治思想を強要され,思い通りの作曲活動が出来ない苦悩を感じ取ることが」できるとか,「恐怖で心を毒されながらも踊りを強要されるバレリーナ」のようだとか,ショスタコーヴィチの苦悩に思いをはせる解説が出てくる。
それがいかほどのものだったのか,想像のしようがない。それ以前に,本当にそうだったのかという思いもある。
● 彼の成果物である音楽を聴きながら,同時に作曲した彼の外部環境から彼の想いを想像して,その想像を音楽にフィードバックしたうえで,音楽を味わわなければならない。大変困る。脳に負荷がかかりすぎる。
音楽から彼の苦悩を感じとろうとすれば感じなくもない。このあたりにスターリンへの反発が窺われるのかと思いながら聴けば,なるほど窺われなくもない。
が,別の聴き方もいくらでもできるわけでね。どの聴き方が正解かということもないんだろうし。
● 落ち着きのない曲だなとは思った。初演が「ロシア革命20周年を祝う演奏会」だったから,社会主義を称揚しなければならなかったのだろう。一方で,自分が盛りこみたいのはこれじゃないということだったのか,と想像することはできる。結果,落ち着きを欠くことになったのか,と。
が,二度三度と聴けば,また違った印象を持つことになるかもしれない。
● 要するに,わからない。わからないものはわからないままにして,自分の中で飼っておくことだと思う。長いスパンでお付き合いすることが大事でしょ。簡単にわかろうとしないほうがいい。
● 2年に一度の定期演奏会。4年前の一度目の演奏会で感じた鮮烈な清新さは,今でも印象に強い。
演奏される曲目が何であっても聴きに行くつもりでいるけれど,今回はショスタコーヴィチの5番。
有名な曲のわりに生で聴く機会はさほどない。さほどっていうか,ぼくはこれまで一度も聴いたことがない。
● というわけで,出かけていった。開演は午後1時半。チケットは1,000円。曲目は次のとおり。
ベートーヴェン 序曲「レオノーレ」第3番
ドヴォルザーク チェロ協奏曲 ロ短調
ショスタコーヴィチ 交響曲第5番 ニ短調
● 指揮は曽我大介さん。曽我さんの指揮ぶりも鑑賞の対象であることは言うまでもない。
大きく躍動的な指揮。身体が柔らかい。指揮台が小さくて落ちないかと思うほどだったんだけど,そこは足裏がすべて憶えているんだろう。
それぞれのパートに入るタイミングを明確に指示する。奏者にはわかりやすくていいね(と思う)。これじゃどこで入ったらいのか,オケはわからないだろうな,と思わせる指揮者もいないわけじゃないもんな。
● この楽団の一番の特徴は何だろうかと考える。一途さ? 真面目さ? ストイックなところ? 狎れから免れているところ?
その前提としてやはり技術の問題がある。指揮者のいじりに応えられる技術。指揮者にいろんなオプションを提供できる技術。
この楽団のメンバーの多くは宇都宮大学管弦楽団のOB・OGで,音大卒ではない(と聞いている)。でもここまでやれますよ,という範例でしょ。
子どものころから楽器を始めた人もいるだろうし,音大に行こうと思えば行けた人も多いんだろうし,宇都宮大学管弦楽団の優秀な卒業生ではあっても,宇都宮大学を卒業したと言うには若干憚りがあるという人もけっこういるんだろうけど。
● ベートーヴェンのレオノーレ3番。偉そうな言い方を許していただければ,ベートーヴェンの非凡さ,傑出ぶりは,5番や9番を聴かなければわからないというものではない。この短めの曲を聴けば充分だ。
このあたりは,しかし,生で聴けばこそというところもある。CDだと(ベートーヴェンの序曲は2枚しか持っていないんだけど)ピンと来ないところもある。来る人のほうが多いんだろうとは思うんだけどね。
さらに言い募れば,ある程度以上の水準の演奏を生で聴けばこそ,というところがある。
● ドヴォルザークのチェロ協奏曲。ソリストは伊藤文嗣さん。言わずと知れた東京交響楽団の首席。
協奏曲は,でも,いくつかの例外を除いて,ソリストではなく管弦楽で決まると思っている。この曲もそうで,ソリストの聴かせどころは多々あるにしても,底の水準を決めるのは管弦楽だ。で,底の水準こそ重要だ。底が全体を作る。
● とはいえ,伊藤さんのチェロを聴けることなんか滅多にない(ぼくはプロオケの演奏をあまり聴かないので)。お得感がかなりある。
コンサートの費用をチケット収入だけで賄えるはずもないので,要は,団員の負担でこちらが得をしているということになる。申しわけないような気がする。
● さて,ショスタコーヴィチの5番。ショスタコーヴィチを聴くのに厄介なのは,彼がソヴィエト・ロシア(しかも,スターリンの時代)に生きた作曲家だということだ。
作曲家の自由な芸術創作vs社会主義の圧迫,という図式。ショスタコーヴィチの場合は,生命の危機と隣り合わせだったと言われる。
これを自分の中でどう折り合いをつけたらいいのかという脳内作業が発生する。この作業,落とし所がない。
● プログラムノートにも,「当時のスターリン独裁政権への批判を込めて作曲」しているとか,「スターリンの政治思想を強要され,思い通りの作曲活動が出来ない苦悩を感じ取ることが」できるとか,「恐怖で心を毒されながらも踊りを強要されるバレリーナ」のようだとか,ショスタコーヴィチの苦悩に思いをはせる解説が出てくる。
それがいかほどのものだったのか,想像のしようがない。それ以前に,本当にそうだったのかという思いもある。
● 彼の成果物である音楽を聴きながら,同時に作曲した彼の外部環境から彼の想いを想像して,その想像を音楽にフィードバックしたうえで,音楽を味わわなければならない。大変困る。脳に負荷がかかりすぎる。
音楽から彼の苦悩を感じとろうとすれば感じなくもない。このあたりにスターリンへの反発が窺われるのかと思いながら聴けば,なるほど窺われなくもない。
が,別の聴き方もいくらでもできるわけでね。どの聴き方が正解かということもないんだろうし。
● 落ち着きのない曲だなとは思った。初演が「ロシア革命20周年を祝う演奏会」だったから,社会主義を称揚しなければならなかったのだろう。一方で,自分が盛りこみたいのはこれじゃないということだったのか,と想像することはできる。結果,落ち着きを欠くことになったのか,と。
が,二度三度と聴けば,また違った印象を持つことになるかもしれない。
● 要するに,わからない。わからないものはわからないままにして,自分の中で飼っておくことだと思う。長いスパンでお付き合いすることが大事でしょ。簡単にわかろうとしないほうがいい。
2015年10月5日月曜日
2015.10.04 東京楽友協会交響楽団第99回定期演奏会
すみだトリフォニーホール 大ホール
● 東京楽友協会交響楽団の演奏会にお邪魔するのは,今回が初めて。すでに99回目の定演になるのだから,かなり古い楽団なのだろう。っていうか,古いわけですね。長く続けてきた実績のある楽団。
開演は午後1時半。チケットは1,000円。当日券を購入した。
● 指揮は寺本義明さん。本職(?)はフルート奏者。プログラムノートの紹介によると,東京都交響楽団の首席を務めている。
大学は音大ではなく京大文学部。音大に在籍したことはないようだ。それでもって,日音コンクールで第2位になっている。
都響のサイト情報によれば,小4でフルートを始めているんですね。芸大も考えたけれども,京大に進んだとあった。勉強そっちのけで音楽に没頭していたんだろうと思いたいんだけど,勉強もそこそこ以上にやっていたらしい。
困るなぁ,こういう人にいられると。
● ところで,その都響サイトの団員紹介「私の音楽はじめて物語」は読みごたえがありますな。たとえば,田口美里さんなんか,桐朋高校時代は学校で夜10時まで練習して,帰宅は0時。朝は4時に起きて親に車で学校まで送ってもらって,1限目の授業が始まるまで練習したとある。
そういう人たちがプロの奏者になっていくわけだ。こちらはお気楽にその演奏を聴いて,勝手な感想を持つわけだけれども,彼ら彼女らがそこまでやっていた一時期を持っていることは知っておくべきなんでしょうね。
● さて,プログラムは次のとおり。
マーラー 交響曲第10番 嬰ヘ長調「アダージョ」
マーラー 交響曲第5番 嬰ハ短調
マーラーの5番は8月にも聴いているしな,どうしようかな,と少し迷った末に出かけたわけなんだけど,いや,出かけて正解でした。
● ぼくはプロオケの演奏ってあまり聴いたことがない。理由ははっきりしていてチケットが高いからだ。今のところはとにかく回数を聴きたいなと思っていて,財布と相談すれば(相談するまでもないんだけど)アマオケの演奏に足が向くことになる。
で,しばしば思うことは,アマチュアといっても相当な水準の楽団が,特に東京には多いってこと。呆れるくらいに上手なところがある。
● 実際のところ,演奏を聴いて,そこからこちらが持ち帰れるものの質量は,必ずしも奏者側の技術には比例しないところがある。聴衆の一人として巧さが絶対だとは思っていない。
こめた思いだとか,一回にかける真摯さとか,演奏に影響を与える要素は技術のほかにもある。だから,中学生や高校生の演奏のほうが,プロの演奏より長く記憶に残ることだってある。
● とはいえ,技術があってそこに思いや真摯さが加わった演奏をされれば,こちらとしてはグーの音も出ないわけで,それが一番いいに決まっている。
そういう演奏って,初発の音が届いた瞬間に,こちらの雑念を吹き飛ばしてくれる。ぼくはコンサート禅と言っているんだけど,脳内が音で満たされる。無心になれる。
● 普通に人生をやっていれば,日々の8割は苦に染まる。楽しいこと,ワクワクすること,そうしたものだけで1日,1週間を過ごせる人なんて,学生の中にだっていないだろう。年齢にかかわらず,人は苦に翻弄されるものだろう。
ホールに足を運んで現に演奏を聴きながら,でもそうした苦の断片が次から次へと去来してやまなかったことも,一度や二度ではない。
● であればこそ,コンサート禅に入れる演奏に出会えると,しみじみとありがたく思える。今回の演奏はそれだった。
これがマーラーだったのかという感慨もあった。これがマーラーだ,なんてのは実際にはあるわけがない。もしそんなのがあるんだったら,それでマーラーは終わってしまう。
それぞれの1回ごとの演奏がマーラーの表現であって,もちろんそれが前提なんだけれども,マーラーってこうだったのかと,客席のぼくは思った。
個々のパートがどうのこうのという話ではなく,交響楽ってこういうものだったのか,とも。よく使われる表現だけれども,オーケストラというひとつの楽器になっているのだった。
● 東京楽友協会交響楽団の演奏会にお邪魔するのは,今回が初めて。すでに99回目の定演になるのだから,かなり古い楽団なのだろう。っていうか,古いわけですね。長く続けてきた実績のある楽団。
開演は午後1時半。チケットは1,000円。当日券を購入した。
● 指揮は寺本義明さん。本職(?)はフルート奏者。プログラムノートの紹介によると,東京都交響楽団の首席を務めている。
大学は音大ではなく京大文学部。音大に在籍したことはないようだ。それでもって,日音コンクールで第2位になっている。
都響のサイト情報によれば,小4でフルートを始めているんですね。芸大も考えたけれども,京大に進んだとあった。勉強そっちのけで音楽に没頭していたんだろうと思いたいんだけど,勉強もそこそこ以上にやっていたらしい。
困るなぁ,こういう人にいられると。
● ところで,その都響サイトの団員紹介「私の音楽はじめて物語」は読みごたえがありますな。たとえば,田口美里さんなんか,桐朋高校時代は学校で夜10時まで練習して,帰宅は0時。朝は4時に起きて親に車で学校まで送ってもらって,1限目の授業が始まるまで練習したとある。
そういう人たちがプロの奏者になっていくわけだ。こちらはお気楽にその演奏を聴いて,勝手な感想を持つわけだけれども,彼ら彼女らがそこまでやっていた一時期を持っていることは知っておくべきなんでしょうね。
● さて,プログラムは次のとおり。
マーラー 交響曲第10番 嬰ヘ長調「アダージョ」
マーラー 交響曲第5番 嬰ハ短調
マーラーの5番は8月にも聴いているしな,どうしようかな,と少し迷った末に出かけたわけなんだけど,いや,出かけて正解でした。
● ぼくはプロオケの演奏ってあまり聴いたことがない。理由ははっきりしていてチケットが高いからだ。今のところはとにかく回数を聴きたいなと思っていて,財布と相談すれば(相談するまでもないんだけど)アマオケの演奏に足が向くことになる。
で,しばしば思うことは,アマチュアといっても相当な水準の楽団が,特に東京には多いってこと。呆れるくらいに上手なところがある。
● 実際のところ,演奏を聴いて,そこからこちらが持ち帰れるものの質量は,必ずしも奏者側の技術には比例しないところがある。聴衆の一人として巧さが絶対だとは思っていない。
こめた思いだとか,一回にかける真摯さとか,演奏に影響を与える要素は技術のほかにもある。だから,中学生や高校生の演奏のほうが,プロの演奏より長く記憶に残ることだってある。
● とはいえ,技術があってそこに思いや真摯さが加わった演奏をされれば,こちらとしてはグーの音も出ないわけで,それが一番いいに決まっている。
そういう演奏って,初発の音が届いた瞬間に,こちらの雑念を吹き飛ばしてくれる。ぼくはコンサート禅と言っているんだけど,脳内が音で満たされる。無心になれる。
● 普通に人生をやっていれば,日々の8割は苦に染まる。楽しいこと,ワクワクすること,そうしたものだけで1日,1週間を過ごせる人なんて,学生の中にだっていないだろう。年齢にかかわらず,人は苦に翻弄されるものだろう。
ホールに足を運んで現に演奏を聴きながら,でもそうした苦の断片が次から次へと去来してやまなかったことも,一度や二度ではない。
● であればこそ,コンサート禅に入れる演奏に出会えると,しみじみとありがたく思える。今回の演奏はそれだった。
これがマーラーだったのかという感慨もあった。これがマーラーだ,なんてのは実際にはあるわけがない。もしそんなのがあるんだったら,それでマーラーは終わってしまう。
それぞれの1回ごとの演奏がマーラーの表現であって,もちろんそれが前提なんだけれども,マーラーってこうだったのかと,客席のぼくは思った。
個々のパートがどうのこうのという話ではなく,交響楽ってこういうものだったのか,とも。よく使われる表現だけれども,オーケストラというひとつの楽器になっているのだった。
● これまでマーラーは何度か聴いているけれども,最もこちらの芯に響いてきたといいますか。聴き終えたあとの満足感。
視覚的にも美しい楽団だった。もちろん,演奏中の話。
● ステージ上の奏者だって,人生の8割は苦というのは同じはずだ。彼らだけが苦とは無縁なんぞということはあり得るはずがない。
ひょっとしたら音楽それそのものが苦の種になっているかもしれない。ぼくにとっては,音楽は楽しみの対象で貫徹しているけれども,それは百パーセント聴く側にいるからだ。
楽団を運営する責任を担っている人は,それで胃が痛くなる思いをしているかもしれない。その分,それを越えてやりとげたあとの達成感が一入なのだとしても。
● 同時に,彼ら彼女らにとっては,楽器に触れ,あるいはステージに立つことが,苦を忘れる方便なのだろう。そう考えないと,こちらは人を踏み台にして,自分の苦から逃れる時間を作っていることになってしまう。
彼ら彼女らはボランティアで,こちらはそのボランティアで癒やされる側になってしまう。それはそれでイヤな立ち位置ではないのだけれども,可能であれば,持ちつ持たれつだと思いたい。
視覚的にも美しい楽団だった。もちろん,演奏中の話。
● ステージ上の奏者だって,人生の8割は苦というのは同じはずだ。彼らだけが苦とは無縁なんぞということはあり得るはずがない。
ひょっとしたら音楽それそのものが苦の種になっているかもしれない。ぼくにとっては,音楽は楽しみの対象で貫徹しているけれども,それは百パーセント聴く側にいるからだ。
楽団を運営する責任を担っている人は,それで胃が痛くなる思いをしているかもしれない。その分,それを越えてやりとげたあとの達成感が一入なのだとしても。
● 同時に,彼ら彼女らにとっては,楽器に触れ,あるいはステージに立つことが,苦を忘れる方便なのだろう。そう考えないと,こちらは人を踏み台にして,自分の苦から逃れる時間を作っていることになってしまう。
彼ら彼女らはボランティアで,こちらはそのボランティアで癒やされる側になってしまう。それはそれでイヤな立ち位置ではないのだけれども,可能であれば,持ちつ持たれつだと思いたい。
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