2016年5月23日月曜日

2016.05.21 西尾真実ピアノ・リサイタル

栃木県総合文化センター サブホール

● 開演は午後6時半。チケット(前売券)は2,000円。4年前にも同じこのホールで西尾さんのリサイタルがあった。そのときのチケットは1,000円だった。倍の料金を取れるまでに大きくなりましたよ,ということですかね。
 4年前は,平日の夜だったんだけど,お客さんの入りは3割程度だった。今回は客席の7~8割は埋まっていた。土曜日だったからってのがあるにしても,かなりのもの。

● プログラムは次のとおり。
 スカルラッティ 3つのソナタ(K466,K159,K380)
 シューベルト 3つのピアノのための曲
 バッハ(ブゾーニ編) シャコンヌ
 スクリャービン 左手のための前奏曲と夜想曲
 スクリャービン 2つの詩曲
 スクリャービン ピアノソナタ第4番

● 前回はバッハ,ハイドン,ショパン,リスト,チャイコフスキー,スクリャービンだった。そのときは「彼女自身は本当はショパンが一番好きなんじゃないのかなぁ」と感じたんだけど,今回,ショパンはなし。
 調子に乗っていらんことを言うものじゃないね。

● スッキリした演奏だった。夾雑物がなくなってスッキリしたという感じ。
 ただ,このスッキリしたという感想は,彼女の外見の変化に引きずられての結果かもしれなくてね。髪型を少し変えていて,それが顔全体にスッキリ感を与えていたっぽい。
 その結果として,演奏もそういうふうに聞こえたというところが,ひょっとしたらあるかもしれない。

● というようなことを書くと,何を言っとるんだ,おまえは,と叱られると思うんだけど,これは案外,看過できない問題を含んでいるんじゃないかとも思うんですよね。
 外見に引きずられるっていうのは,ぼくに限らず,聴衆にはわりとありがちなんじゃないかと思うのでね。普通のクラシックファンの平均的な耳の感度というのは,その程度のものじゃないのかな,と。

● ステージに立つ以上,外見を等閑に付すわけにはいかない。聴衆に見られるんだから,それは当然なんだけれども,それがじつは聴衆の耳にも影響を与える。
 もしそうなら,自分が客席からどう見えるかについては,細心のうえにも細心であるべし,ということになる。聴衆は評価者でもあるわけだから。

● その評価って,かけ算九九もろくにできない者が微積分の答案を採点するようなものではあるんだけど,そうであっても最終的な評価者は聴衆しかいない。お金を出してチケットを買うのは聴衆だもん。
 その聴衆の耳(評価眼)を外見で動かすことができるんだったら,それを目一杯利用するのは,ステージに立つ者のむしろ義務であるかもしれない。
 
● 舞台捌きに慣れたようでもある。4年前に比べると客席を見る余裕もあったし,所作も柔らかくなっていたし,袖から登場するときや逆に退場していくときの歩き方にしても,自分のスタイルができたようでもある。
 たぶん,オーケストラとの共演が,そのあたりの呼吸を会得させてくれたのかなぁと思うんだけど,余計な推測だね。

● 以上は徒し事。演奏じたいがたしかに変わっていたと思う。コンクールに優勝するなど,成果を出せた満足感のゆえか。あるいは音楽活動以外の面で大きな変化があってのことなのか。そのあたりはもちろんわからないけれども,吹っ切れた感,視界良好感といったものを発散していたと感じた。
 それをオーラと言ってもいいのだとすれば,オーラが大きくなった。さらに言い換えれば,存在感が大きくなった。

● バッハの「シャコンヌ」には圧倒される。ブゾーニの功績に帰せられるんだろうけど,ピアノの持つ多重的,多層的な表現能力を存分に発揮させて,立体感と奥行きを持たせている。
 ムソルグスキーの「展覧会の絵」を管弦楽版に編曲したラヴェルは,その編曲で天才の名を欲しいままにしている(していない?)。ブゾーニも同じですか。

● このあとに,スクリャービンの「左手のための前奏曲と夜想曲」。その対比というか落差の妙。

● というわけで,充実のうちに終了。
 彼女のピアノはまたいずれ地元で聴く機会があるに違いない。栃木県内のオーケストラにソリストとして招聘されることもあるだろうし。

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