2016年10月31日月曜日

2016.10.29 第21回コンセール・マロニエ21 本選

栃木県総合文化センター メインホール

● コンセール・マロニエ21のやり方が今回から大きく変わった。前回までは,声楽,ピアノ,弦,木管,金管の5部門を,2部門ずつ開催してきた。
 したがって,本選は正午から始まって,終了は18時を過ぎるというロングランだった。

● 今回から1部門開催になった。奏者の持ち時間を増やしてきたようではあるけれど,13時に始まって15時30分に終了した。時間も半分になった。
 その代わり,表彰式までステージでやるようにした。従来は会場内のレストランでやっていたようなのだが。

● プログラム冊子に載せている審査員長の沼尾雄司さんの「ご挨拶」の文章を読めたことが,今回の一番目の収穫だ。
 芸術を採点し,順位をつけることなど本来できません。そこには様々な尺度があり,ひとつのひとつの基準を設定することは不可能です。もしもひとつの基準だけになってしまったら,それはもはや芸術ではない何か別のものだと言わざるをえないでしょう。
 ではなぜ,コンクールが存在するのか。参加者にとっての意義,審査員や聴き手にとっての意義を述べている。
 聴き手や審査員にとっても,コンクールは自らの音楽経験を振り返る,大変よい機会になります。まだ世の中には出ていない若い演奏家たちと出会い,一体,自分が彼らの「何を」「どのように」評価し得るのだろうと問うてみることは,間違いなく聴き手を成長させるものでしょう。
● とはいえ,世間は実も蓋もないところがあって,1位者に仕事をさせたがる。彼には仕事の依頼が殺到し,2位以下の者には依頼が来ない。
 コンセール・マロニエがそこまでの影響を持つコンクールかというのは別にして(っていうか,1位になってもなかなか仕事が来ないというのが,実際のところなのかもしれない。現実はかなり厳しい),それでも結果の数字が一人歩きを始めることは,ごく普通にある。

● 次なる収穫は,コンクールでしか聴けない曲を聴けるということだろうか。特に金管部門に顕著だけれど,普通のコンサートではまず舞台にかからない曲を聴くことができる。
 ぼく一個にとっては,演奏者が世に出ているかいないかはどうでもいいことだ。コンクールのファイナルに残るほどの人たちの演奏だ。まずもって不満のあろうはずがない。
 おそらくだけれど,四半世紀単位で過去を振り返ると,このクラスの演奏水準は相当に切りあがっているのではないかと思う。今の普通は昔の普通ではない。

● ともあれ。今回は声楽。トップバッターは陳金鑫さん(バリトン)。中国の黒竜江省の出身で,現在は藝大の院で学んでいる。歌ったのは次の3曲。ピアノ伴奏は奥千歌子さん。
 R.シュトラウス 「8つの歌」より“8.万霊節”
 ジョルダーノ 歌劇「アンドレア・シュニエ」より“祖国の敵”
 グルック ああ私のやさしい熱情が

● あたりまえのことを感じた。歌うのは日本人である必要はないのだ。音楽に国境はないという事実。
 同時に,それはヨーロッパ生まれのヨーロッパ育ちの音楽だという事実も。ヨーロッパの普遍性のようなものも,癪だけれども思わないわけにはいかない。

● 陳さん,漢民族ではなく,モンゴル系の人ではないか。だからということではないのだけれども,懐かしい声だ。そう,懐かしい。かつてどこかで聴いたことがあるような。
 素朴さを感じた。素朴である分,間口が広い。聴衆を選ばない。

● 次は和田しほりさん(ソプラノ)。2年前のこのコンクールに出ていた。歌ったのは次の3曲。ピアノ伴奏は矢崎貴子さん。
 R.シュトラウス 「6つの歌」より“3.美しい,けれど冷たいのだ天の星たちは”
 レオンカヴァッロ 歌劇「道化師」より“鳥の歌”
 ドニゼッティ 歌劇「アンナ・ボレーナ」より“わたしの生まれたお城”

● 「道化師」も「アンナ・ボレーナ」も,オペラとしてはわりとマイナーなのではないか。そうしたオペラのアリアもまた,生で聴ける機会はそうそうないとしたものだ。
 このあたりが聴き手にとってのコンクールの功徳であるわけだ。

● ところで,その聴衆なんだけど,回を追うごとに増えているように思う。ガラガラという範疇での話だけれど,前はほんとにパラパラだった。それが,けっこう入るようになっている。
 理由はわからない。コンクールのお得さがだんだん認知されてきたんだろうか。

● 佐藤亜理沙さん(ソプラノ)。藝大の院生。
 ドボルザーク 「ジプシーの歌」より
  “1.私の愛の歌が再び響く”
  “2.ああ,私のトライアングルは何て美しく響くの”
  “3.あたりの森は静まり返り”
  “4.老いた母が教えたまいし歌”
  “5.弦の調子に合わせて”
  “6.幅広い袖とゆったりとしたズボン”
  “7.鷹に金の鳥籠を与えても”
 プッチーニ 歌劇「マノン・レスコー」より“ひとり淋しく捨てられて”
 「ジプシーの歌」をこれだけ聴ける機会も,たぶんこの先ないのじゃないかと思う。ピアノ伴奏は木邨清華さん。

● 佐藤さんに限らないのだけれども,声楽の人たちって登場するときからにこやかだ。声楽家特有のサービス精神が若い頃から身についてる。
 そこから出発した方が声が出やすいんだろうか。

● ヴィタリ・ユシュマノフさん(バリトン)。ロシアはサンクトペテルブルクの出。すでにCDもリリースしているなど,実績のある人ですね。
 ジョルダーノ 歌劇「アンドレア・シュニエ」より“祖国の敵”
 トスティ 「アマランタの4つの歌」より“1.私をひとりにしてくれ!息をつかせてくれ”
 ヴェルディ 歌劇「ドン・カルロ」より“私の最後の日が参りました”

● この人の凄さは,ピアノの伴奏でアリアを歌っているのに,オペラ全体の場面,つまり舞台の設えや登場人物の配置など,を彷彿とさせるところだ。役になりきることが上手いというか,スッと没入できるゆえかもしれないと思った。
 山田剛史さんのピアノもそれを助けていたかもしれない。攻めの伴奏という感じでね。

● 飯塚茉莉子さん(ソプラノ)。ピアノ伴奏は原田園美さん。
 R.シュトラウス 「4つの歌」より“2.チェチリーエ”
 ドニゼッティ 歌劇「アンナ・ボレーナ」より“わたしの生まれたお城~邪悪な夫婦よ”

● 安心して聴いていられる。安定感がある。すでに相当な場数を踏んでいるのだろう。

● 上田純子さん(ソプラノ)。今回,唯一の地元出身者。ピアノ伴奏は矢崎貴子さん。
 ラフマニノフ 「6つの歌」より“4.歌わないでおくれ,美しい人よ”
 モーツァルト 歌劇「イドメネオ」より“お父様,お兄様たち,さようなら”
 グノー 歌劇「ファウスト」より“宝石の歌”

● カルメンのミカエラ役が似合いそうな人。これは見た目の印象。
 細密な声質の持ち主。細密な声質というのも妙な言い方だけれども,声が粒の集合だとすると,その粒が小さく,その代わり数が多いという感じ。

● 山下裕賀さん(メゾ・ソプラノ)。ピアノ伴奏は奥千歌子さん。
 ブラームス 「ダウマーによるリートと歌」より“8.風もそよがぬ生ぬるい空気”
 ブラームス 「5つの詩」より“5.エオリアンハープに寄す”
 ドニゼッティ 歌劇「ラ・ファヴォリータ」より“ああ,私のフェルナンド”

● 圧倒的な声量と音圧が客席を圧倒した。スター誕生。歌うために生まれてきた人なんだなと思った。

● 以上で終了。このあとすぐに表彰式があるとのアナウンスがあったけれども,表彰式は見ないで会場をあとにした。結果(順位)は知らない方が,このブログを書きやすいので。
 この種のコンクールって運もあるね。今回の入賞者はかなり水準が高かったのじゃないか。

2016年10月25日火曜日

2016.10.22 宇都宮シンフォニーオーケストラ 秋季演奏会

栃木県総合文化センター メインホール

● この日は宇都宮市の大通りでJBCF宇都宮クリテリウムが開催された。宇都宮市内で開催されるイベントとしては,メインの位置に登りつめた感がある。
 何気にバスに乗ったら,大通りを走れないので遠回りするよ,というアナウンスがあった。すべての車が大通りを締めだされるわけなので,迂回路になる道路も混む。総合文化センターくらいだったら,歩いた方が速かったね。

● 自転車に乗る人,ずいぶん増えたと思う。その大半は自転車で通勤したり,休日にサイクリングに出かけたりする程度のライトな自転車乗りだろう。ジャパンカップなんか観戦しても仕方あるまいと思うんだけど,そこはそれ,自分とは隔絶した世界の人たちが競う様を生で見る感動というものがあるだろう。
 で,思うんだけど,音楽を聴く人と自転車に乗る人はけっこうかぶるんじゃないか。自分がそうだから尚更そう思うのかもしれないけれども,音楽と自転車ってけっこう相性がいいように思う。

● 自転車を趣味にしている人って,学校の体育の成績は悪かった人が多い。自転車と山歩き(トレッキング)のふたつは,ウンチ(運動音痴)でも楽しめる。
 でもって,音楽ファン(聴く方の)もウンチが多いんじゃないかと思ってるんだけどね。
 ともあれ,宇都宮シンフォニーオーケストラとクリテリウム,両方を見たい。が,どちらかひとつしか選択できない。となれば,ためらいなく前者を取るわけだが。

● “ベートーヴェン・チクルスvol.5”と銘打たれている。途中,ブラームスやブルックナーを演奏したこともあるので,チクルスというには少々時間がかかりすぎているかも。
 とはいえ,順調に回を重ねて,そろそろ次は第九をやるのかなと思わせる。

● この楽団の演奏は2009年から聴いている。途中までわりと距離を感じたというか,遠い存在だった。理由はわからない。
 が,聴く回数が増えるにつれて,その距離感がとれてきた感じ。そこは自ずとそうなるものだろうけどね。

● 開演は午後3時。チケットは1,000円。当日券を購入。
 曲目は次のとおり。当然,オール・ベートーヴェン。指揮は石川和紀さん。
 歌劇「フィデリオ」序曲
 ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調「皇帝」
 交響曲第6番 へ長調「田園」

● コンミスは今回も高木早紀さん。賛助という形なんだけど,彼女がいるといないとではだいぶ違う(ように思える)。
 「フィデリオ」序曲でまずはお披露目。市民オーケストラって,国内にどれほどの数で存在するのか。そのすべてを聴くなどとは,冗談でも言ってはいけない数だろう。
 したがって,市民オケのアベレージがどのくらいのものなのか,ぼくにはわかりかねる。あくまで自分が聴いたことのあるわずかな数しか踏まえない発言なんだけれども,この楽団はその水準を抜いていると思われる。
 しっかりとした安定感がある。これが「フィデリオ」の序曲なんだよ,わかった? って言ってるようなね。

● ピアノ協奏曲の5番。ソリストは栗田奈々子さん。若き見目麗しいピアニスト。現在はドイツに留学中。
 若いだけじゃない。見目麗しいだけじゃない。本当に自分にわかっているんだろうかと不安を抱えながら申しあげると,才能が迸るような演奏を見せてくれる。生まれてくるのがあと30年か40年も早ければ,ビッグネームとはいかないまでも,すでにミドルネームにはなっているのではないか。

● しかるに,毎年毎年,若い才能が登場するのに,年寄りがなかなか引退しない。したがって,席が空かない。滞留が生じる。流れが悪くなる。若い演奏家は明らかに割を喰っている。
 だからぼくらは,若い演奏家を応援しようではないか。栗田奈々子,憶えておくに値する名前だろう。

● 「田園」はベートーヴェンの9つの交響曲の中では,わりとつまらない1曲ではないかと思っている(ベートーヴェンの9つの交響曲の中では,だよ)。
 5楽章という破天荒な構成を採用した。「田園」とは言いながら,単純な風景描写ではないのかもしれない。けれども,退屈を感じることがあるんだよね。おまえだけだよ,って言われるかもしれないんだけどさ。

● もっとも,聴き手からすればそうでも,奏者側,特にオーボエ奏者に言わせれば,絶対につまらない曲ではないんだろうな。
 ここでも安定した演奏で(とはいえこれだけの曲なんだからノーミスはあり得ない),こちらとしては「田園」に遊ぶことができた。

● で,最初に戻るんだけれど,交響曲は9番しか残っていないのじゃないか。たぶんそうじゃないかなぁ。交響曲なしの演奏会はちょっとないだろうから,次はやはり第九かねぇ。
 合唱団とソリストはどう手当てするのか。それを含めて楽しみだぞ。

2016年10月15日土曜日

2016.10.15 間奏50:弦楽四重奏は聴き手を鍛えてくれる?

● 12日(水)に宇都宮市の総合文化センターで弦楽四重奏のコンサートがあった。当日券で聴きに行こうと思っていたんだけど,こういうときに限って仕事が延びるというのは,ままあることだ。
 結局,間に合いそうになくて,断念した。

● なんだけど,行けたとしても行ったかどうか,われながら疑念がある。気乗りがしなかったのも事実なので。
 こんなブログを書いているんだから,足繁く通って,その体験を面白い読みものとして再現する。その作業をもっと緻密に,もっと力を注いでやらないといけない。
 だから,気乗りがしないなどと言っていないで,行くべきなのだろうな。

● もっとたくさん聴いて,聴き手としての自分を鍛えなければ。今からでは手遅れだなどと,後ろ向きになっていないで。
 ライヴもそうだけれども,CDも活用しないとね。せっかく今の恵まれた環境(スマホやウォークマンで,どこでも聴ける)に生きているのだから。
 そうやって地道にCD(をリッピングした楽曲データ)を聴いて,聴き手として成長すること。かつ,その過程じたいを楽しいものにすること。

● そうしたうえで,演奏する側の人たちの背中を押せるようなブログを書けるようになること。そうじゃなければブログを書いている意味がない。自己満足でもいいんだけどさ。
 どうせなら,読んでもらえるブログ,参考にしてもらえるブログをめざしたい。媚びなくても奏者に伝わるブログでありたい。

● 12日のほかにも,8日と10日にも地元(宇都宮,大田原)で弦楽四重奏のコンサートがあったのだ。弦楽四重奏の集中ウィークだった。いずれもプロの奏者。
 これらも聴くつもりではいたんだけど,それぞれ理由があって,聴くことは叶わなかった。

● 小規模の演奏は,奏者にとってもごまかしが利かないという意味で,緊張するものだろう。聴く側にとっても鑑賞能力を問われることになる。オーケストラと違って,ひっかかりが少ない。聴き手にとっても逃げ場がない。
 それを文章にして公開するとなると,とんでもなくピンぼけたことを書いてしまわないかと怖れる。

● でも,その経験を重ねていかないとしょうがない。弦楽四重奏に限らず,小規模で演奏されるものの方が,聴き手を鍛えてくれる。
 その分,何と言うのかな,少々気重にさせるところもあるわけですね。

2016年10月14日金曜日

2016.10.10 豊島区管弦楽団 第84回定期演奏会

板橋区立文化会館 大ホール

● 昨日は早とちりをして,錦糸町に向かうべきところを荻窪に行ってしまった。今日はそういうことのないように再度チェック。
 宿泊していたホテルから芝公園まで歩いて,都営三田線で板橋区役所前駅まで乗る。

● 会場の板橋区立文化会館に行くのは初めてだ。板橋区役所前駅から徒歩約7分とあった。が,その倍はかかったと思う。もっとかかったかもしれない。
 たぶん,遠回りをしてしまったんだと思う。途中,グリーンホールというのがあった。これも区立の施設ではないのかと思うんだけど,これはまた別のもの。
 ここから文化会館はすぐそこという距離のはず。なんだけど,ここからどちらに行けばいいのかわからなくなった。

● グリーンホールに付近の案内図があった。グリーンホールと道路を挟んだ反対側に板橋大山公園がある。それも案内図には載っている。
 したがって現在地はわかる。まぎれがない。しかし,どうもグリーンホールと大山公園の位置関係が地図とは逆のようなのだ。
 ということはつまり,どっちに行けばいいのか。右に行ったらいいのか左に行ったらいいのかがわからない。

● ま,しかし,無事に到着した。かなりの余裕をみて到着したはずなので,入場する前に遅めの昼食を摂っておこうと思っていた。んだけど。
 午後3時開演と思っていたら,2時開演だった。結果的にそれでもセーフだったんだけど,昨日に続いての勘違い。どうしちゃったのかね。

● 昼食の時間はない。当日券(800円)を買ってすぐに入場。曲目は次のとおり。
 グラズノフ 交響曲第9番 ニ短調
 ショスタコーヴィチ 交響曲第9番 変ホ長調
 ドヴォルザーク 交響曲第9番 ホ短調「新世界より」 
 「3曲の交響曲第9番を組み合わせた,珍しいプログラム」ということ。

● 指揮は和田一樹さん。その和田さんが「ハイアワサの歌」を紹介している。飢饉で妻を亡くす男の話。アメリカ先住民の話だ。
 じつは,ドヴォルザークはそれを第2楽章に取り入れているのではないかというのだ。「ハイアワサの妻のミネハハが飢餓と熱病に侵されつつもハイアワサを呼びながら息絶える様子を美しく表現している」と。
 “新解釈”といっていいのだろうか。少なくとも,ぼくは「ハイアワサの歌」をまったく知らなかったから。

● 「家路」のイメージが植え付けられているからね,これが息絶える様子を表現しているとは驚いた。そうだと思って聴けば,思えなくもない。静かで染みてくるような音楽だから。
 が,たぶん,違うと思うなぁ。飢餓と熱病と死。どう表現しても,こうはならないような気がする。死以外のものを表現していると思う。それが何なのかはわからないけれど。

● ちなみに,望郷の思いでもないと思うんですよねぇ。この時期,ドボルザークはホームシックにかかっていたとも言われるんだけれども,それをストレートに出してはいないような気がするなぁ。
 ま,このあたりの解釈というか受けとめ方は,徹頭徹尾,主観で通せるから,いかようにでもなるというところがあるんだろうけど。

● ショスタコーヴィチの9番。ショスタコーヴィチのしたたかさを感じる人が多いのじゃないかと思う。ぼくもその一人だ。
 周囲(=ソヴィエト上層部=スターリン)の期待,要望をわかっていながら,軽快でユーモラスな曲に仕上げて差しだした。もちろん,彼なりの計算があったはずだろう。このとき,ショスタコーヴィチはどういう計算をしていたのか。

● 豊島区管弦楽団,かなりの達者で構成されている。弦,木管,金管,パーカッションとも,堅固な安定感がある。
 アマチュアの市民オケって分類になるんだろうけど,ここまで巧い市民オケってそうそうない。ぼくの視聴体験ではそういう結論になる。でも,アレなのか,東京ではさほど珍しくないのだろうか。

● 帰りは,東武東上線で池袋に出た。会場から徒歩3分のところに東上線の大山駅がある。わずかな距離だ。ところが。
 会場にも案内図があった。ここまでの行路はわかるわけだから,ここから駅までどこをどう行けばいいのか,迷う余地はないはずだ。
 しかし,どっこい。逆方向に歩いていたんだなぁ。5分ほど歩いたところでおかしいと思い,文化会館に戻った。再度,地図を確認。さすがにそれでわかった。
 ぼくは地図を読めない男なのだ。地図を見るのは大好きなんだけど。

2016年10月12日水曜日

2016.10.09 都立西高OB吹奏楽団 第38回演奏会

杉並公会堂 大ホール

● 急遽,東京に出ることになった。相方の提唱によるものだ。
 東京ならどこかで演奏会をやっているはずだ。その中からひとつ選んで聴きに行こう。せっかく東京に行くんだったら。

● で,「フロイデ」をチェック。ザッツ管弦楽団の演奏会に行くことにした。マーラーの6番をやる。指揮者は田部井剛さんだ。ザッツ管弦楽団の演奏を聴いたことはないけれども,これならまずハズレにはならないだろう。
 開演は午後2時。今から出ても間に合う。よし,これにしよう。

● というわけで,新宿から中央線に乗り換えて荻窪で降りた。杉並公会堂へ。
 ところが。会場はすみだトリフォニーホールなのだった。なぜかしら,杉並公会堂だと思いこんでしまったのだな。
 もちろん,今から引き返していては間に合わない。

● しかも,杉並公会堂でも同じ午後2時から演奏会が入っていた。それが都立西高OB吹奏楽団の演奏会。うぅぅむ,マーラーのつもりが吹奏楽か。
 吹奏楽,もちろん嫌いじゃない。けれども,マーラーから吹奏楽だ。この切替えは容易じゃない。
 その原因を作ったのが外部にあるのであれば,そこに当たれば気が紛れる。が,原因のすべては自分の早とちりだ。

● ともかく入場。入場無料。
 第一部は“アメリカ大陸をめぐる旅”と称して,次の5曲。
 シェルドン メトロプレックス
 シュバルツ 「ウィキッド」セレクション
 作曲者不詳 アメイジング・グレース
 ホゼイ ターコイズ・ディドリームズ
 ナバーロ 交響詩「リベルタドーレス」

● 司会者(というか案内者)が熱演。が,ぼくたちは本当に自由なんだろうか,真の幸せって何だろう,と投げかけられても,ちょっと困るんだな。言葉遊びに類することを問われても,鼻白む以外の対応は難しい。
 問うているわけではないんだけどさ。純粋キャラを演じているだけなんだろうけど。

● このOB吹奏楽団,卒業したばかりの10代の若者から60歳を過ぎた人までいる。でも,メインは若い人たちだ。だから純粋キャラも出てくるのだろうし,それが許されるのでもある。
 それでいいのだと思う。いつまでもOBやOGでいてはいけないものだろう。OBやOGもいずれは卒業しなければならないものだと思う。

● 第2部は,“日本人が作曲・編曲した曲”を集めた。次の5曲。
 宮川 泰ほか ジャパニーズ・グラフィティⅫ「松本零士メドレー」
 郷間幹男編 ゲッタウェイ
 真島俊夫 夢-岩井直溥先生の思い出に
 山内雅弘 架空の伝説のための前奏曲
 すぎやまこういち 交響組曲ドラゴンクエストより

● 吹奏楽の演奏会に乳幼児を連れてくる人がいるんだよね。しかも,そういうヤツって前に座るから,目立つんだ。
 何を考えてそんなことをするのかと思うんだけど(基本的には何も考えていないから,そういうことをするのだ),たぶん,この演奏会は同窓会的機能も若干は果たしていて,同窓生に会うために来たよ,っていうことなのだろうと推測する。やっと子どもも生まれたんだよ,とお披露目するとかね。

● が,子どもにとって,これは拷問だろうよ。こんな音圧に耐えられるはずがない。当然,激しく泣いて抵抗する。
 乳幼児の泣き声は,“聴く”を妨げる要因としては第1位の栄誉に輝くものだ。だから,その子を抱いて会場を出て行く。のだが,泣きやむと戻ってきてしまうのだな。それを繰り返す。
 何度,わが子を拷問にかければ気がすむのだ。際だった馬鹿とは,こういう親を指すためにある言葉だろう。

● 待て待て。間違って来たうえに,ここまで言いたい放題かよ。と,お叱りを被りそうだ。演奏それ自体についても語っておかねば。
 吹奏楽と管弦楽はまったくの別物だ。何が違うかといえば,吹奏楽はノリがいい。客席を乗せて,そのノリをフィードバックしてもらって,自分たちもさらに乗っていこうとする。そういう趣がある。
 イメージとしては自由奔放だ。といって,演奏する側が本当に自由奔放にやったんじゃ,アンサンブルにならない。だから,指揮者もいる。

● この楽団は,基本的に行儀がいい。アンサンブルをきっちりやっていこうとしており,それに成功しているように思えた。
 もともと腕に覚えのある人が残っているのかもしれないね。どのパートがどうということでもなく,いずれのパートも高値安定というか。
 逆に,客席を乗せようとアピールするときには,その真面目さがやや邪魔をすることがあるかもしれないとも思えた。

2016年10月4日火曜日

2016.10.01 エコキャンドルコンサート

瀧澤家住宅 鐵竹堂(さくら市櫻野)

● タイトルからはどんなコンサートなのか推測できない。“さくら市「生涯学習推進月間」オープニングセレモニー”という副題が付いている。さくら市主催の催しものだ。
 教育長なんかのあいさつがあって,瀧澤家住宅がいかに価値の高い建築物かの説明があって,そのあとに,さくら市出身の海老澤栄美さんのクラリネットコンサートがある。

● 開会は18時30分。入場無料。少し遅れたので,あいさつは終わっていた。瀧澤家住宅についての説明から聞くことになった。もう少し遅れてもよかったかも。
 瀧澤家住宅の鐵竹堂に入るのは,これが2回目になる。氏家には「氏家雛めぐり」という行事があって,その会場のひとつに鐵竹堂がなっていた。今年の2月に行っている。要するに,お大尽様の邸宅だ。

● さて,海老澤栄美さん。彼女のクラリネットを聴くのは,じつは初めてではない。宇都宮クラリネットアンサンブルの演奏会を二度聴いているので。その主宰者が海老澤さんではなかったか。
 今回は,ステージも客席もない。同じ部屋でやっているわけだから,奏者との距離が近い。近いところから見ると,ホールから見る印象とはだいぶ違ってくるものだね。

● どんなふうに違うかといえば,ホールのステージに立っているところを見ると,どんな人だってある種の貫禄をまとっている。そういうふうに見える。気圧されるところがある。ステージと客席の構造の然らしめるところかもしれない。
 けれども,これだけの距離で眺めると,そういう妙なものが立ち現れてくることがない。等身大というか,栃木で育った人だなというところまで伝わってくる。

● 演奏した曲目は次のとおり。
 ホールニューワールド
 ちいさい秋見つけた 夕焼け小焼け 花(喜納昌吉)
 クラリネットポルカ トロイメライ(シューマン)
 青春の輝き(カーペンターズ)
 リベルタンゴ(ピアソラ)
 秋桜(さだまさし)
 タイム・トゥ・セイ・グッバイ

● 鐵竹堂は典型的な日本家屋。木と紙でできた家だ(その木がとんでもなく素晴らしいわけだが)。壁や天井に行った音はすべて通過するか吸収されて,跳ね返ってくることはない。
 したがって,届いてくるのは直接音だけになる。これだけ奏者が近いとそれで充分。

● クラリネットも歌うんだってことをあらためて知った。日本の歌曲を聴くと,特にそう思う。「ちいさい秋見つけた」なんか,ほんとに歌っているなって感じなんですよね。

● 「秋桜」も山口百恵が現れたのかと思った。
 今の年齢の山口百恵に会いたいとは正直思わないけれども,「秋桜」を歌っていた頃の山口百恵は,何ていうんだろうな,有無を言わさない存在感を漂わせていましたよね。歌は上手いとはいえないし,演技も同様。けれども,それでいて辺りを払うような圧倒的な存在感があった。もちろん,こちらはテレビと映画(「伊豆の踊子」と「潮騒」は見たよ)でしか見たことがないわけだけれども。
 その山口百恵,こんなふうに歌っていたなと思いだしましたよ。

● 「リベルタンゴ」は不思議な曲だ。ぼくは日本の演歌を連想する。演歌とは似ても似つかないんだけど,辛い渡世だねぇと語っているようなところが共通しているっていうか。
 「リベルタンゴ」が辛い渡世にため息をもらしているわけではないんだけど,ぼくはそういう聴き方をしてしまっている。なので,二度三度と繰り返して聴くのは苦しかったりする。
 ピアノ伴奏は渡部沙織さん。リベルタンゴはどちらかといえば,伴奏の方が重要かもしれない。

● アンコールは「情熱大陸」。これも伴奏が重要。アンコールでこれが聴けたのは嬉しかったです。気持ちが高揚する曲だものね。
 以上,1時間足らずのミニコンサートだった。

● 海老澤さん,小学4年生で吹奏楽を始めた。
 フルートをやりたかった。で,希望どおりフルートになったんだけれども,1年後にクラリネットが足りないからと言われて、いやいやながらクラリネットに移った。ところが,これが大正解。自分に合っていた。もし,フルートのままだったら,途中でやめていたろう。
 というような話をされた。よくある話だと思う。予め自分が立てた目標や計画に縛られない方がいいという教訓だ。

● お客さんはお婆ちゃんとお爺ちゃん,小学生,中学生が多かった。その間があまりいない。
 つまり,その間の人たちは,この時間帯に家を空けることは難しいのかもしれないね。