宇都宮市文化会館 大ホール
● 今日は栃木県内でも複数の演奏会があり,どれにするか少しだけ迷った。一番近いところというわけで,こちらに。
開演は午後2時。チケットは3,000円。当日券を買って入場。
● 曲目はといえば,当然,モーツァルトの「レクイエム」なのだけども,その前にレスピーギ「リュートのための古い舞曲とアリア 第3組曲」。
指揮は佐藤和男さんで,管弦楽はMCFオーケストラとちぎ。
● この時期に宇都宮で,しかも大ホールで催行しても,どのくらいのお客さんが来るものだろうと,自分のことは棚にあげて思ってみたんだけども,客席の8割以上は埋まっていたかに見えた。
10連休で海外や国内に旅行する人が前年比で大幅増なんていう新聞記事を見ると,誰もかれも出かけるものだと錯覚しがちになる。対前年比で大幅増といったって,地元でいつもと同じように過ごす人が数からいえば多数派であることを失念しがちになる。
● 弦のみで「リュートのための古い舞曲とアリア 第3組曲」。しみじみする。
ヴィオラが目立つ感じで,こういうのは珍しい(たぶん,ぼくが知らないだけで,けっこうあるのだとは思うが)。しかも,チェロに近い低音を奏するところがあって,ヴィオラってこういう音も出るのかという発見もあった。初歩的であいすまぬ。
● レガートが命のような曲。とすれば,CDはカラヤンかと思うのだが,今はカラヤンは冷遇されている時代だからね。
ぼくはカラヤンで聴けるものは原則,カラヤンで聴くことにしているんだけど,あまり人に言えることではない。
● ともあれ,この曲をこの演奏で聴けたのは収穫。予期しなかった収穫があると,得した気分になって嬉しいものだ。これで帰ってもいいかなと思ったくらいだ。
が,もちろんそういうことはせず,15分間の休憩後,モーツァルト「レクイエム」を聴くために,再び着座。
● 「レクイエム」を巡る諸々のエピソードについては,ぼくも一応は知っている。ジュースマイヤーが補筆したといっても,これを“補”筆と言っていいのかとも思っている。
細かいことを言いだすと,今となってはわからないことが多い。ともかく,モーツァルトはこの曲を完成させることができなかった。それだけ知ってればあとはどうでも,ということにしておきたい。
● 長くてしかも声楽が入っている曲って,CDを聴いてみようという気にもなかなかならない。あるいはぼくだけのことかもしれないけれど,バッハの「マタイ受難曲」にしても,ヘンデルの「メサイア」にしても,CDで聴くのはわりと気が重い。オペラに至っては尚更だ。
そこを埋めてくれるのがDVD。最近はネットでしょうかねぇ。YouTubeにどんどん登場するんだろう。たぶん,音質も良くなるんでしょう。ハイレゾ対応とか,WALKMANやXperiaのように,普通の圧縮音源でもハイレゾ相当に復元して再生するのがあたりまえになるのだろう。
早くそうなって欲しいと思うんだけど,そうなってしまうと自分のいるところがそのままコンサートホールって感じになりますかねぇ。わざわざホールまで聴きに行くのが億劫になったりしないかなぁ。
● ところで。モーツァルトの「レクイエム」を(生で)聴くのは初めてではない。が,「レクイエム」ってこうだったのかと初めてわかった(気がした)。
演奏がクリアだったからだ。合唱のレベル,高い。男声がシャキッとしてると全体が締まる。合唱はもちろん,主催者の宇都宮第九合唱団。
ソリストも文句なし。小高史子さん(ソプラノ),井坂惠さん(メゾソプラノ),伊藤達人さん(テノール),薮内俊弥さん(バリトン)という布陣。よくここまで揃えたものだ。
● 伊藤さんのテノールに聴き入ってしまったのだが,プログラム冊子によると6月に「ヘンゼルとグレーテル」に出演予定とある。
これってあれか,コンセールマロニエ21で優勝した山下裕賀さんがヘンゼルを務めるやつか。行けないとは思うんだけど,気になってはいる。
● これだけの人数で,しかもレベルの高いオーケストラと共演することを標榜するとなると,運営者は胃が痛くなるような思いをすることもあるだろう。
放りださないで継続しているというそれだけで頭が下がる。
● 合唱団に属して活動を継続している個々の団員にも敬意を払うにやぶさかではないが,唯一,いただけないことがあった。終演後にロビーで来客者と盛りあがり,しかも横に広がってそれをしていたために,出入口を塞いでしまっていた。
いい大人なんだから,背中にも目を持っていなければいけないよ。起きているときは四六時中だ。それができなくなったら,自らの死期を悟るがよい。ぼくなんか,もう何回も悟っているがね。
● まぁ,しかし。地元でここまでの「レクイエム」を聴けるとは思っていなかった。
いや,本当に,敬意を払うにやぶさかではない。ありがたいことだと思っておりますよ。
約2時間のコンサートが終了した直後の満足感は,他のものでは代替できません。この世に音楽というものが存在すること。演奏の才に恵まれた人たちが,時間と費用を惜しまずに技を磨いていること。その鍛錬の成果をぼくたちの前で惜しみなく披露してくれること。そうしたことが重なって,ぼくの2時間が存在します。ありがたい世の中に生きていると痛感します。 主には,ぼくの地元である栃木県で開催される,クラシック音楽コンサートの記録になります。
2019年4月30日火曜日
2019年4月29日月曜日
2019.04.28 埼玉フィルハーモニー管弦楽団 第77回定期演奏会
埼玉会館 大ホール
● 埼玉会館のいいところは浦和駅から至近であること。川口リリアもそうだけれども,駅から近いというのはけっこう大きなポイントだ。
初めての拝聴になる。開演は午後2時。入場無料。開場前から長蛇の列。
● 曲目は次のとおり。指揮は米津俊広さん。
ショスタコーヴィチ ロシアとキルギスの民謡の主題による序曲
ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番
シューマン 交響曲第3番「ライン」
● あれれ,平山慎一郎さんがいるじゃないですか。ゲストコンサートマスター。昨日もオーケストラーダでコンマスとソリストを務めていた。
大丈夫なんですか,こんなに仕事を入れて。っていうか,チョチョイのチョイ,オチャノコサイサイですかねぇ。
● ショスタコーヴィチのこの曲は初めて聴くもの。CDも持ってなかったと思う。ショスタコーヴィチの才能をもってすれば,それこそチョチョイのチョイだったかなぁ。
● キルギスは交通(シルクロード)の要衝にあったし,それでなくても中央アジアにあるんだから,狙われやすい場所だった。為政者が次々に変わっている。住民にとっては迷惑な話だ。
最も迷惑だったのはロシアに制圧されたことだろう。そのためにソビエト連邦という人類史上最大の愚行に巻き込まれてしまった。言っちゃ何だが,スターリンがやったことに比べれば,ヒトラーなど可愛いものだ。
キルギス人の顔貌はぼくらとそっくりだ。スラブの国にされる筋合いなどないわな。
● ラフマニノフのピアノ協奏曲は久しぶりに聴く。ピアノ独奏は宮﨑貴子さん。こういう布陣を整えて入場無料というのは,太っ腹だよね,埼玉フィル。
ピアノにも管弦楽にも文句の付けようがない。ぼくに文句を付ける資格などそもそもないわけだが,太っ腹だなぁと思った。
● まったく唐突なんだけども,グレン・グールドが頭をよぎった。ショパンに背を向けた唯一のピアニストというイメージをぼくは作ってしまっているんだけど,そのグレン・グールドにしてみれば,ラフマニノフは一顧だにする価値のない作曲家になるのだろう。
この曲に髪の毛一本の共感も示さない(かどうか,本当のところはわからない)とすると,グレン・グールドの感性というのか気合というのか,すっげぇなぁと思うのだ。
● シューマンの3番。昨日は4番を聴いたのだが,今日も吉田秀和さんのシューマンに対する“故障した自転車”“傾いた船”という指摘が気になった。
つまり,3番でもぼくはそれを感じることができなかったので。が,吉田秀和さんほどの人がそう言うのだから,実際にそうなのだろう。まさかシューマンの最期から演繹的に類推して,ないものを見てしまうなんてことを,彼ほどの人がするはずがないからだ。
実際に指揮をしている人,演奏している人の意見を聞いてみたいものだと思うが,ぼくの感覚が鈍いのだろう。
● こういう演奏会って未就学児の入場は断ることが多い。察するに,未就学児は静かに聴いていられないと主催者が考えているからだろう。
であるならば,同じ理由で75歳以上の入場も制限したらどうかと思うことが,最近増えた。ざっくり均すと,未就学児よりもジジイやババアの方が静かにしていない確率は高いような気がする。
演奏中にプログラム冊子を広げてカサコソ音を立てるのは,ジジイやババアに共通。飴の包み紙をむいているのはババアに多い。
ぼくの右に座った婆さまはアンコール曲だけ知っていたらしい。終局する3秒前から拍手を始めた。演奏中にもプログラム冊子を広げて,掲載されている広告を熱心に読んでいた。
● アマオケの場合,集客にいろいろと苦労している。招待状を出したり,今回のように無料にするのも,その対策のひとつなのだと思うが,その結果が暇を持て余しているジジイとババアを集めてしまっているかもなぁ。
ジジイやババアってとにかく数が多いから,集めやすくもあるんだけれども,老い先短いジジイやババアに来てもらっても仕方がないんじゃないか。これだと,若者や壮年層をハジいてしまうことになりかねない。ジジイやババアが集まるところに若者や壮年層は近寄らないからね。
目先の集客努力が中長期的に見ると自分の首を絞めていた,ってことにならなければよいのだが。
● 埼玉会館のいいところは浦和駅から至近であること。川口リリアもそうだけれども,駅から近いというのはけっこう大きなポイントだ。
初めての拝聴になる。開演は午後2時。入場無料。開場前から長蛇の列。
● 曲目は次のとおり。指揮は米津俊広さん。
ショスタコーヴィチ ロシアとキルギスの民謡の主題による序曲
ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番
シューマン 交響曲第3番「ライン」
● あれれ,平山慎一郎さんがいるじゃないですか。ゲストコンサートマスター。昨日もオーケストラーダでコンマスとソリストを務めていた。
大丈夫なんですか,こんなに仕事を入れて。っていうか,チョチョイのチョイ,オチャノコサイサイですかねぇ。
● ショスタコーヴィチのこの曲は初めて聴くもの。CDも持ってなかったと思う。ショスタコーヴィチの才能をもってすれば,それこそチョチョイのチョイだったかなぁ。
● キルギスは交通(シルクロード)の要衝にあったし,それでなくても中央アジアにあるんだから,狙われやすい場所だった。為政者が次々に変わっている。住民にとっては迷惑な話だ。
最も迷惑だったのはロシアに制圧されたことだろう。そのためにソビエト連邦という人類史上最大の愚行に巻き込まれてしまった。言っちゃ何だが,スターリンがやったことに比べれば,ヒトラーなど可愛いものだ。
キルギス人の顔貌はぼくらとそっくりだ。スラブの国にされる筋合いなどないわな。
● ラフマニノフのピアノ協奏曲は久しぶりに聴く。ピアノ独奏は宮﨑貴子さん。こういう布陣を整えて入場無料というのは,太っ腹だよね,埼玉フィル。
ピアノにも管弦楽にも文句の付けようがない。ぼくに文句を付ける資格などそもそもないわけだが,太っ腹だなぁと思った。
● まったく唐突なんだけども,グレン・グールドが頭をよぎった。ショパンに背を向けた唯一のピアニストというイメージをぼくは作ってしまっているんだけど,そのグレン・グールドにしてみれば,ラフマニノフは一顧だにする価値のない作曲家になるのだろう。
この曲に髪の毛一本の共感も示さない(かどうか,本当のところはわからない)とすると,グレン・グールドの感性というのか気合というのか,すっげぇなぁと思うのだ。
● シューマンの3番。昨日は4番を聴いたのだが,今日も吉田秀和さんのシューマンに対する“故障した自転車”“傾いた船”という指摘が気になった。
つまり,3番でもぼくはそれを感じることができなかったので。が,吉田秀和さんほどの人がそう言うのだから,実際にそうなのだろう。まさかシューマンの最期から演繹的に類推して,ないものを見てしまうなんてことを,彼ほどの人がするはずがないからだ。
実際に指揮をしている人,演奏している人の意見を聞いてみたいものだと思うが,ぼくの感覚が鈍いのだろう。
● こういう演奏会って未就学児の入場は断ることが多い。察するに,未就学児は静かに聴いていられないと主催者が考えているからだろう。
であるならば,同じ理由で75歳以上の入場も制限したらどうかと思うことが,最近増えた。ざっくり均すと,未就学児よりもジジイやババアの方が静かにしていない確率は高いような気がする。
演奏中にプログラム冊子を広げてカサコソ音を立てるのは,ジジイやババアに共通。飴の包み紙をむいているのはババアに多い。
ぼくの右に座った婆さまはアンコール曲だけ知っていたらしい。終局する3秒前から拍手を始めた。演奏中にもプログラム冊子を広げて,掲載されている広告を熱心に読んでいた。
● アマオケの場合,集客にいろいろと苦労している。招待状を出したり,今回のように無料にするのも,その対策のひとつなのだと思うが,その結果が暇を持て余しているジジイとババアを集めてしまっているかもなぁ。
ジジイやババアってとにかく数が多いから,集めやすくもあるんだけれども,老い先短いジジイやババアに来てもらっても仕方がないんじゃないか。これだと,若者や壮年層をハジいてしまうことになりかねない。ジジイやババアが集まるところに若者や壮年層は近寄らないからね。
目先の集客努力が中長期的に見ると自分の首を絞めていた,ってことにならなければよいのだが。
2019年4月28日日曜日
2019.04.27 オーケストラーダ 第16回演奏会
第一生命ホール
● この楽団の演奏を聴くのは2回目。1度目はもう6年前になるんだが。
会場に着いてまずすることは当日券の購入だ。入場無料ではなかったと思う。のだが,その当日券の売場がない。売場は別のところなのかと思って,行きつ戻りつしてしまった。
結局,有料ではあるのだけれども,定額制ではなくて,あなたが妥当と思う金額を帰りに払ってくださいという方式なのだった。ただし,最低額は1,000円。
● 思いだした。前回もそうだったのだ。チラシにもチケットレスとあったはずだ。こういう独特なやり方は,こちらにも見落としが出やすいですな。
が,手間暇かけてチケットを印刷するのも,何だか時代遅れという気はする。電車だって切符を買う必要がなくなっているんだし。
この楽団のやり方が正解なのかもしれない。自由席であること(≒聴衆が座席数を超える可能性がないこと)が前提ではあるけれど。
● ま,そのまま進んでプログラムを受け取って着座。連休初日というと,やはり旅行に出かける人が多いんだろうか。前回よりも聴衆は少なかったと思う。
前回の印象は,奏者の平均年齢が若かったことと演奏水準が高かったこと。しかし,6年前の話だ。メンバーが変わらなければ,平均年齢は6歳あがっているはずだ。
実際にはそういうことはなく,今回も若い人が多かった。メンバーの入れ替えがないなんてあり得ない。それでも前回に比べると,平均年齢はやや上昇していたっぽい。
● 曲目は次のとおり。指揮は久保田昌一さん。
ブラームス ハンガリー舞曲第3番,第10番
ブラームス ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調
シューマン 交響曲第4番 ニ短調(1841年版)
加えて,アンコールはハンガリー舞曲の7番と5番だった。
● ブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」を生で聴くのは,今回が初めてのような気がする。
ソリストは平山慎一郎さん(ヴァイオリン)と寺田達郎さん(チェロ)。豪華なものだが,聴いている分には管弦楽の方が印象に残る。そういう曲なのだろう。
ソリストのアンコールは,コダーイの二重奏曲(もちろん,一部)。
● ちなみに,この曲はCDでも聴いたことがない。お粗末極まる聴き手なのだ。ブラームスを交響曲の人と見るのはどうなんだろうと思わないでもないんだけど,交響曲のしかも4番しか聴かない。
ところで,平山さん,遠目には将棋の木村一基九段に似てますなぁ。近くで見るとぜんぜん似てないんだけど。
● お粗末ついでに申しあげると,シューマンの4番に驚いた。驚いたというのは,吉田秀和さんが『世界の指揮者』で次のように書いているのだが,4番についてはこれはあてはまらないように思えたので。
この感想がなぜお粗末なのかというと,この曲を聴くのはこれが初めてではないからなんだよね。何度か聴いてるんだよね。今頃気づくなよ,と自分にツッコミを入れたくなるわけね。
● このようにして演奏会は終わった。連休初日にコンサートを企画して実行する変人たちと,それを聴きにいく変人たち。変人の度合いは,しかし,前者が圧倒的に高いだろう。
仕事なり学業なりを本職として抱えている人たちがほとんどのはずだ。家庭を持っている人も当然いるはずで,子供をどこかに連れて行かなくていいのか。ダメだよ,この償いはしないとね。
って,明日から休むのか。そうですか,それならいいや。家庭の平安を遠くから祈っていますよ。
● この楽団の演奏を聴くのは2回目。1度目はもう6年前になるんだが。
会場に着いてまずすることは当日券の購入だ。入場無料ではなかったと思う。のだが,その当日券の売場がない。売場は別のところなのかと思って,行きつ戻りつしてしまった。
結局,有料ではあるのだけれども,定額制ではなくて,あなたが妥当と思う金額を帰りに払ってくださいという方式なのだった。ただし,最低額は1,000円。
● 思いだした。前回もそうだったのだ。チラシにもチケットレスとあったはずだ。こういう独特なやり方は,こちらにも見落としが出やすいですな。
が,手間暇かけてチケットを印刷するのも,何だか時代遅れという気はする。電車だって切符を買う必要がなくなっているんだし。
この楽団のやり方が正解なのかもしれない。自由席であること(≒聴衆が座席数を超える可能性がないこと)が前提ではあるけれど。
● ま,そのまま進んでプログラムを受け取って着座。連休初日というと,やはり旅行に出かける人が多いんだろうか。前回よりも聴衆は少なかったと思う。
前回の印象は,奏者の平均年齢が若かったことと演奏水準が高かったこと。しかし,6年前の話だ。メンバーが変わらなければ,平均年齢は6歳あがっているはずだ。
実際にはそういうことはなく,今回も若い人が多かった。メンバーの入れ替えがないなんてあり得ない。それでも前回に比べると,平均年齢はやや上昇していたっぽい。
● 曲目は次のとおり。指揮は久保田昌一さん。
ブラームス ハンガリー舞曲第3番,第10番
ブラームス ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調
シューマン 交響曲第4番 ニ短調(1841年版)
加えて,アンコールはハンガリー舞曲の7番と5番だった。
● ブラームスの「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」を生で聴くのは,今回が初めてのような気がする。
ソリストは平山慎一郎さん(ヴァイオリン)と寺田達郎さん(チェロ)。豪華なものだが,聴いている分には管弦楽の方が印象に残る。そういう曲なのだろう。
ソリストのアンコールは,コダーイの二重奏曲(もちろん,一部)。
● ちなみに,この曲はCDでも聴いたことがない。お粗末極まる聴き手なのだ。ブラームスを交響曲の人と見るのはどうなんだろうと思わないでもないんだけど,交響曲のしかも4番しか聴かない。
ところで,平山さん,遠目には将棋の木村一基九段に似てますなぁ。近くで見るとぜんぜん似てないんだけど。
● お粗末ついでに申しあげると,シューマンの4番に驚いた。驚いたというのは,吉田秀和さんが『世界の指揮者』で次のように書いているのだが,4番についてはこれはあてはまらないように思えたので。
シューマンの指揮者は,いわば,どこかに故障があって,ほっておけばバランスが失われてしまう自転車にのって街を行くような,そういう危険をたえず意識し,そういう危険をたえず意識し,コントロールしなければならない。あるいは傾斜している船を,操縦して海を渡る航海士のようなものだといってもよいかもしれない。(新潮文庫版 p32)● 堂々たる構成のように思えた。明らかに理性が勝っているし,バランスを度外視していることもないし,気配り目配りが行き届いている。
この感想がなぜお粗末なのかというと,この曲を聴くのはこれが初めてではないからなんだよね。何度か聴いてるんだよね。今頃気づくなよ,と自分にツッコミを入れたくなるわけね。
● このようにして演奏会は終わった。連休初日にコンサートを企画して実行する変人たちと,それを聴きにいく変人たち。変人の度合いは,しかし,前者が圧倒的に高いだろう。
仕事なり学業なりを本職として抱えている人たちがほとんどのはずだ。家庭を持っている人も当然いるはずで,子供をどこかに連れて行かなくていいのか。ダメだよ,この償いはしないとね。
って,明日から休むのか。そうですか,それならいいや。家庭の平安を遠くから祈っていますよ。
2019年4月22日月曜日
2019.04.21 田渕進先生 追悼演奏会
宇都宮短期大学 須賀友正記念ホール
● 開演は午後2時。チケットは1,500円。当日券を買って入場。
なぜこの演奏を知ったのかといえば,3月に行われたこの短大の卒業演奏会にお邪魔した折に,チラシが配られたからだ。
今日は東京でもお誘いを受けていた演奏会があった。が,東京まで出かける気力が湧いてこなかった。時間がないのではない。気力がない。少ぉしメンタルで失調を来している気配がある。
大したことはない。時間が解決してくれるはずだが,ともかく東京まで出張るエネルギーは溜まっていなかった。
● これからしばらくは,どの演奏会に行こうかと頭を悩ます時期になる。黄金週間中に高校吹奏楽部の演奏会が相次ぐからだ。
一方で,2年前から黄金週間は東京のホテルで過ごすようになった。何もしないでぼんやりする。が,東京なのだから毎日どこかで演奏会は行われている。そのどこかに行くか,宇都宮にとって返して高校生の吹奏楽を聴くか。
ま,せっかく東京にいるのに何で宇都宮にとんぼ返りするんだってことになって,東京にとどまることになるのだが。
● “田渕進先生”がどういう人なのか,ぼくは存じあげない。この短大の先生で,栃木県の音楽教育に尽力したというのは,プログラム冊子の紹介で知りうるわけだが,それ以上のことはわからない。
わかろうとしない方がいいとも思っている。自分のキャパに合わせて理解しようとすると,相手を矮小化することになる。
彼の薫陶を受けた宇都宮短期大学や附属高校音楽科の卒業生が集まって(現役生もいるのかもしれないが),1回限りのオーケストラを組んだと理解しておけば,それでよい。
● 曲目は次のとおり。衒いのないプログラム。
モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲
モーツァルト ピアノ協奏曲第20番 ニ短調
ベートーヴェン 交響曲第5番
山田栄二 レクイエム-田渕進先生の霊に捧ぐ
● モーツァルトの短調協奏曲は少数ゆえに特別というわけではないと思いたいんだけども,やはり特別なんですかねぇ。このテイストは何て言うんだろ,しっかりと根を張っている草を根っこから引っこ抜いて,その根を組み替えて,ひとつの絵画にした,という印象を持つんだよね。
この言い方は,言っている当の本人もよくわからないで言っているんだから,伝わらないだろうなぁ。
● ピアノは阿久澤政行さん。デリカシーとは男性的なるものだ。女性が男性に向かってデリカシーがないというときは,かなりエゴの気配が混じる。私をいい気持ちにさせてくれない,という意味であることが多い。
デリカシーとは場の全体を見渡してその状況を把握し,そのうえで部分部分を絶妙のバランスのうちに配置することだ。強すぎてはいけないし,弱すぎてもいけない。目立ちすぎてはいけないし,目だたなすぎてもいけない。長すぎてはいけないし,短すぎてもいけない。素っ頓狂ではもちろんだめだが,埋もれてしまうのはもっとだめだ。
彼の演奏を聴いていると,そういうことを考える。
● 応接する管弦楽にも抜かりはない。この曲を聴いた段階で,来てよかったなと思った。チケット代の1,500円はタダ同然といっていいだろう。
が,ベートーヴェンはそれ以上だった。
● 開演は午後2時。チケットは1,500円。当日券を買って入場。
なぜこの演奏を知ったのかといえば,3月に行われたこの短大の卒業演奏会にお邪魔した折に,チラシが配られたからだ。
今日は東京でもお誘いを受けていた演奏会があった。が,東京まで出かける気力が湧いてこなかった。時間がないのではない。気力がない。少ぉしメンタルで失調を来している気配がある。
大したことはない。時間が解決してくれるはずだが,ともかく東京まで出張るエネルギーは溜まっていなかった。
● これからしばらくは,どの演奏会に行こうかと頭を悩ます時期になる。黄金週間中に高校吹奏楽部の演奏会が相次ぐからだ。
一方で,2年前から黄金週間は東京のホテルで過ごすようになった。何もしないでぼんやりする。が,東京なのだから毎日どこかで演奏会は行われている。そのどこかに行くか,宇都宮にとって返して高校生の吹奏楽を聴くか。
ま,せっかく東京にいるのに何で宇都宮にとんぼ返りするんだってことになって,東京にとどまることになるのだが。
● “田渕進先生”がどういう人なのか,ぼくは存じあげない。この短大の先生で,栃木県の音楽教育に尽力したというのは,プログラム冊子の紹介で知りうるわけだが,それ以上のことはわからない。
わかろうとしない方がいいとも思っている。自分のキャパに合わせて理解しようとすると,相手を矮小化することになる。
彼の薫陶を受けた宇都宮短期大学や附属高校音楽科の卒業生が集まって(現役生もいるのかもしれないが),1回限りのオーケストラを組んだと理解しておけば,それでよい。
● 曲目は次のとおり。衒いのないプログラム。
モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲
モーツァルト ピアノ協奏曲第20番 ニ短調
ベートーヴェン 交響曲第5番
山田栄二 レクイエム-田渕進先生の霊に捧ぐ
● モーツァルトの短調協奏曲は少数ゆえに特別というわけではないと思いたいんだけども,やはり特別なんですかねぇ。このテイストは何て言うんだろ,しっかりと根を張っている草を根っこから引っこ抜いて,その根を組み替えて,ひとつの絵画にした,という印象を持つんだよね。
この言い方は,言っている当の本人もよくわからないで言っているんだから,伝わらないだろうなぁ。
● ピアノは阿久澤政行さん。デリカシーとは男性的なるものだ。女性が男性に向かってデリカシーがないというときは,かなりエゴの気配が混じる。私をいい気持ちにさせてくれない,という意味であることが多い。
デリカシーとは場の全体を見渡してその状況を把握し,そのうえで部分部分を絶妙のバランスのうちに配置することだ。強すぎてはいけないし,弱すぎてもいけない。目立ちすぎてはいけないし,目だたなすぎてもいけない。長すぎてはいけないし,短すぎてもいけない。素っ頓狂ではもちろんだめだが,埋もれてしまうのはもっとだめだ。
彼の演奏を聴いていると,そういうことを考える。
● 応接する管弦楽にも抜かりはない。この曲を聴いた段階で,来てよかったなと思った。チケット代の1,500円はタダ同然といっていいだろう。
が,ベートーヴェンはそれ以上だった。
クラシックファンを2分する基準のひとつに,モーツァルトとベートーヴェンのどちらがより好きか,というのがあるらしい。
モーツァルト派の代表がアインシュタインということになっていて,モーツァルト好きの方が知的でフレキシビリティがあって・・・・・・ということになっているっぽい。モーツアルト派はMacなのに対して,ベートーヴェン派はWindows。いや,そんなこともないのか。
目下のところ,ぼくはモーツァルトよりもベートーヴェンに惹かれている。
● さて,“ベートーヴェンはそれ以上だった”という所以を以下に述べるわけだが,鮮やかな理由を述べられるわけではない。
まずもってトータルの音量だ。たとえば,踊り場で呼吸を整えているかのような第3楽章から,いきなりクライマックスになだれこむ第4楽章の冒頭。ここでの音の分厚さだ。けっこう後ろの席で聴いていたのだが,音圧はここまで届いてくる。その音圧の断面がなめらかだ。
● もうひとつ,熱気だ。演奏が熱い。動と静でいえば,はっきり動で,マグマが対流しているようなダイナミックな動きを感じた。それが熱いという印象につながる。
で,この熱さは録音音源にはないものだ。この曲をCDで聴くときは,カルロス・クライバー&ウィーン・フィルで聴いている。が,精緻さや手堅さ,あるいは華やかさはぼくの耳でも感じ取ることができるのだが,熱さは伝わってこない。
ひょっとするとぼくの聴き方に問題があるのかもしれない。あるいは機材の問題。何といっても,ぼくはWALKMANでしか聴かないんだから。
ので,そこは留保しておかなければならないとしても,熱さは録音には載りにくいのだろうと思う。ライヴ録音でもCDから熱さを感じることは稀だ。
● というわけなので,こういう演奏を聴けると,これがライヴの醍醐味だなと思う。これあるがゆえに,わざわざ時間を割いてホールまで足を運ぶのだ。
冷静沈着が百パーセントの演奏も,それはそれで悪くはない。が,熱というのは,それ自体が魅力の源泉になり得る。人でもそうかもしれないが。
しかし,それもベートーヴェンが仕組んだこと。曲そのものが熱いのだ。だとしても,その熱さを演奏でここまで表現してもらえれば,聴き手冥利に尽きるというものだ。
● ホールの影響もあるかもしれない。このホールは市中のホールでいうと小ホールに分類される大きさかと思うのだが,それゆえにこの音の分厚さが顕現している部分があるようにも思う。
同じ演奏をたとえば宇都宮市文化会館の大ホールで聴いたとしたら,同じような印象になったかどうかわからない。ホールも楽器のひとつというのは,こういうことを言うのかも。
● 今回の演奏で特に没入できたのは第2楽章だ。涙が出てきた。
この曲を書いているときのベートーヴェンの心情やいかに,と思ったゆえなのだが,この境地にあったベートーヴェンは女性にもモテたに違いない。天然痘の痕があったとか,変わり者であったとか,耳が聞こえないとか,そんなことでこの男を放っておくほど,当時のウィーンの女たちは愚かではなかったろう。
ワーグナーもこの曲の,特にこの楽章から学んだことは,数限りなくあったはずだ,と,ふと,思った。ぼくらにしたって,この曲が存在しない世界に住むというのは想定できない。大げさに過ぎるもの言いだろうか。
● 指揮は吉澤真一さん。彼もこの短大の附属高校の出身。上体を左に傾ける動作が多かったのだが,これに何か意味があるんだろうか。たんなる癖?
ともあれ。東京に出る気力がなかったにとどまらず,宇都宮に出かけるのもけっこう億劫だったのだ。会場に着く前に帰ってしまおうかとも思った。
が,行って正解。行きさえすれば最後まで聴くことになる。1日をそっくり無駄にはしなかったという,些細すぎる手応えも得ることができる。行って正解。
モーツァルト派の代表がアインシュタインということになっていて,モーツァルト好きの方が知的でフレキシビリティがあって・・・・・・ということになっているっぽい。モーツアルト派はMacなのに対して,ベートーヴェン派はWindows。いや,そんなこともないのか。
目下のところ,ぼくはモーツァルトよりもベートーヴェンに惹かれている。
● さて,“ベートーヴェンはそれ以上だった”という所以を以下に述べるわけだが,鮮やかな理由を述べられるわけではない。
まずもってトータルの音量だ。たとえば,踊り場で呼吸を整えているかのような第3楽章から,いきなりクライマックスになだれこむ第4楽章の冒頭。ここでの音の分厚さだ。けっこう後ろの席で聴いていたのだが,音圧はここまで届いてくる。その音圧の断面がなめらかだ。
● もうひとつ,熱気だ。演奏が熱い。動と静でいえば,はっきり動で,マグマが対流しているようなダイナミックな動きを感じた。それが熱いという印象につながる。
で,この熱さは録音音源にはないものだ。この曲をCDで聴くときは,カルロス・クライバー&ウィーン・フィルで聴いている。が,精緻さや手堅さ,あるいは華やかさはぼくの耳でも感じ取ることができるのだが,熱さは伝わってこない。
ひょっとするとぼくの聴き方に問題があるのかもしれない。あるいは機材の問題。何といっても,ぼくはWALKMANでしか聴かないんだから。
ので,そこは留保しておかなければならないとしても,熱さは録音には載りにくいのだろうと思う。ライヴ録音でもCDから熱さを感じることは稀だ。
宇都宮短期大学 |
冷静沈着が百パーセントの演奏も,それはそれで悪くはない。が,熱というのは,それ自体が魅力の源泉になり得る。人でもそうかもしれないが。
しかし,それもベートーヴェンが仕組んだこと。曲そのものが熱いのだ。だとしても,その熱さを演奏でここまで表現してもらえれば,聴き手冥利に尽きるというものだ。
● ホールの影響もあるかもしれない。このホールは市中のホールでいうと小ホールに分類される大きさかと思うのだが,それゆえにこの音の分厚さが顕現している部分があるようにも思う。
同じ演奏をたとえば宇都宮市文化会館の大ホールで聴いたとしたら,同じような印象になったかどうかわからない。ホールも楽器のひとつというのは,こういうことを言うのかも。
● 今回の演奏で特に没入できたのは第2楽章だ。涙が出てきた。
この曲を書いているときのベートーヴェンの心情やいかに,と思ったゆえなのだが,この境地にあったベートーヴェンは女性にもモテたに違いない。天然痘の痕があったとか,変わり者であったとか,耳が聞こえないとか,そんなことでこの男を放っておくほど,当時のウィーンの女たちは愚かではなかったろう。
ワーグナーもこの曲の,特にこの楽章から学んだことは,数限りなくあったはずだ,と,ふと,思った。ぼくらにしたって,この曲が存在しない世界に住むというのは想定できない。大げさに過ぎるもの言いだろうか。
● 指揮は吉澤真一さん。彼もこの短大の附属高校の出身。上体を左に傾ける動作が多かったのだが,これに何か意味があるんだろうか。たんなる癖?
ともあれ。東京に出る気力がなかったにとどまらず,宇都宮に出かけるのもけっこう億劫だったのだ。会場に着く前に帰ってしまおうかとも思った。
が,行って正解。行きさえすれば最後まで聴くことになる。1日をそっくり無駄にはしなかったという,些細すぎる手応えも得ることができる。行って正解。
2019年4月12日金曜日
2019.04.07 オーケストラ・ディマンシュ 第48回演奏会
すみだトリフォニーホール 大ホール
● オーケストラ ディマンシュ,すでに一度は聴いたつもりでいた。かなりの腕前だった記憶がある。ので,もう一度聴いておこうと,ぼくのスカスカの予定に入れておいたんでした。
が,それが記憶違いで,今回が初めてだった。人間の記憶ってここまでいい加減なのか。ぼくだけかなぁ,これ。
● ともあれ。開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入。
曲目は次のとおり。指揮は金山隆夫さん。
ビゼー 「カルメン」組曲より
リヒャルト・シュトラウス 楽劇「サロメ」より “第4場への間奏曲” “7つのベールの踊り”
チャイコフスキー 幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」
● 東京まで行って聴いてみようと思った理由のひとつは,この曲目にある。サロメの7つの踊りも,フランチェスカ・ダ・リミニも,生で聴ける機会がそうそうあるとは思えない。
ぼくなんかCDでも聴いたことがない。どちらも他の曲とカップリングされて録音されているのが多いだろうから,CDじたいは持っていても,聴かないままで過ぎている。そういう人は多いのではないだろうか。
● ので,生で聴く前にCDで何度か聴いてみた。予習しちゃったよ,と。いいことじゃないかって。とんでもハップン。
せっかく生で聴けるというのに,その前にCDで聴いてしまうのは,何ていうんだろ,愚劣という言葉はこういうことを指すためにあるっていうかな,阿呆なことをしてしまったよ。
今まで聴くことがなかったんだから,生で聴いてからCDを聴くという順序にすべきだった。けっこう,後悔している。
● サロメはオペラそのものも見たことがない。が,“7つのベールの踊り”がどういうものかは知っている。ストリップなんだよね。上品にいうと,ストリップティーズ。
シュトラウス自身は「徹底的に上品」にと規定していたようだけれども,実際にはなかなかね。この取り扱いが厄介なのは官能性が芸術(音楽にしろ美術にしろ)の核にあるものだからだ。官能性を感じさせないものは芸術にならない。たとえ,リンゴを描いた静物画であってもそうだ。
宗教画ですらそうではないかと思っている。キリストの磔を描いた絵であっても,どこかに官能を宿していなければ,後生に残ることはないのではないか。
● さらに言い募ってしまうと,「サロメ」のこの場面について,あまりに哲学的な精緻な議論は不要だと思っている。オペラはもともと貴族の娯楽として発祥したものだ。脳みそに快を与えることが重要で,観客に考えさせるようでは,作品としては失敗だ。
オペラは,誰でも楽しめる大衆性を有するものでなければならないという制約の下に誕生したものだろう。誰でも楽しめるものを,一部の貴族たちが正装して楽しみに行く。そこに観客(になり得る人たち)の密かな自己満足があったはずだ。
● 「サロメ」のような問題作についても,基本は変わらない。こういう場面は放っておけばよい。時々出るであろう跳ねっ返りも,そのまま放置しておけばいい。
いずれ,落ち着くところに落ち着く。時代が動けば変わるかもしれないが,その場合もまた落ち着くところに落ち着く。
● ただし,官能性を完全消去するような演出はダメだ。それでは「サロメ」を殺してしまうことになるからだ。で,そのような演出がなされたことは,これまでただの一度もないはずだと思う。
その官能性を器楽のみで表現することはできるか。理屈としてはできるはずだという結論になる。器楽って,ぼくらが思っている以上に雄弁で,場合によっては言葉の及ばない領域を抉りだすことがある。
● 理屈ではそうなのだが,この演奏を何らの予備知識なしで聴いたときに,ストリップを連想するほどの官能性を脳内でイメージできるかというと,それは難しい。
スメタナの「モルダウ」を予備知識なしで聴いたときに,山間の清冽な流れがやがて大河となってプラハ城に至るイメージを構成できないのと同じだ。そんなことは不可能だ。
● チャイコフスキーの「ロミオとジュリエット」を聴くと,これを聴けばチャイコフスキーのすべてを聴いたことになると思うことがある。チャイコフスキーのすべてが投影されていると感じることが。
「フランチェスカ・ダ・リミニ」ではそういう思いには至らない。チャイコフスキーはこういうこともするのかと思うだけだ。
● が,Wikipediaによると,チャイコフスキー自身はこの曲について「エピソードに刺激されて一時的なパトスで書かれた,迫力のないつまらない作品」と「自嘲気味な評価を下している」らしい。矜恃が言わせているんだろうか。
作曲の契機になるのが“エピソードに刺激された一時的なパトス”ではダメなのか。大作曲家の考えることは,凡俗の徒には測りかねるところがある。
● この楽団には固定ファンが付いているっぽい。すみだトリフォニーの大ホールがほぼ満席。
現時点で考えられるほとんど唯一の問題は,聴衆の過半を占める爺さん婆さんがホールに出て来れないほどに弱ったあとどうするのかということだ。さほど遠い将来の話ではない。ぼくにしてもあと15年だろうと思っている。もっと早く退役するかもしれない。
ま,この問題はこの楽団に限ったことではない。年をとれば順繰りにクラシック音楽に興味を持つようになるという自然則があればいいのだが(この傾向はないわけでもないような気がするのだが),会社で仕事ばっかりだったサラリーマンが定年退職後にクラシック音楽に首を突っ込むことはあるにしても,それが長続きするかといえば,たぶんに疑問を呈さざるを得ないだろう。
● オーケストラ ディマンシュ,すでに一度は聴いたつもりでいた。かなりの腕前だった記憶がある。ので,もう一度聴いておこうと,ぼくのスカスカの予定に入れておいたんでした。
が,それが記憶違いで,今回が初めてだった。人間の記憶ってここまでいい加減なのか。ぼくだけかなぁ,これ。
● ともあれ。開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を購入。
曲目は次のとおり。指揮は金山隆夫さん。
ビゼー 「カルメン」組曲より
リヒャルト・シュトラウス 楽劇「サロメ」より “第4場への間奏曲” “7つのベールの踊り”
チャイコフスキー 幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」
● 東京まで行って聴いてみようと思った理由のひとつは,この曲目にある。サロメの7つの踊りも,フランチェスカ・ダ・リミニも,生で聴ける機会がそうそうあるとは思えない。
ぼくなんかCDでも聴いたことがない。どちらも他の曲とカップリングされて録音されているのが多いだろうから,CDじたいは持っていても,聴かないままで過ぎている。そういう人は多いのではないだろうか。
● ので,生で聴く前にCDで何度か聴いてみた。予習しちゃったよ,と。いいことじゃないかって。とんでもハップン。
せっかく生で聴けるというのに,その前にCDで聴いてしまうのは,何ていうんだろ,愚劣という言葉はこういうことを指すためにあるっていうかな,阿呆なことをしてしまったよ。
今まで聴くことがなかったんだから,生で聴いてからCDを聴くという順序にすべきだった。けっこう,後悔している。
● サロメはオペラそのものも見たことがない。が,“7つのベールの踊り”がどういうものかは知っている。ストリップなんだよね。上品にいうと,ストリップティーズ。
シュトラウス自身は「徹底的に上品」にと規定していたようだけれども,実際にはなかなかね。この取り扱いが厄介なのは官能性が芸術(音楽にしろ美術にしろ)の核にあるものだからだ。官能性を感じさせないものは芸術にならない。たとえ,リンゴを描いた静物画であってもそうだ。
宗教画ですらそうではないかと思っている。キリストの磔を描いた絵であっても,どこかに官能を宿していなければ,後生に残ることはないのではないか。
● さらに言い募ってしまうと,「サロメ」のこの場面について,あまりに哲学的な精緻な議論は不要だと思っている。オペラはもともと貴族の娯楽として発祥したものだ。脳みそに快を与えることが重要で,観客に考えさせるようでは,作品としては失敗だ。
オペラは,誰でも楽しめる大衆性を有するものでなければならないという制約の下に誕生したものだろう。誰でも楽しめるものを,一部の貴族たちが正装して楽しみに行く。そこに観客(になり得る人たち)の密かな自己満足があったはずだ。
● 「サロメ」のような問題作についても,基本は変わらない。こういう場面は放っておけばよい。時々出るであろう跳ねっ返りも,そのまま放置しておけばいい。
いずれ,落ち着くところに落ち着く。時代が動けば変わるかもしれないが,その場合もまた落ち着くところに落ち着く。
● ただし,官能性を完全消去するような演出はダメだ。それでは「サロメ」を殺してしまうことになるからだ。で,そのような演出がなされたことは,これまでただの一度もないはずだと思う。
その官能性を器楽のみで表現することはできるか。理屈としてはできるはずだという結論になる。器楽って,ぼくらが思っている以上に雄弁で,場合によっては言葉の及ばない領域を抉りだすことがある。
● 理屈ではそうなのだが,この演奏を何らの予備知識なしで聴いたときに,ストリップを連想するほどの官能性を脳内でイメージできるかというと,それは難しい。
スメタナの「モルダウ」を予備知識なしで聴いたときに,山間の清冽な流れがやがて大河となってプラハ城に至るイメージを構成できないのと同じだ。そんなことは不可能だ。
● チャイコフスキーの「ロミオとジュリエット」を聴くと,これを聴けばチャイコフスキーのすべてを聴いたことになると思うことがある。チャイコフスキーのすべてが投影されていると感じることが。
「フランチェスカ・ダ・リミニ」ではそういう思いには至らない。チャイコフスキーはこういうこともするのかと思うだけだ。
● が,Wikipediaによると,チャイコフスキー自身はこの曲について「エピソードに刺激されて一時的なパトスで書かれた,迫力のないつまらない作品」と「自嘲気味な評価を下している」らしい。矜恃が言わせているんだろうか。
作曲の契機になるのが“エピソードに刺激された一時的なパトス”ではダメなのか。大作曲家の考えることは,凡俗の徒には測りかねるところがある。
● この楽団には固定ファンが付いているっぽい。すみだトリフォニーの大ホールがほぼ満席。
現時点で考えられるほとんど唯一の問題は,聴衆の過半を占める爺さん婆さんがホールに出て来れないほどに弱ったあとどうするのかということだ。さほど遠い将来の話ではない。ぼくにしてもあと15年だろうと思っている。もっと早く退役するかもしれない。
ま,この問題はこの楽団に限ったことではない。年をとれば順繰りにクラシック音楽に興味を持つようになるという自然則があればいいのだが(この傾向はないわけでもないような気がするのだが),会社で仕事ばっかりだったサラリーマンが定年退職後にクラシック音楽に首を突っ込むことはあるにしても,それが長続きするかといえば,たぶんに疑問を呈さざるを得ないだろう。
2019年4月11日木曜日
2019.04.06 コンセール21管弦楽団 第54回定期演奏会
ティアラこうとう 大ホール
● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を買って入場。この楽団の演奏を聴くのは初めて。知った契機は過去に行った演奏会でもらったチラシ。
行こうと思った理由のひとつは曲目。シューベルトの4番とブルックナーの3番。もうひとつの理由は,いたって下世話なもので,“青春18きっぷ”が使えたからだ。
● シューベルトの4番はシューベルト19歳の作品。作品そのものについてどうこう言える能力はぼくにはない。「未完成」の次に聴く機会を得ているけれども,生で聴くのは今回が3度目だと思う。Orchestra HALと東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団の演奏で聴いている。
CDで聴くこともそんなにはないので,そもそもが聴くという体験が絶対的に不足している。わかっちゃいるんだけど,これがなかなか修正できない。
今回は第4楽章のフルートが印象に残った。たんに出番が多かったからではない。フルートの音色ってもともと透明感が高いと思うんだけども(細く遠くまで届くというイメージ),その透明感ね。「悲劇的」なのに暖色を感じるところもあって。
● ブルックナーでは第2楽章がシンフォニックというか,オーケストラを聴いているという実感を味わった。
身を任せることができる。いいようにしてというんじゃないけれど,ハラハラドキドキというのは1ミリもない。
● 指揮は山上紘生さん。藝大指揮科の4年生らしい。音大(美大もだけど)に進む人って凄いなぁと思うのは,18歳にして自らの退路を断つ決断をしているところだ。
音楽で食べていけるかどうかはわからない。っていうか,その可能性は,ザックリ言えば,考えてはいけない。
“ま,いっか”って決めた人もいるのかもしれないけれども,“ま,いっか”で決められるのも才能の内だ。
今はどうなのか知らないけれど,昔は法学部や経済学部は“つぶしが利く”と言われていた。退路を断つことを先送りできた。それで,ぼくも法学部を選んだ口だ。
そんな自分からすると,若い山上さんが大きく見えるわけですね。男の21歳や22歳はまだまだ幼さを残すのだけれども,彼の前にひれ伏したくなる。
● 楽団のサイトによると「東京で活動するアマチュア・オーケストラで,特定のバックボーンを持たない自主運営の楽団」とのこと。客席に空席が多かったのは,出身大学だとか地域だとか,そういう背景がないゆえか。
しかし,演奏の水準と空席の多さはまったくそぐわない。この演奏ならもっと聴衆が入って然るべきかと思われた。
● 演奏が客を呼ぶというのがおそらく理想だけれども,いい商品なら必ず売れるとは限らない。営業が必要だ。
こういう演奏会でも集客努力というのは必要なのかねぇ。これで客が来ないのは客がバカだからだ,と居直るのも一案だとは思うんだけど。
● 開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券を買って入場。この楽団の演奏を聴くのは初めて。知った契機は過去に行った演奏会でもらったチラシ。
行こうと思った理由のひとつは曲目。シューベルトの4番とブルックナーの3番。もうひとつの理由は,いたって下世話なもので,“青春18きっぷ”が使えたからだ。
● シューベルトの4番はシューベルト19歳の作品。作品そのものについてどうこう言える能力はぼくにはない。「未完成」の次に聴く機会を得ているけれども,生で聴くのは今回が3度目だと思う。Orchestra HALと東京大学フォイヤーヴェルク管弦楽団の演奏で聴いている。
CDで聴くこともそんなにはないので,そもそもが聴くという体験が絶対的に不足している。わかっちゃいるんだけど,これがなかなか修正できない。
今回は第4楽章のフルートが印象に残った。たんに出番が多かったからではない。フルートの音色ってもともと透明感が高いと思うんだけども(細く遠くまで届くというイメージ),その透明感ね。「悲劇的」なのに暖色を感じるところもあって。
● ブルックナーでは第2楽章がシンフォニックというか,オーケストラを聴いているという実感を味わった。
身を任せることができる。いいようにしてというんじゃないけれど,ハラハラドキドキというのは1ミリもない。
● 指揮は山上紘生さん。藝大指揮科の4年生らしい。音大(美大もだけど)に進む人って凄いなぁと思うのは,18歳にして自らの退路を断つ決断をしているところだ。
音楽で食べていけるかどうかはわからない。っていうか,その可能性は,ザックリ言えば,考えてはいけない。
“ま,いっか”って決めた人もいるのかもしれないけれども,“ま,いっか”で決められるのも才能の内だ。
今はどうなのか知らないけれど,昔は法学部や経済学部は“つぶしが利く”と言われていた。退路を断つことを先送りできた。それで,ぼくも法学部を選んだ口だ。
そんな自分からすると,若い山上さんが大きく見えるわけですね。男の21歳や22歳はまだまだ幼さを残すのだけれども,彼の前にひれ伏したくなる。
ティアラこうとう |
しかし,演奏の水準と空席の多さはまったくそぐわない。この演奏ならもっと聴衆が入って然るべきかと思われた。
● 演奏が客を呼ぶというのがおそらく理想だけれども,いい商品なら必ず売れるとは限らない。営業が必要だ。
こういう演奏会でも集客努力というのは必要なのかねぇ。これで客が来ないのは客がバカだからだ,と居直るのも一案だとは思うんだけど。
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