2019年6月30日日曜日

2019.06.30 東京グリーン交響楽団 第29回定期演奏会

文京シビックホール 大ホール

● 東京グリーン交響楽団,「30年近い歴史」があるようなのだが,今回が初めての拝聴。開演は午後2時。チケットは1,000円。当日券で入場
 曲目は次のとおり。指揮は北原幸男さん。
 ヴェルディ 歌劇「ナブッコ」序曲
 ハチャトゥリアン 組曲「仮面舞踏会」
 ショスタコーヴィチ 交響曲5番 ニ短調
 アンコールはショスタコーヴィチ「二人でお茶を」

● 前半,後半とも,演奏前に北原さんのスピーチあり。ぼくは演奏会には演奏以外のものはない方がよいという意見だけれども,こういうものを聴きたいと思うお客さんも多いだろう。
 どちらがいいのか。こういう問題は考えても結論は出ない。催行者としてはやりたい方を択ればいい。

● その北原さん,顔立ちも体型も,どこから見ても貴族という感じだね。やんごとなきお血筋の人というイメージ。
 宮内庁式部職楽部洋楽指揮者を長く務めているのも宜なるかな,とよくわからないながらも思えてくる。

● 聴いている側の意識を外に拡散させるような演奏。といっても,通じないだろう。書いてる本人がモワッとしているんだから。
 「仮面舞踏会」のストーリーはパンフレット冊子の曲目解説にも記されている。愚かな男の物語だ。しかし,これだけの執着を妻に対して抱ける男はリアルではそうそういない。もっとずっと手前で折り合いをつける。そうじゃなかった実話は伝説となって後世に残る。
 生命力が旺盛なのだ。その旺盛さを自分でも統御できなくなる。そういう側面もあるのじゃなかろうか。

● それゆえ,放埒というのではないけれども,そうした統御できない自身の生命力をもてあます感が演奏でに出ているといいと思うのだ。
 そういうものは意識してかしないでかはわからないが,作曲家が楽譜に翻案しているのかもしれない。その楽譜を演奏に翻案すれば自ずとそれが演奏に現れるものかもしれない。
 というのはしかし理屈であって,そんな予定調和はまずあり得ないとしたものだ。個々の奏者の解釈に組み込まれる話だろう。

● で,そのどうしようもなさが演奏に出ていた・・・・・・かどうかはわからない。わからないけれども,演奏を聴きながら,フワフワと,時にグラグラと,気持ちがざわつくのを覚えた。
 それを“意識を外に拡散させるような演奏”と言ってみたまでだ。

● ショスタコーヴィチの5番は,ぼくの中でもベートーヴェンの5番に次ぐ,ミスター5番になっている。なぜかというと,構成が古典的で単純明快だからだろう。ぼくのような者でもついていきやすいのだ。
 演奏する側にはやっかいな曲かもしれない。巷間言われているような,第4楽章冒頭に A-D-E-F という音を置いて「A・プーシキンの詩」を暗示しているとか,「このシンフォニーによって彼の立場を回復することが失敗した場合に,自分の秘密の信号がいつか将来的に解読されることを望んだ」という類のことだ。

● そういうものの当否を判断する能力も資格も自分にはないけれども,そうした言説からは自由でいた方がいいような気がする。要は,音の流れを聴いて,自分なりの好き勝手なイメージをあてはめる。それが聴き手の特権というべきだ。
 一方で,奏者にしか見えない景色もあるだろうと思う。楽譜をジッと見つめていると,そこから立ちのぼってくるショスタコーヴィチの思いや表情があるのかもしれない。
 で,それがあるとして,巷間流布している言説はいったん頭から追いだす作業が必要なのかも。学習しすぎはよろしくない。曇りのない目を獲得するにはアンラーニングが必要なのだ,と思ってみたりもする。

● 以上のことは今回の演奏とは関係ない。聴覚と視覚で充分に楽しむことができた。フルートをはじめ木管は充分以上に楽しめる水準。どうしても木管が目立つわけだけども,それも弦がたしかであればこそ。
 演奏をどこまで細かく捉えることができるかという意味での解像度が高い人なら,いくつか注文を付けたくなるのかもしれないが,幸いなことにぼくの解像度は低い。
 これだけやれれば文句が出るはずがない。在京のハイレベルなアマチュア・オーケストラとまた出会えたという満足感をもって会場を後にした。

2019.06.29 立教大学交響楽団 東京演奏会

東京芸術劇場 コンサートホール

● 今夜は日本橋蛎殻町のホテルに宿泊。17時からホテルで飲んでいる。まぁ,何というのかぼく的には優雅な時間だ。それを1時間で切上げて,池袋に向かった。立教大学交響楽団の演奏会があるため。
 いやね,もっと飲んでいたかったし,その後は人形町でラーメンでも食べて,風呂入って寝たいな,とか思ったわけですよ。何もわざわざ池袋に出なくても,と。

● そこを押して出かけてみた。会場に入るときに荷物検査を受けた。大阪でG20が開催されている。その影響がこういうところまで及んでいるということか。
 東京にある立教大学のオーケストラが東京で演奏するのに,なにゆえ“東京公演”なのかというと,立教交響楽団は同志社交響楽団との合同(交歓)演奏会を東京と京都で交互に開催しているらしく,それが京都で行われた年には,東京で“東京公演”を開催する習わしであるらしい。

● 他に定期演奏会もある。けっこうな活動量だ。大学オケの場合は活動量と演奏水準は概ね比例するという法則があって,これは期待が持てると思わせる。
 ただ,学生側の費用負担は相当額にのぼるだろうから,練習とアルバイトで時間が埋め尽くされて,勉強なんぞにうつつを抜かしている暇はないかもしれないね。

● 開演は19時。座席はSとAで,それぞれ1,500円と1,000円。S席の当日券を買って入場。
 曲目は次のとおり。指揮は山上純司さん。
 ボロディン 歌劇「イーゴリ公」より“ダッタン人の娘たちの踊り” “ダッタン人の踊り”
 ドヴォルザーク 交響曲第8番ト長調 
 アンコールはドビュッシー「小組曲」より“バレエ”

● コンミスの躍動感が素晴らしい。その躍動に過剰はない。オケを引っぱるために意図してそうしているわけではない。自ずからなるものだ。
 ヴィオラトップにも注目。静かな闘志(?)を湛えている感じ。ドヴォルザーク8番の第2楽章のフルート独奏にもウットリさせられたし,第4楽章冒頭のトランペットのファンファーレもほとんど完璧だと感じた。
 以上を要するに,尋常ならざる水準にある。すごいぞ,立教オケ。よくぞ「もっと飲んでいたい」誘惑を退けてここに来たものだ。偉いぞ,俺。

● 「もっと飲んでいたい」誘惑は退けたのだが,ともかく飲んでいるわけだ。濃いめのハイボールを2杯飲んでいる(ジョッキでなくて普通のグラス)。演奏を聴く前にアルコールを入れるなんてことは,もちろん,普段はしない。ちゃんと素面で聴く。
 けれども,たいていのホールではワインなどアルコールを供しているわけで,開演前や休憩時間にそのワインを飲んでいるお客さんはけっこういる。
 つまりですね,ほど良く酔って聴くというのもありかなぁと思ったんでした。評論家然として聴くのじゃなくて,まるごと楽しもうとすればこれはいい方法かもしれない。


● 昔の貴族もそんな聴き方をしていたのではないか。アルコールを嗜んだかどうかはさておき,リラックスして聴いていたのでは。
 彼らの多くは今のぼくらより鑑賞眼は確かだったろうと思う。奏者に近い眼力を持っていたろう。それゆえリラックスが功を奏するという面はあったかもしれないにしても,ぼくらもぼくらなりにリラックスを心がけた方がいいのかもしれないやね。

● ただし,条件が2つある。ひとつは,最初からリラックスではダメだということ。素面で聴く回数を重ねてからリラックスに移るのがいい。
 もうひとつは,演奏がダメだとリラックスなんてのは吹っ飛ぶということだ。リラックスして聴いていいのは,いわゆる“いい演奏”に限られる。聴き手にとって“いい演奏”とは何か。定義はない。聴き手がいいと思った演奏が“いい演奏”だ。
 将来,ベルリン・フィルやウィーン・フィルの演奏を聴く機会があったとして,そのときにリラックスで臨めるかどうかまったく自信はないが,心がけとしてはそちらに軸足を置いた方がいいのかもね。

● ともあれ。この楽団の演奏を聴くのはこれが2回目だ。前回はこれほどの驚きを受けたろうか。どうも思いだせない。思いだせないということは,受けなかったということだよな。何を聴いていたんだか。
 大学オケというと,早稲オケと東大オケにはほとんど尊崇の念を抱いているのだが(慶応ワグネルは聴く機会を得ていない),3つめを見つけたかも。かなりの水準だ。一般大学でよくぞここまで。

2019年6月24日月曜日

2019.06.23 ブルーメン・フィルハーモニー 第49回定期演奏会

ティアラこうとう 大ホール

● ブルーメン・フィルハーモニーの定演。初めての拝聴。開演は午後2時。当日券(2,000円)で入場。

● 曲目は次のとおり。指揮は新通英洋さん。
 モーツァルト 交響曲第38番 ニ長調「プラハ」
 ブルックナー 交響曲第7番 ホ長調

● 奏者を見ると男性比率が高い。若い人が多い。ポツリポツリと中年がいる。

● これほど前のめりなモーツァルトを初めて聴いた。力強いモーツァルトだ。コンマスのキャラだろうか。グイグイと向かっていく。
 ブルックナーの7番も同様で,すこぶるアグレッシブ。この曲をノーミスで通せるなんてあり得ない。ミスはあったけれども,それがどうしたという感じ。躍動感に満ちている。このあたり,聴く側の好みはあるかもしれないが,ぼくはこれを良しとする。

● 東京には水準の高いアマチュアオーケストラが数多くあることは知っている。最近聴いた中でも,楽友協会交響楽団アウローラ管弦楽団がある。
 今回また,そのリストに追加すべき楽団に出会ったということ。これらのすべてを聴きに行くのは,栃木の在にいる身としては不可能に近いほどに困難だけれども,できるだけの努力はする価値があると感じる。

● ティアラこうとうにはもう何度も来ている。錦糸町から歩くことが多いのだが,住吉の方が近いので,住吉から歩いたことも何度もある。
 で,住吉駅からだと数分のはずが,今回は30分以上かかってしまった。地下鉄の出口を間違えたからだ。簡単に修正できると思っていたのだが,自分が並外れた方向音痴であることを忘れていた。

ティアラこうとう
● スマホの地図やナビは役に立たない。東に行けと言われても,どっちが東なのかわからないからだ。
 こちらの向いてる方向に地図を合わせてくれると,助かるんだがな。そうすれば,あとは地図を見て歩ける。音声ナビは要らん。
 って,あれですよ。ここには何度も来てて,勝手知ったるつもりになっていたんですがな。見当識が完璧になくなるんですなぁ。
 結局,コンパスアプリをスマホにインストールした。これで次からは大丈夫だろう。

● ま,だいぶ時間の余裕を見ておいたので事なきを得たけれども,こういうところ,気をつけないといけないね,方向音痴はね。

2019年6月10日月曜日

2019.06.08 鹿沼ジュニアフィルハーモニーオーケストラ 第30回定期演奏会

鹿沼市民文化センター 大ホール

● 鹿沼ジュニアフィルの定演。定演は3回目の拝聴になる。開演は午後6時。入場無料。

● 毎回,かなり難易度の高い曲に挑んでいるようなのだが,今回はムソグルスキー(ラヴェル編)の「展覧会の絵」とフンパーディンクの歌劇「ヘンゼルとグレーテル」抜粋版。
 指揮は今回も益子和巳さん。

● 「展覧会の絵」のような難しい曲をどうしてジュニアがチョイスするのかというのはさておいて,冒頭の金管がやや苦戦しているっぽかった。ジュニアなんだからそれがあって当然だ。
 途中でバットを止めないで振り切ってしまえばいい,と気楽な観戦者は思う。小事故にとどめようとしないで,中や大になってもいいから,振り切ってしまえ。
 ワンステージで失敗なんか何度したってかまわない。縮こまるな。堂々と間違えろ。未熟を恥じるな。“今”はあくまで途中経過にすぎないのだ。

● とはいっても,演奏する方とすればオッカナビックリを免れないだろう。本番で震えるというのもなくはないだろう。
 そうであっても,本番をムシャムシャと喰ってしまえるくらいのメンタルタフネスがあると,これからの人生を生きていくうえで大きな武器になる,とぼくは思う。
 それは,たとえば勉強ができるとか,成績がいいとか,生まれつきルックスに恵まれているとか,そういうことよりもはるかに効用の大きなものだ。
 特に,男子奏者にこのことを訴えたい。少しくらいのミスでびびるな。ポーカーフェイスを維持しろ。

● 弦のうねりは素晴らしい。ヴァイオリン,ヴィオラ,チェロ,コントラバスのいずれも。恐れ入ってござるというレベルにある。
 豊富な練習量があってのものだろう。「展覧会の絵」全曲を通じて,不安を感じさせることは一度もなかった。

鹿沼市民文化センター
● 歌劇「ヘンゼルとグレーテル」は原作(グリム童話)の尖ったところをだいぶ削って,ストーリーを丸くしてある。子供も大人も安心して見ていられるわけだが,その分,子供にとっても刺激は少なすぎるかもと思わないでもない。
 グリム童話の元になった話もたぶん存在するのだろう。身も蓋もないような話なのであろうと思うのだけどね。

● その分,歌い手も含めた演奏やセットがものをいう領分が大きくなるかもしれない。今回はジュニアオケが主役なのだから,オケをあまり喰わないように配慮したのだろう。
 当然,いわゆるコンサート形式だし,全曲ではなくハイライト版になった。歌い手陣は荻野桃子,大西千恵子,坂寄和臣,菊川敦子,岩瀬進の5氏。

● コミカルな楽しい舞台だったのだが(岩瀬さんの貢献が大きい),管弦楽としてはコミカルだの楽しいだのとは言っていられないはずだ。
 自分たちが楽しんでいなければお客さんも楽しめない,というのは,ざっくり言ってしまえば嘘だ。そんな予定調和は存在しない。演奏する側が苦しんでいるから観客は楽しめるのだ。
 で,ステージ上で演奏するジュニアはだいぶ苦しんでいるように見受けられた。

● 当然ながらアンコールはなし。終演は20時。夜の鹿沼の街を見るのはひょっとしたら初めてかもしれない。といって,夜の鹿沼の街で新たな発見があったわけでもない。
 ともあれ,夜の鹿沼の街をJR駅まで歩いて,ちょうどやって来た日光線に乗り込んだのだった。

2019年6月3日月曜日

2019.06.02 栃木県交響楽団 第107回定期演奏会

宇都宮市文化会館 大ホール

● 昨夜から東京のホテルに泊まっている。せっかく東京に来たからには目一杯,東京を満喫したい。東京を満喫するとはつまり,ホテルでマッタリするというのと同義だったりするわけだけども。
 が,朝食を時間をかけて食べただけで,すぐ宇都宮に向かう東武電車に乗った。午後2時から栃響の定演がある。前売券を買っている。

● というわけで,午後には宇都宮市文化会館にいた。チケット(前売券)は1,200円。曲目は次のとおり。指揮は末廣誠さん。
 ベートーヴェン 交響曲第8番
 R.シュトラウス 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」

● 演奏もこの順番。メインはシュトラウスの大曲ということなのだが,どちらかというとベートーヴェンの方が印象に残った。特に第1楽章。
 この曲は生でも何度も聞いているし,CDでもしかりだ。その視聴記憶というか,ぼくの耳に残っているベト8より,今回はわずかにテンポが速かった(と感じた)。その“わずか”の効果はわずかではない。

● 楽章間にあまり間を入れず,一気呵成に走り抜けたのも与っているのかもしれないのだが,緊迫感に満ちた演奏だった。ステージから目を離せない。つまりは吸引力が強いということ。
 栃木県内の他のオーケストラを聴くとそれぞれに届くものがあって,別に栃響なくてもいいかも,などと思うことがあるのだけども,こうして栃響の演奏を聴いていると,この曲をこんな形に造形できるのは栃響だけかもなと思う。
 ま,このあたりはかなりいい加減だ。ご都合主義というかね。

● ベートーヴェンはこの後に第9番という途方もないものを残してくれた。それゆえ,8番が陰に入ってしまっている感がある。
 が,もし彼が第10番を完成させることができたとしたら,おそらくそれは8番の系譜に連なるものではなかったかという気がする。9番の延長線上にあることはないだろう。あのテーマで9番の先があるとは考えられないからだ。

● ベートーヴェンにあと数年の寿命が与えられたら,モーツァルトが最晩年に見せた俗塵の全くない透明感を醸すに至ったろうか。至ったとすれば,その素地となるのは8番しかない。
 いや,ベートーヴェンはそこには行かなかったろうな。慟哭するような無垢な悲痛を見せたのではあるまいか。人間的な,あまりに人間的な。晩期の弦楽四重奏曲を聴くと,おそらくそうだったろうと思われる。

● ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」は各国語に翻訳されて,日本でも岩波文庫をはじめ文庫だけでも数種出ている。読もうと思えば今からでも読める。実際,中学生でこれを読んだという早熟な人もいるだろう。
 そういうおまえはどうなのだと言われれば,ぼくは読んだことがない。若い頃,最初にヘーゲルに手を出してしまったのだ。これがいけなかった。
 タイトルも忘れたが,『法哲学』ででもあったろうか。1行もわからなかった。翻訳が悪いのだろうと思ったが,ドイツ人がドイツ語で読んでもわからないらしいから,翻訳者の責めに帰すのは申しわけない。
 ともあれ,以来,ニーチェにもハイデガーにも手を出すのはやめることにして,今日に至る。

● ということになると,シュトラウスのこの曲を聴いても,隔靴掻痒になるのかならないのか。
 ニーチェの作品を読んでなければ,シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を味わうことはできないとは決して思わないが,しかし,何やらモヤモヤ感は残る。読んだからといって消えるとも限るまいがね。

● ともあれ,シュトラウスは読んでいるわけだ。哲学科の学生だったのだから当然だということではない。
 Wikipediaによれば「1883年2月にわずか10日間で第1部が執筆され,同年6月に出版。続いて,同年夏に2週間で第2部、翌1884年1月に10日間で第3部が執筆され,4月に第2部,第3部が合わせて出版されたが,ほとんど売れず反響もなかった。最後に1885年に第4部が執筆されたものの,これは引き受けてくれる出版社がなく私家版40部が印刷され,その一部が親戚や知り合いに配布されただけであった」とある。が,その時点でシュトラウスはすべて読んでいる(らしい)。
 やはり,わかるかわからないかは別にして,目を通しておくべきかねぇ。指揮者の末廣さんは読んでいるだろうね,当然。

● こういうのって他にもある。「ペール・ギュント」にしたって,イプセンの戯曲を読んでる人は少ないだろう。
 それで何か困ることがあるのかといえば,ないかもしれないのだが(粗筋を知っていればいい),それでも読んでるに越したことはないだろう。原作はたぶん,退屈かもしれないのだが。
 「カルメン」もメリメの小説を読んで,オペラではストーリーをどう変えているのかを知っておいた方が解釈の役に立つかもしれない(立たないかもしれない)。

● というようなことを考えているうちに演奏は終わった。
 むむぅ,これで聴いたといえるのか。